通勤は子育てママの大きな負担

2010年秋。都内のJR、地下鉄駅に貼り出された広告は印象的だった。緑のきれいな公園に笑顔のファミリーの写真、そして「母になるなら、流山」「父になるなら、流山」という分かりやすいコピー。千葉県流山市の子育て世代誘致の広告である。こうした広告に加え、駅前から保育園に子どもを送迎する駅前保育送迎ステーションや教育に力を入れる姿勢が評価され、流山市ではここ数年で子育て世代が増加。今では全人口に占める30~40代の割合が最も高くなっている。

だが、母になるだけで人生はおしまいではない。その後をどう生きるか。子育てはもちろんだが、もうひとつ、仕事の問題がある。今の時代、母になっても仕事を続けたい人が多いはずだが、そこにいくつか立ちはだかる問題がある。そのひとつが通勤だ。

「共働きのママの平均通勤時間は30分。ところが通勤先にもよりますが、流山だと1時間近くはかかることになってしまう場合もあり、通勤だけで疲れ果ててしまう。その結果、なかなか働き続けられません」とは、近藤みほ流山市議会議員の弁。彼女自身も都内で働きながら2児の子育てをしていたものの退職。子育て世代の声を議会に伝えるべく、政治の世界に足を踏み入れた人だ。

各種統計からみると首都圏の平均的な通勤時間は1時間前後。それからすると流山が遠いというわけではないが、通勤するのが子育てママとなると話は違う。家庭でやらなくてはいけないことが多く、通勤に使う時間が大きなハードルになってしまうのである。

都内で働くか、専業主婦になるかの現状にもうひとつの選択肢を

ぼろぼろになっていた物件を改修したのもママたちの力。内装改修のワークショップに集まった人たちぼろぼろになっていた物件を改修したのもママたちの力。内装改修のワークショップに集まった人たち

その問題へのひとつの解決策としてオープンした場所がある。つくばエクスプレスと武蔵野線が交差する駅、南流山から歩いて3分、元エステサロンだった空き家を自分たちの手で改装して作られた「Trist」だ。立ち上げたのは、尾崎えり子氏。自身も2児の子育てをしながら都内で仕事をしていたが、そこに地域の活動も加わるともう続けられないと2年前に退職。流山で仕事を探したものの、今までの経験を生かせる仕事はなく、自分で会社を作ったそうだ。

「会社設立後、民間学童保育のプロデュースや市主催の創業スクールで講義を行うなど地域で働きたいママの支援をしてきたのですが、その間で気づいたのは流山には優秀なママが多いということ。ところが、通勤がハードルになって能力も、意欲もあるのに働けない。現状では都内でバリバリ働くか、専業主婦になるかの二択しかないからです。だったら、その二択に加え、通勤が不要な働く場という新しい選択肢があっても良いのではないかと考えました」。

とはいえ、自宅で仕事を続けていた尾崎氏にとっては投資が必要な新しい事業である。多少躊躇したところもあったそうだが、市や都内企業の協力を得て、覚悟を決めた。400万円の初期投資のうち、自己資金100万円、流山市が100万円の商店街空き家店舗有効活用事業等補助金を出してくれることになった。この動きに賛同した111人の支援者が集まり、クラウドファンディングで200万円余が集まった。このように多くの人たちの協力と期待を受けてオープンしたのが「Trist」だ。流山市としては「母になるなら」の次に、母になっても働きたければ働き続けられる街というモデルをここで生み出したいという意図がある。

オフィスと働く人の位置関係が変わり始めた

デスクの並ぶフリーアドレスのオフィスとイベントなどに使える空間、小さなキッチン、トイレからなる「Trist」。その目的は都内企業の誘致による雇用創出、人材育成による雇用支援、そして創業による雇用創出の3つ。うち、都内企業の誘致については日本最大のコスメ・美容総合サイト@cosmeを運営するアイスタイルの子会社であるISパートナーズが第一号企業として参画しており、流山在住の子育てママ8人を採用、すでに研修が始まっているという。

分かりやすく言えば、同社が流山にサテライトオフィスとして「Trist」の場を借り、そこに地元で採用した社員が働くという形である。これまでは社員がオフィスに行って、そこで働くのが当たり前だったが、ここではオフィスが優秀な社員のいる所にやってくるというわけだ。人材不足が言われる今、また、子育て、介護などでかつてのようにずっとオフィス内で働き続けられない人が増えるとの予想の中、オフィスと働く人の位置関係が変わっても不思議はない。

今回、参画を決めた2児の母、アイスタイルの共同創業者でISパートナーズの代表取締役社長でもある山田メユミ氏は「子育てをしていると場所と時間に縛られるのは辛い。このオフィスではフレックス制はもちろん、在宅で仕事をする、幼稚園のお迎えのために中抜けするなども可としていければと。働く人の意欲を前提に優秀な人がいるエリアに会社が出て行くこともこれからは大事と考えています」とこの仕組みへの期待を語る。また、同社では流山に限らず、首都圏近郊でのこうしたサテライトオフィスを今後、増やしていこうと考えているそうだ。

左上から時計回りに建物外観、奥にあるイベントスペース、奥から見た全体で左がフリーアドレスのワークスペース、右がコーヒーなどがサービスされる小さなキッチン、最後は玄関から奥を見たところ左上から時計回りに建物外観、奥にあるイベントスペース、奥から見た全体で左がフリーアドレスのワークスペース、右がコーヒーなどがサービスされる小さなキッチン、最後は玄関から奥を見たところ

子どもが生まれると24時間は働けない

尾崎氏を始め、参加していた女性の多くがママ。子連れで参加している人も多く、テープカットの司会者は子どもを抱っこしていた尾崎氏を始め、参加していた女性の多くがママ。子連れで参加している人も多く、テープカットの司会者は子どもを抱っこしていた

施設開業は2016年5月11日。それにあたってオープニングセレモニーが行われ、テープカット、施設の概要説明、そしてトークセッションが行われたのだが、ここではそのうち、トークセッション中で印象的だった言葉、やりとりをいくつかご紹介しよう。

トークセッションの登壇者は前出の尾崎氏、山田氏に加え、流山市長の井崎義治氏。最初にそれぞれの子育て事情、わけても子どもが生まれて変わった点が語られた。尾崎氏によれば、それはこんな違いだ。

「子どもが生まれる前は時間は24時間あって好きに使えたけれど、子どもができたら必ず6時にはお迎えに行かなくてはいけないなど、いろいろな制約が生まれた。通勤も子どもが生まれるまでは電車に乗るのは30分だけで楽勝と思っていたけれど、通勤前に保育園その他をいろいろ回るともっと時間がかかって、大変だということが分かった」。

山田氏もまた、以前は24時間働いていた人だ。でも子どもが生まれた途端、そのままのスタイルでは続けられないことが分かったという。「どうしても時間が足りないから、時間生産性を意識するようになった。短い時間でどれだけ生産性を上げるかです。ただ、自分ひとりだけではなんともならないところもあり、周囲のサポート体制も大事だと。子育てと仕事の両立はスタートダッシュのような力ではなく、持久走。サポートがないと長く走り続けることはできません」。

場を作る意味、コミュニケーションする意味

もうひとつ、場を作るということ、しかもそれが複数の人が同じ場所で働くシェアオフィスという形態であることに対してのやりとりも興味深かった。尾崎氏は複数の男性から「どうしてわざわざ費用をかけて場を作る必要があるのか?」と聞かれたという。「働くだけならノマドでいいんじゃないか?」と。

それに対し、尾崎氏は「ノマドには他人とのコミュニケーションがない」という。「女性はコミュニケーションを重視します。毎日、在宅ワークだと不安になる人もいる。子育て世代のママたちにとって地域コミュニティは必須。それを考えると、あちこちを渡り歩くノマドではなく、地域で同じ境遇の仲間やそれを支援したい方々が集まる場で働いて、自然とコミュニティができる場であることが大事だと思いました」という。

山田氏もシェアオフィスという形態にこだわったという。シェアオフィスで事業を立ち上げた山田氏はその時のシェア仲間とのつながりを今も大事にしているそうだ。また、井崎氏は千葉県下で最もNPOの多い流山という土地の特性を紹介しつつ、この場所でいろいろな人とコラボしてほしいと要望した。ここにもこのオフィスの特徴がある。

もし、目の前にある一定量をこなすだけの仕事をするのであれば、そこにコミュニケーションはいらない。集中できる空間があれば良い。だが、何か新しい発想や連携を必要とする仕事、モノを生み出す仕事は個人が一人で考えこんでいるだけでは足りない。このオフィスが目指しているのは単に量をこなす仕事ではないということだろう。

もうひとつ、印象に残ったのは井崎市長の「流山は市民の自己実現を後押しする自治体です」という言葉。子育てや介護をしながらでも働きたい人が働ける、仕事以外でも自分がやりたいことが住んでいる地域で実現できる街。ちょっと大げさに言うと、人生の最後に住んで良かったと思えるのはそういう街ではないだろうか。

Trist
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左から尾崎氏、井崎市長、山田氏。井崎市長は「テレビで六本木の託児付きシェアオフィスが紹介されていたが、託児はないものの、ここはママたちが自分たちで立ち上げたもの。より評価されて良いと思う」と自発的な動きであることを強調していた左から尾崎氏、井崎市長、山田氏。井崎市長は「テレビで六本木の託児付きシェアオフィスが紹介されていたが、託児はないものの、ここはママたちが自分たちで立ち上げたもの。より評価されて良いと思う」と自発的な動きであることを強調していた

2016年 06月20日 11時07分