発生の理由が分からない、練馬区の飛び地
実家が練馬区の東部、埼玉県新座市との境界に近い場所にあり、飛び地は子どもの頃から身近な存在だった。新座市片山3丁目内に東京23区内唯一といわれる練馬区西大泉の飛び地があったからだ。この飛び地、地理や地図が好きな人には有名な存在で、飛び地、練馬区で検索をかければ必ず出てくる。西大泉6丁目から数10mほどしか離れていない場所で、地図上で計測してみると広さは約30m×60mほど。しかも、長方形に二か所の凸がある変な形をしている。さらによく見ると、家の中に都県の境界線がある住宅も。
なぜ、こんな変な形に飛び地があるのかと誰しも思う。多くの人たちが記事を書くためなどに練馬区に問合せをしているが、明確な理由は不明。しかも、区は昭和49(1974)年に開発事業者が相談に来るまでこの事実を知らなかったそうだ。
地形的に見ると周囲と一続きの土地で、過去の空中写真から昭和30年代は畑、それ以降に宅地開発されたことは分かるが、なぜ、ここだけが飛び地、つまり「同じ行政区に属するが、他に飛び離れて存在する土地」(広辞苑)になっているかを説明することは難しい。子どもの頃には「宅地として開発された時に間違って登録されたのでは?」という説を聞いたが、何かしらの手違いで生まれてしまったと思うのが妥当なのかもしれない。
しかも、同じ県内、都内での飛び地と違い、都県をまたぐため、住所が違うだけで土地の価格に差があり、行政が解消しようとしても不調に終わっているという話も長年聞いていた。多少不便でも東京都練馬区に属していたほうが資産価値が維持されるというのだ。実際、路線価図で見ると、その差は歴然。この違いを埋めるのは難しそうだ。
村ごと全部が飛び地、和歌山県北山町
練馬区の例は飛び地となった要因が不明だが、日本の飛び地全体(!)でみると、何らかの要因がある場合も多々ある。整理してみると大きく2種類に分けられる。ひとつは主に地理的な要因。そしてもうひとつ、人為的なものである。
地形的な要因が飛び地につながった例としては和歌山県東牟婁郡北山村がある。場所は三重県、奈良県、和歌山県と3県が接するあたりで、北山村は三重県と奈良県に囲まれ、村丸ごとが飛び地。村のホームページには「全国唯一、飛び地の村」と書かれている。
村のホームページには飛び地になった経緯も書かれている。要約すると飛び地になった直接の要因は1871(明治4)年の廃藩置県。
北山村は村域の97%を山林が占める林業で栄えた地域で、木材の輸送には北山川、熊野川を利用、筏で和歌山県新宮市に運んでいた。そのため、北山村と新宮市は離れてはいるものの共存共栄、経済的に近しい関係だったのだ。地形を無視して地図だけで見ると奈良県とは地続きだが直接通じる道路はなく、三重県とも北山川が間にあるため、ほとんど交流は無し。そこで、廃藩置県時、村民から「新宮が和歌山県に入ったのなら自分たちも」という声が上がり、和歌山県に編入されたという。地形と歴史的経緯が飛び地を作ったわけである。
舟運から車へと輸送手段が変化、道路の整備が進んだことで近年は隣接する三重県熊野市との関係が深まり、平成の大合併では同市との合併を模索する動きもあった。だが、住民投票では熊野市よりは新宮市との合併をとの声が多く、最終的には合併しないままとなった。ちなみに北山村といえば日本でここにしか自生しない柑橘類「じゃばら」の産地。興味のある方はぜひ、検索してみて欲しい。
*流れを簡略化するため、市町村名は基本的には現在のもののみを使用した(以下同)
河川が生んだ飛び地もどき
河川はしばしば自治体の境界となるが、その境界を挟んで両側に同じ自治体がある例も多数ある。この場合は飛び地とはいわないそうだが、首都圏には多くの事例があって身近な存在でもある。そこでここではちょっとイレギュラーながら、そうした例を紹介しよう。
現在の河川は主に護岸で固定されているが、それ以前の時代、河川は動くものだった。多摩川の両岸に等々力の地名があることから分かるように、かつて陸続きだった土地が川の位置が変わったことで別れてしまうということがしばしばあったのだ。また、河川の付け替え、開削、改修工事などでも同様に地続きだった土地が別れることもある。地図で河川上の自治体境界線を追っていくと、必ずしも川の真ん中にあるわけではなく、一部が対岸におよんでいたりするのはそうした結果なのである。
たとえば江戸川区は荒川を挟んで左岸(上流から見て左側)にあるが、平井、小松川地区は右岸にあり、旧中川を挟んで墨田区と接している。荒川に分断されているが、旧中川の上流には中川があり、元々は中川が江戸川区と葛飾区、墨田区との境だった。ところが、中川の流れを分断するように荒川放水路が開削、1930(昭和5)年に完成したため、平井、小松川地区は荒川を挟んで対岸に位置することになったのである。同様に足立区の北千住も今は荒川で分断されているが、元々は地続きだった。
身近にあるかつての川と飛び地
川が分断した例で個人的に好きな場所をご紹介しよう。東京都町田市と神奈川県相模原市の境にある、その名も境川という二級河川の周辺である。境川はそれほど大きな川ではないのだが、かつては武蔵国と相模国の国境の一部だったことが名称の由来とされており、現在も一部が東京都と神奈川県の都県境となっている。
明治期の地図で見るとうねうねと曲がりくねった川なのだが、昭和40~50年に東京都が改修、現在はかなりまっすぐな川に。その改修工事の際に相模原市側に町田市の一部が残される形になり、地図を片手に歩くとかつてあった川が都県境だったことがリアルに分かるようになっているのである。
特に顕著なのは町田市役所の少し上流にある森野橋周辺。町田市側からアプローチすると橋を渡って右手に町田市の一部があるのだが、境川沿いにはかつての川のコンクリート護岸があり、さらに住宅地の家と家の間にある都県境はフェンスで囲われた川跡。誰が見ても分かりやすく痕跡が残されており、地形や土地の歴史に関心がある人なら興味深く思える一画である。
それ以外の河川でも、同様の飛び地もどきはあちこちで見られる。ご近所の自治体境界となっている河川両岸を細かく見ていくと新たな発見があるかもしれない。
武家社会の仕組みが飛び地の種に
続いて地形などには関係なく、人が生み出した飛び地を見ていこう。時代によって成り立ちは異なり、古いものでは鎌倉時代以降の武家社会の仕組みが生んだものがある。当時は土地は将軍などから褒章として与えられるもので、大名家の所領が各所に分散していることが珍しくなかったのは広く知られるところ。それが飛び地の発祥につながったのである。
たとえば、招き猫で有名な豪徳寺は彦根藩井伊家の江戸の菩提寺だが、彦根藩は本国の近江国彦根(現在の滋賀県彦根市周辺)以外にも武蔵国世田谷と下野国佐野(栃木県)に2万石の領地をもっていた。しかも、明治の廃藩置県時には最初、藩=県とされたため、世田谷区(正確にはそのうちの20村)は彦根県になった。さすがにこれだけの広さともなるとそのままでは不便と思われたのか、4ヶ月後には東京府に移管されたが、もう少し小さな領地のうちにはそのまま飛び地になった例も多数ある。
また、江戸時代、大名や旗本に分け与えられた領地は500石、3,000石など切りの良い数字になっているのが常だが、土地はそんなにうまくできていない。場所によっては275石しかなく、仕方ないのでちょっと離れたところの25石を追加するというような与え方もあったと思われ、それもまた飛び地となったと思われる。
入会地、新田が飛び地になった
それ以外にも寺社の所有地が飛び地になっている例、嫁入り時に持参金代わりに土地を持参、それが飛び地になった例など実にさまざまな要因がある。個人的にはその昔、青森県下北半島の中央にある霊場・恐山を訪れた際に恐山が大畑町に囲まれたむつ市の飛び地であることを聞いたことが印象に残っている。一時荒廃していた霊場をむつ市にある円通寺が再興したためだ。だが、その後、平成の大合併で大畑村はむつ市となったため、現在、飛び地は解消している。
入会地や新田など、農民の生活が作った飛び地もある。入会地とは集落など一定の地域の住民が特定の森林、原野、漁場などを共同で利用する権利のことで近代的な法制以前の、地域の慣習による仕組みである。たとえば茅葺屋根の合掌造りで知られ、世界遺産でもある富山県の五箇山では生活の場からは離れた場所に集落の茅場があり、毎年そこから茅を刈り取ってきては助け合いながら共同して屋根を噴き直していた。田畑として使いにくい荒れた土地が茅場となっていたことを敷衍(ふえん)して考えると、五箇山は別としても、他の入会地が飛び地的な場であった可能性は高い。
実際、長野県上伊那郡南箕輪村には入会権が元でできた広大な飛び地がある。隣接する伊那市を飛び越えたところに村の本体(!)とほぼ同じ、千代田区の2倍ほどの面積の飛び地があるのだ。元々は薪炭、肥料のために木を伐採、落ち葉などを採取していた土地であり、これだけの面積がありながら現在は(たぶん昔も)誰も住んではいない。
新田開発も同様に、今住んでいる集落から離れた場所で行われることが多かったと考えると、これまた飛び地の要因となったであろうことは想像に難くない。
平成の大合併が新たな飛び地誕生につながった例も
最後に近代になって以降の飛び地について。日本では明治、昭和、平成と3度の大規模な市町村合併が行われてきた。1888(明治21)年に71,314あった自治体数(この時点では町村のみ)は2021年2月時点で1,724(市町村合計)となっており、明治、昭和の合併は主には飛び地解消に貢献してきた。行政、住民からの解消の動きも長年続けられてきた。ところが、平成の大合併では協議が不調に終わるなどで逆に飛び地、しかも広大な飛び地を生んでしまった例がある。
たとえば北海道の釧路市では当初隣接する6市町村による広域合併構想があったが、徐々に離脱する自治体が出て最終的には阿寒町、音別町の3市町村合併に留まった。その結果、合併に参加しなかった白糠町の隣、大阪市の2倍近くもある音別町が飛び地となった。同様に北海道の伊達市や岐阜県の大垣市、栃木県桐生市などでも合併で飛び地が生まれている。青森県の津軽半島に至っては中泊町、外ヶ浜町、五所川原市がそれぞれに飛び地を抱えることになった。行政効率を上げるための合併が効率ダウンに繋がる可能性のある飛び地出現につながったのはなんとも皮肉な話だ。
いろいろなパターンの飛び地を挙げてきたが、これ以外にも橋が新設されたため、海上に埋め立てで土地が作られてためなど、飛び地が生まれる要因はまだまだある。地図を眺め、この飛び地はどうしてできたのだろうと妄想するのも楽しいもの。ぜひ、地図とにらめっこしてみて欲しい。
最後に私の大好きな(!)な飛び地をひとつ。鹿児島県鹿児島市の桜島である。1950(昭和25)年より前、桜島には東桜島村、西桜島村という東西2つの村があり、同年に東桜島村は対岸の鹿児島市と合併した。その後、平成の合併で桜島村(西桜島から名称変更)も鹿児島市と合併したため、現在は桜島全体が鹿児島市の飛び地に。桜島は鹿児島のシンボルでもあり、市内からはフェリーで15分ほど。遠いように見えて近い、話を聞いた時にはそう思ったものである。
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