船場の独特の風習や文化は薄れつつある

大阪船場にある高麗橋大阪船場にある高麗橋

日常生活ではほとんど目や耳にすることがなくなった船場の言葉や文化。しかし、その独特の言葉や商人気質を感じる文化などから魅力を感じる方も多いと思う。

小説や芝居では、船場を舞台としてとりあげているものも多い。そんな船場の「商人のまち」らしさの魅力を探るべく、享保9(1724)年の創業以来、高麗橋のたもとで商いを続けてきた株式会社 澁谷利兵衞商店にお伺いし、9代目の当主である澁谷 善雄氏にお話を聞いてきた。

「船場らしさを見聞きできたのは先代のころまでで、今では船場の文化や言葉について語ることは、わたしでも難しいです。船場の街も商売としても外から来た人が増えて、もとからいる人たちは減りましたし、昔のことを知ってる人が少ないのが現状です。たとえば恵方巻きは船場発祥やといわれますが、私達の時代、海苔巻きを食べるのは運動会くらいでした。そやから、もし船場から恵方巻の風習が始まったんやとしても、実はそない古いものとは違うと思います。
恵方といわれて今思いつくのは、建物や入口の方角を気にする風習はあるかなぁというくらい。鬼門にあたる北東に入り口があるお店は、商売への影響を避けるために堺市にある方災除けの方違神社でお札をもらってきます。それくらいですかね」と、澁谷氏は少し困ったように笑った。

大阪船場にある高麗橋船場で代々、商売を営む澁谷利兵衛商店 9代目当主の澁谷 善雄氏

私財で橋を架け、建物を築いた船場商人の心意気

船場の街は、大坂城築城をきっかけに生まれ、栄えたといわれる。しかし、大坂城築城と同時に栄えたわけではないようだ。「船場」というその名の通り船着き場の多いまちで、北浜は本来「北の浜」だ。川が縦横に走っており、水運が発達していたため、商売に便利だった。

「このへんの昔の地図を見ていると、立派な建物などが船場の周りに見受けられます。船場の豪商たちは、私財で船場をよくしよう便利にしよう、とする気概がありました。なので、私財を投じて街のために建物を造ったりや橋を架けたといいます。有名なのは淀屋の主人がかけた淀屋橋でしょう。大坂には私財で造営された橋がたくさんあったようです。
ほかにもモダン建築で人気の高い中央公会堂は、株式仲買人である岩本栄之助の寄付で建設されましたし、船場の街だけでなく大阪の街の風景は、商人たちの寄付で変わってきたともいえます」と、澁谷氏。

大阪 中央公会堂大阪 中央公会堂

時代によって変化していく船場の商人と商売のかたち

船場地区にある高麗橋は大坂城へ向かうメインストリートである。船場の街が潤ったのは、大阪城のお膝元だから…と思いがちだが、船場商人の商売相手は武家だけではなかったという。
「船場のお店というても、もともとは小さなお店がほとんどでした。それが、船着き場での地方との取引きや行商によって大きくなっていったんです。船場商人が裕福になってくると、船場の中での商売でお金の循環がおこり、商売がより盛んになったといいます」と、船場商人が潤うにしたがって、豪商同士の商売も多かったようだ。

澁谷利兵衞商店は、もともと鰹節を扱うお店だった。だが、事態の変化によってアイディアをめぐらし、商売の形を変えてきたという。現在は結納品を扱う店となっているが、その契機は大正から昭和にかけての日本の婚礼の変化であった。
その時代は、民間も豊かになってきた時代であり、武家や豪商の儀式を取り入れ始めた時期だったという。澁谷利兵衞商店の7代目は、アイデアマンで、たとえばホテルでの結婚式や披露宴、結納などを始め、オリジナルでの結納品に力を入れたという。結納金は本来式服料で、反物やお酒などの現物を三宝に乗せたのが始まりだったが、7代目は工夫を加えた。日の丸の前で式をあげる「日の丸結婚式」を始めるなど、船場の結婚式を取り仕切っていたそうだ。このころから、結納品を澁谷利兵衞商店の品物で揃えるのがステイタスになったそうだ。

ほかの船場商人たちも、時機を見ながらアイデアを出し、商売の業態を変えて、全国区の企業となったりしている。商売人であるからこそ、伝統に固執せず、新しいことをどんどん取り入れていくのは船場商人らしさではないか、と澁谷氏は話してくれた。

澁谷利兵衛商店は最初は鰹節問屋として商いを行っていた澁谷利兵衛商店は最初は鰹節問屋として商いを行っていた
澁谷利兵衛商店は最初は鰹節問屋として商いを行っていた現在では結納品を扱うお店として商売をしている澁谷利兵衛商店

船場商人のアイディア力と商売を拡げる力とは

新しい商売を始める時は、人脈があればうまくいきやすい。澁谷利兵衛商店の7代目も、仲間たちと新しい商売にチャレンジしたのだという。

「アイディアマンの7代目は国鉄、今のJR大阪駅コンコースの下に商店街となる『専門大店』のきっかけをつくりました。澁谷利兵衛商店が、京都の宮崎箪笥店と共同で嫁入り道具展覧会を開いて好評を得たのをきっかけに呉服店や引き出物店が集まって約20店舗を開いたようです。これがまた好評を得て、船場だけでなく、心斎橋や西宮からも多くの商店が出店しました。今では、空港などにも専門大店があります。
実は、船場の旦那衆は、近所のお店などに寄ったり、料亭などで集まったりして、よく話をしていたようです。そんなアイディアも人集めも、料亭で顔を合わせて仲間内で話がでたのではないでしょうか」と、澁谷氏は話す。

また、商売人を育てる、といった「人材育成」にも積極的だった。
使用人たちが商売に熟練すると、「暖簾分け」といって別の場所でお店を持たせる。また、商売のつながりで見所のある人物の「後見人」として商人を育てていった。船場出身の実業家で朝日ビールを立ち上げた山本為三郎は、ボンドのコニシで有名な小西儀助商店主が後見人であったし、世界でも有数の企業、サントリーの創業者である鳥井信治郎は船場の道修町の薬種商店に丁稚奉公し、そこで薬種以外にも合成葡萄酒の製造などを学んだという。こうして船場気質を継承する商売人と企業が各地に増え、大きく育っていった。

「船場では『三代続くと店はつぶれる』などと言われました。一代目が頑張って店をつくり、二代目は頑張ってそれを育てる。そやけど店が大きくなってから生まれた三代目はのほほんとしがちなので頼りにならん、他から養子をとった方がよいというんです」と、澁谷氏。結納品の文化を広めた澁谷利兵衛商店の7代目も養子だ。紹介人が見込んだ人物を後継者として養子縁組をしたという。船場では、商売を守るためにこういった養子縁組は普通に行われていた。

船場に嫁いだ女性の教育も、様々な店の御寮人さんたちが担った。
「よそから嫁いできた女性が、いろんなお店の御寮人さんからお茶の入れ方から出し方まで指導されて、いややったと、言うてはりました(笑)」と澁谷氏が述懐するように、船場には皆で商売人らしさとその礼儀を伝えていこうという雰囲気があったようだ。

船場から他の地域に嫁いでいった女性たちは、船場の風習や商品を広めた。澁谷氏が若いころは、地方での結納をするときに「結納品だったら澁谷さん」ということで、奈良や和歌山まで配達していたそうだ。

船場の商人スピリッツは消えず

高麗橋の近くに「大阪商法会議所跡」の石碑がある高麗橋の近くに「大阪商法会議所跡」の石碑がある

ところで、この取材中も澁谷利兵衛商店には「こないだ椅子を借りたお礼」と、菓子折りを持った人が訪れたり軽く世間話をしたり、と人が訪れていた。

今でも「船場のだんさん」たちが集まって情報交換をする中で、船場の文化を保存する「船場倶楽部」や、東横堀川界隈を活性化させる「e-よこ会」などが生まれているが、運営や参加は「商売がからむとややこしい」と、ほとんどボランティア活動だという。

「まいどおおきに」「いてさんじます」「おはようおかえり」など、いまだに残る船場言葉は、いまや大阪弁の一部になってしまっているが、「それはもともと船場の言葉や」などと主張する気はない。「船場文化はよそより上等」などという意識はなく、第一はお客さんに喜んでもらうという気概が船場商人のプライドなのだそうだ。

お話を聞いて、船場商人たちの懐の深さや、私財をはたいても公共の役に立ちたいという心意気が伝わってきた。また、今でも大げさに主張することはないが、その気概を感じることができた。
「船場だから」という主張は薄れつつあっても、船場商人のスピリッツは息長く継承されており、それが船場らしさだと感じた。それこそが、「商人の街、船場」の魅力なのかもしれない。

高麗橋の近くに「大阪商法会議所跡」の石碑がある今ではビルが立ち並ぶ船場・御堂筋の風景

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