「メイキング・オブ・ハリー・ポッター」は、よくぞこの土地を選んだ!
2023年6月16日、世界で2番目のメイキング・オブ・ハリー・ポッター(正式名称:ワーナー ブラザース スタジオツアー東京ーーメイキング・オブ・ハリー・ポッター)が東京に誕生した(以下「メイキング・オブ・ハリー・ポッター」と略す)。西武池袋線の支線の豊島園駅にある長年親しまれてきた遊園地「としまえん」の跡地である。
石神井川に囲まれ、高台があり、緑の多いこの地域は、イギリスのホグワーツ古城を重要な舞台とするハリー・ポッターにふさわしい。
しかもメイキング・オブ・ハリー・ポッターの南側には大正時代につくられた良好な住宅地がある。それはイギリス発祥の田園都市の思想を汲んだ土地なのだ。よくぞこの土地を選びましたと私は思う。
実は日本国内の数十ケ所の候補地から選ばれたのだという。力の入れ方、本気度が違う。集客だけを考えれば、もっと交通の便の良いところ、空港や主要駅の近くでもよかったであろう。だがハリー・ポッターの世界観を感じさせるには、この土地(場所)でなければはだめだと考えたのではないか。
メイキング・オブ・ハリー・ポッターの南側は「城南田園住宅」
メイキング・オブ・ハリー・ポッターの南側にある住宅地は城南田園住宅という(現在は「城南住宅」という)。1924年(大正13) に、あくまで個人が集まった城南田園住宅組合という組織をつくり、その組合が地主12名から共同借地をしてつくられた住宅地だ。東急沿線に典型的なように電鉄資本が開発した住宅地ではない.
なお「城南」というと普通は江戸城の南であり、大森山王あたりを指すことが多いと思うが、ここでいう「城南」は練馬城(14世紀末頃に豊島氏が石神井城の支城として築いたと言われる)の南という意味である。
大正時代の東京は都市環境が悪化し、郊外居住への願望が拡大していた時代である。城南田園住宅の中心人物である小鷹利三郎はこう書いている。
大都会の「日夜喧騒にしてかつ不快なる空気中」「窮屈なる小区域に圧迫せらる不愉快な」暮らしをしているが「家族が田園趣味を味わえて大自然の中でしらずしらずの間に健康を増進し」「日々の身心の疲労を慰めるに足る、いわゆる田園住宅地を物色したところ」「土地を府下練馬村向山に見つけ、以来種々交渉の結果ようやく今回城南田園住宅組合を創立し四拾名の同志と共に共同の目的に猛進せんとする」。「当地はいまだ交通不便にして一見住宅地に不適当なように見えるが、近く電車も複線となり電話も通るは既定の事実にして、学校などが続々計画されている」。「市内との交通問題も解決され理想的田園住宅となる」(現代的に書き改めた)。
当初の住民は、佐野利器、伊東忠太、医者、建築家、東大、東工大……
小鷹は山形県米沢市に生まれ、金沢医学専門学校を卒業し、その後東京帝国大学附属病院助手となった医者である。そのせいか、当初の住民には山形出身者と医者が多かった。山形県出身者は7人、うち米沢出身が5人。医者が9人である。
米沢出身で東大の同僚に建築家の佐野利器(としかた)がいた。小鷹は佐野と同じ大和郷(やまとむら)に住んでいたが、佐野を組合に誘ったのだ。
大和郷は駒込にできた近代的住宅地であり、旧三菱財閥三代総帥である岩崎久彌氏が1922年に六義園周辺の土地を分譲したものだ。ということは小鷹と佐野は大和郷に住むやいなや城南住宅組合をつくりはじめたことになる。これは少し謎である。もしかして大和郷が気に入らなかったのか、駒込あたりも都市化で環境が悪かったのかなどと、不審に思ってしまう。
また大和郷も、社団法人・大和郷会という住宅組合によってつくられているので、同じような組合方式によってさらに新しい住宅地をつくりたかったのかもしれないが、それにしてもやはり疑問は残る。それとも城南田園住宅は別邸のような扱いだったのか。
それはともかく、組合員集めは順調に進んだようで、最初の組合員41名が集まった。そのうち、医師9名、会社経営者・役員6名、会社員6名、教育・研究職6名。
いとこの矢島誠一も組合員だった。矢島は東京高等工業学校建築学科卒で、親戚筋にあたる建築家・伊東忠太の紹介で逓信省に勤務した人物だ。
学歴は東京帝国大学7名、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)4名。出身地は山形のみならず地方出身者が大半であった。地方出身であることが田園郊外への移住を希望する大きな要因となったことは想像に難くない。
また大和郷から引っ越してきた人が小鷹と佐野以外に2人いた。うち1人はやはり東大卒の医師だった。
前住地を見ると、他にも本郷区が3人、田端が2人であり、相当数が東大周辺から引越してきている。
敷地は平均460坪だが、最大のものは1,100坪で大きく、最小でも180坪。最多は300〜400坪だったというから、今から見れば相当広々している。1925年7月5日最初の建物ができ、これが組合のクラブ兼事務所だった。また住宅地には前日の4日の時点ですでに電気が引かれたというからかなり先進的である。
1926年には住宅地の道路整備として石炭殻を敷き、住宅地周辺には生け垣をつくった。そして1927年になるとようやく住宅が建ち始めた。夜に電灯を付けると蛾などの虫が無数に集まり床が埋まるほどだったというから、なんだか「となりのトトロ」のようである。
1927年には西武の豊島園駅もできたため1928年からは住民も増加した。そのため急な坂を削ってゆるやかにし、1929年には本格的な植林も行った。1932年にはガスも引かれ近代的な住宅地として完成していく。
ロンドン郊外の田園都市レッチワースの影響?
産業革命の先進国イギリスでは,周知のようにエベネザー・ハワードが20世紀末に 「田園都市」 思想を提唱し、1903年にはその思想に基づく田園都市レッチワースをロンドン郊外に建設し始めていた。
それは即座に日本にも紹介され、桜新町、洗足、田園調布などの住宅地を生むわけであるが、城南田園住宅もその1つだと言えよう。
城南田園住宅では、「組合契約」により環境維持が組合員に義務付けられた。1978年(昭和53)には「みどりの保全モデル地区」 に指定され、 翌79年には練馬区と 「みどりの推進協定」 を結んでいる。開発初期に植えられた桜が美しいことでも知られる。
イギリスの土地は王様の財産であるため、レッチワースは定期借地制度に基づき、住民が共同所有・共同経営する住宅地である。城南田園住宅の共同経営にもレッチワースの影響があったと思われるが、残念ながらそれを裏付ける資料はないという。
だが、ちなみにロンドンからレッチワースに行くには、ハリー・ポッターにも登場するキングクロス駅から行くのだ。
豊島園をつくった藤田好三郎
一方、としまえんは、もともと練馬城の城趾でありそこが豊島公園となったものである。1917年(大正6年) 樺太工業(後の王子製紙)専務であった藤田好三郎(よしさぶろう)が自身の静養地として、石神井川南側の12,000坪を入手したものだ。
家屋を建てず自然のままにして、運動場や園芸設備を整備して、休日ごとに家族で訪れていたというから、本当にイギリスの貴族かジェントリーのような田園暮らしである。
藤田は明治14 (1881)年3月13日に兵庫県の長左衛門の三男として生まれた。 明治40年に東京帝国大学仏法科を卒業して日本銀行に入り、4年後の明治44年には十八銀行神戸支店支配人となって大正5年まで勤めた。
その後、製紙業界などに大きな力を持っていた大川平三郎・田中栄八郎兄弟の片腕として幅広い事業展開をすすめ、 北海道興業、樺太汽船、中央製紙、大州製紙、 樺太工業など十数社の重役を務めた。
特に渋沢栄一の甥で根津に住んでいた田中栄八郎にその才能を認められて、田中の娘婿になり、丸の内にあった大川・田中事務所の総支配人として手腕をふるった。
大正6年に藤田は文京区千駄木の土地を買って家を建て大正10年4月に根津から引越した。しかしもう大正12年秋には中野花園町に3,000坪の家を買い移り住んでいる。
千駄木に新築した邸宅では子どもの養育に向かないという理由だったそうだが、どこが向かないのかは不明だ。「秋」というからには9月1日の関東大震災の後であろう。
とにかく藤田も小鷹も佐野も旧本郷区から中野や豊島園に引っ越した。そして田中は中野から豊島園のできる土地に静養に訪れたのである。
さらに藤田は1922年自身の住居を建てるため、隣接する6,000坪を追加入手。25年さらに石神井川北側の18,000坪を入手した。それがその後、豊島園になる。
また藤田は「城南田園住宅組合」の創立組合員にも名を連ねた。
当時、東京の人口激増という時代に、大土地を私有するのは不謹慎という風潮が起こっていた。また当時は子どもの教育・健康が重視され始めた時代でもあり、藤田は土地を一般に開放しようと考え1926年「練馬城址豊島園」を部分開園した。設計は造園家の戸野琢磨であった。
開園の目的は「非衛生な東京の小学児童に健康を与える」「公衆に運動場を与える」「園芸趣味を広めて心ゆくまで日光と土に親しめる」ことであった(『思い出のとしまえん』)。
また当時の藤田は雑誌記事に「風景を開発し盛んに観光外人を誘引せよ!」と書いており、富士山、日光などの東京を中心とした観光地開発をして宿泊客1,000人規模の大きなホテルをつくり、外国人観光客を増やせと言っている。まるで今の日本と同じであるが、豊島園開業にもかなり経済的な目算があったのだろう。
1927年には豊島園が全面開園、西武鉄道(当時は武蔵野鉄道)が豊島園駅を開業した。園内には、ぶどう園、温室、草花育成園、音楽堂、野外劇場、ボート遊びができる池、児童遊園地、動物園、貸し切り日本家屋、古城の食堂、大食堂、プール、野球場、陸上競技場などが整備された。としまえん閉園時まであったウォーターシュートは27年の時点からあり、林間学校、児童映画大会、野外劇場での手品・曲技・舞踊なども行われた。
しかし藤田の樺太工業が経営不振となり、1931年以降豊島園の所有者は転々とし、戦争中は休園し、46年営業再開した。そして51年、事業を西武鉄道株式会社が継承したのである。
としまえんの伝説のカルーセルエルドラド(回転木馬)
としまえんでも特に有名なものの一つがカルーセルエルドラド(回転木馬)であった。これはドイツの名工ヒューゴ・ハッセが製作したもので、1907年のミュンヘンのオクトーバーフェストで発表され好評を博した。
1911年、戦争の激しいヨーロッパからアメリカに渡り、ニューヨークのコニーアイランドのスティープルチェイスパークに設置され、同パーク閉園後は1964年まで倉庫に保管されていた。
これをとしまえんが遊園地のシンボルにしようと1969年に購入し、改修をして71年に設置をしたのである。
こういう欧米の歴史・娯楽文化との関わりも、としまえん跡地がメイキング・オブ・ハリー・ポッターに選ばれるための好条件だったかもしれない。
田園趣味、家族・子ども・教育重視の思想
このように1920年代からこの地区は城南田園都市と豊島園という2つの核によって発展したと言える。そこには欧米志向、田園趣味、家族・子ども・教育重視の思想がある。
メイキング・オブ・ハリー・ポッターも、単なるテーマパークというより一種のミュージアムであり映画制作を教える教育施設でもあるという。行ってみるとたしかに、ライド物や大規模な映像ショーがあるわけでもなく、特殊撮影など、映画の作り方を解説する展示が多い。こうした教育機能があるからこそ、東京都としてもこの地を防災公園にするという予定を変更してメイキング・オブ・ハリー・ポッターの建設を許可したのではないだろうか。
そして冒頭に述べたように石神井川に囲まれた地形はホグワーツ城の地形と似ている。ワーナー側もこの土地の自然の豊かさが気に入ったという。本当によくぞこの土地を選んでくれたと思う。
参考文献
城南住宅組合『心やすらぐ緑の城南』城南住宅組合、2006
練馬区立石神井公園ふるさと文化館編『思い出のとしまえん』文学通信、2022
内田青蔵「城南田園住宅組合住宅地について」山口廣編『郊外住宅地の系譜』鹿島出版会、1987
小宮佐知子「遊園地『豊島園』のあゆみ」『練馬区立石神井公園ふるさと文化館 研究紀要』第3号、2022
文京歴史的建物の活用を考える会『千駄木の近代和風住宅ーー安田邸が残った』文京歴史的建物の活用を考える会、1998
『実業の世界』1926年5月号
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