文明と文化

文明の機器スマートフォンは、コミュニケーション文化も変える。理論など知らなくても、文明は進む。そして昔からの文明は廃れてゆく文明の機器スマートフォンは、コミュニケーション文化も変える。理論など知らなくても、文明は進む。そして昔からの文明は廃れてゆく

「え~まだスマホも持ってないんですか」
「ラインやってないんですか?」

個人的には、そんな言葉も聞き飽きてきた。とにかく時代は間違いなく進んでいる。そして乗り遅れているもの、乗り越しているものがある。

スマホなどの情報機器は、文明が進んで格段に変わった。もちろんスマホのコミュニケーションは文化も変えた。いずれも留まるものではない。ただし、変わってゆくことも、変わらないこともどちらが正しいとも断言しがたい。必要であれば無くすことはできないし、無駄なことに気づかないままでいることも多い。

これを被害者的に書くと、文明は知らない間に進み、文化は知らない間に廃れてゆく、となる。
気持ちのどこかに文明が進歩することや、文化が廃れてゆくことになんとなく抵抗感がある。その原因はスマホやコミュニケーション手法の変化ではなく、年を取ったからだと言われる。

じつは、住宅を見る目もあまり変わらない。

文明の住宅

耐震・高断熱・高気密・省エネルギー・燃費・太陽発電でローン返済・家庭用蓄電池・・・

どれをとっても、文明の話しばかりしている住宅会社が多い。これらの基礎技術と部品を開発している住宅メーカーなどほとんどないのに、まるで自分で開発したかのように喧伝している。あまりにもこぞって競い合うものだから、本当に消費者が求めているかのように思えてくる。
震災があれば地震のこと、地球環境を騒げばエネルギーのことに、確かに一般の人の興味は移る。でも、そんな浮世の文明機器が、住宅の興味の中心であるとは思えない。選挙で選ばれたはずなのに、選選挙民の目を盗んで活動している構図と、後先の違いだけで似ていると感じる。
住宅業界はどうやら、当選(採用)さえすればどうでも良い、文明ばかりで語る世界になってしまったようだ。

コンセントがキッチンの天板からせり出してくる。文明の進化は止まらないが、住宅は設備でつくるものではない。<br />設備のはなしばかりする住宅メーカーは本業を失っているコンセントがキッチンの天板からせり出してくる。文明の進化は止まらないが、住宅は設備でつくるものではない。
設備のはなしばかりする住宅メーカーは本業を失っている

文化の暮らし

東日本大震災では、あまりにも多くのことに気づかされた。

原発事故で、電気を生み出すべき発電所が、電気がなければ動かず、原発ひとつが稼働しなくなると、首都の機能に大きなブレーキがかかることも体験した。まるで空気のように無意識のうちに電気を無駄に使っていた。節電で少し暗くなった東京で聞かれた言葉は、「これくらいの暗さでちょうど良い」だ。やせ我慢ではなく、電気を使いすぎていることに気づいた。そして今でも、電車内の節電やスーパーの節電は続いている。

同じように電力が足りなくなると、緑のカーテンが推奨された。続けている人も多い。

2014年は六本木、丸の内、神戸など各地で打ち水のニュースが流れた。文明的なエビデンスとしては、ただ水の温度で冷やしたのではなく、水の蒸発するときの気化熱を利用して地表面温度を低下させている。ということだが、そんな文明的な説明よりも、日本には「打ち水」という文化的、歴史的な言葉の方が動きやすい。

家だって文明の設備機器を置くなら置けばよい。でもそれは住宅メーカーの提案ではない。
余分な明るさにせず、ヨシズや緑のカーテンを下げるフックをつけ、打ち水ができるような広めの土間を作ることの方が大切だ。

結局、目の前の設備の面白さだけで家を語る住宅屋が増えすぎているのだ。<br />住まいは、せめて文化を半分にして話さないと、真の姿は見えてこない結局、目の前の設備の面白さだけで家を語る住宅屋が増えすぎているのだ。
住まいは、せめて文化を半分にして話さないと、真の姿は見えてこない

文化の住宅

考えてみれば、家を求めようとする人の、根源のニーズは「今の生活を変えたい」であり、その中では間取りの興味が常に上位にある。家族の関係や、親子の関係、さらには友だちとの関係、そしてインテリアデザインは、微妙に間取りにも影響を及ぼす。その意味では、間取りにも流行り廃りがあって、変わっていてもおかしくはない。文明のように立派なエビデンスを並べることはできないが、忘れてはいけないはなしだと思う。

そう、スマホがこれだけ浸透したのなら、どうしてもっと間取りのことを考えないのか。

近隣と血縁の家族関係から、東京への大移動とともに核家族化して家の間取りが変わった。同じように、情報機器の発展により、家族の絆から友だちの絆に変わっているだけのことだ。近隣と血縁の崩壊も危ぶまれたように、家族の崩壊も危ぶまれる。でも友だちがたくさんできることは、決して悪いことではない。

池波正太郎の小説を読んでいると、死に水をとってくれと頼むシーンがいくつかある。自由に生き、子にも自由を願うからこそ、わが子ではなく死ぬ時の自分にふさわしい人に死に水を願うのだ。もちろん受ける側も、それを大事に受け取る。そんな潔い時代がまた近づいているのかもしれない。

そんな、友だちを大切にする家。新しい時代には、新しい間取りが出てきそうな気がする。

2014年 09月24日 11時41分