同潤会を引き継いだ住宅営団とは
前回書いた横浜の上大岡についてさらに調べていたら、上大岡には住宅営団の団地もできていたことを知り驚いた。住宅営団とは、戦争の激化に対応して軍需工場で働く労働者のため、住宅を大量に供給する目的でつくられた団体であり、同潤会の建てた賃貸住宅6382戸を受け継ぐ形で1941年にスタートしたものである。
それで住宅営団についてちょっと調べていると、同潤会は東京と横浜・川崎でしか住宅を作っていないが、住宅営団は工場の多い大阪、福岡、広島など全国的に住宅を供給したこと、東京圏でも京浜工業地帯のある横浜・川崎では住宅営団による団地が数多く建設されたことを知った(同潤会については手頃な本が多数出版されているが、住宅営団についてはそういう本がないので私も知識が不足していた)。
全国でも最大規模の880戸の住宅営団団地は、横浜・川崎ではなく、現在の埼玉県蕨市に建設された。京浜東北線の蕨駅と西川口駅の中間にある三和町(みつわちょう)住宅地がそれである。
しかも三和町の東方1kmほどには同潤会が建設した職工向け分譲住宅地があり、そこから3kmほど北上した京浜東北線・南浦和駅近くにも住宅営団の住宅地がある。なるほど川口から大宮にかけても軍需工場が多かったので、それらの地には営団の住宅地がつくられたのだ。これは面白そうだということで現地に向かった。
三和町住宅地には民間企業の社宅も多かった
三和町住宅地は西川口駅西口を出て歓楽街を抜け、北西側に歩いた、現在の行政名でいうと蕨市南町1〜3丁目にある。
880戸のうち約390戸は軍の北区・赤羽の被服廠(軍服工場)と板橋区・十条の造兵廠(兵器・火薬工場など)で働く人向けであり、残りは民間企業で働く人向けであった。
民間企業は20数社あり、零戦を製造した中島飛行機、沖電気、日産ディーゼル、田中計器、藤倉ゴムなどの製造業、そしてなぜか毎日、朝日、読売という新聞社の社宅にもなっている。
三和町住宅地は労働者のための田園都市的な場所だった
戦争時代の住宅というと殺伐とした感じがするが、三和町住宅地は11の街区に分けられ、街区ごとに小公園が配置されている(当初は遊具のない緑地だったようである)。南町並木通りに面しては市場、銭湯、診療所、店舗付き住宅などが計画されたという(銭湯は最近まで営業していたらしいが、今はない)。
航空写真で見ると同じ形の家がずらっと並んでいるように見えるが、住宅はすべて平屋で1戸建てと2戸建て(1つの建物に2世帯が住む)があり、間取りも多様であり、20種類以上の住宅の種類があったという。
その意味では、同潤会の普通住宅地などの持つ思想の流れ、つまり田園的なものの重視と住宅の多様性という思想が、住宅営団にも受け継がれていて、労働者のために一種の理想的な住宅地をつくられようとしたのではないかと思われる。
蕨は発展しダンスホールができたが、戦況でコロナ騒動と同じことが…
また蕨町に隣接する芝村には1934年に自動車や鉄道の貨車を製造する日本車輌蕨工場ができ(敷地10万平米以上。現在は芝園団地となっている)、他にも沖電気などができて、それらの工場で働く人々の増加によって蕨町も発展した。
蕨駅前の商業も発展し、1935年には、当時人気のダンスホールとして「シャンクレール」が開業した。歌手のディック・ミネや淡谷のり子、作家の菊池寛、徳田秋声、高見順らも常連だったという。
当時東京のダンスホールでは酒を供することが禁止されていたが、シャンクレールでは飲酒ができたので、東京からタクシーに乗って客が押し寄せたという。
だが戦況が厳しくなると愛国団体による営業妨害があり1940年にはシャンクレールも閉店を余儀なくされる。
東京では飲めないが埼玉では飲めるとか、自粛警察とか、最近のコロナ騒ぎと同じことが起こったのである。
三和町住宅地では、今も少し当時の面影が残る
住宅営団は敗戦後閉鎖され、1952年までに住宅は個人に、ないし企業の社宅として払い下げられた。三和町住宅地でも払い下げ以前から住み続けている住民が2000年の段階で6割を超えていたという。1戸建ては土地が50坪と余裕があり、増築や建て替えが容易だったからであろう。
今行ってみると、80年前からほぼそのままあると思われる住宅は2,3軒であろうか。あと数軒、住宅の形はほぼそのままで、外装だけきれいにしたと思われるものがあり、建て替えではなく増改築をしたものも多くありそうだった。
三和町住宅地を研究した在塚礼子(当時・埼玉大学教授)によると、この住宅地では親子、兄弟姉妹、叔父叔母などの親族の近居が見られ、居住継続世帯の3割がそうした親族近居だった。結婚して一度離れた娘がその後親の家の近くにまた引越してきた例などもあるという。
また緑地は戦争中は食糧難のために畑となっていたが、戦後自治会はそれを子どものための広場に戻し、町内運動会を開き、中央広場で盛大な盆踊り大会や演芸大会を開いた。
三和町住民がこの地を新たな故郷とする強い郷土意識
自治会は自主的に公民館をつくり、水路には250本の桜を植えて並木道としたという(今は水路は暗渠)。さらに興味深いのは、自治会の世話で希望者が秩父に並んだ墓地を買い、一緒にバスで墓参りをしているというのである(在塚礼子「まちの歴史を語り継ぐこと:住宅営団三和町での取り組み」)。在塚は「この住宅を“故郷”と思い定めた住民たち」の存在をそこに感じるという。
三和町の住人は北関東、東北、北陸の出身者が多かったらしく(西山卯三調査)、そのためこの地を新たな故郷とする気持ちが強かったのではないかと私には思える。
三和町は1982年には『家中みんなの三和町の歴史』という本を出版している。住宅地に隣接する中学校の教員が編集・執筆の中心となり、町に郷土研究部を立ち上げ、当時住宅営団で研究をし、戦後住宅政策の第一人者となった西山卯三に問合せて事実を調べたという。そして4年の歳月をかけて本ができたのだ。
三和町住宅地から北東の方向、川口にもあった同潤会
三和町住宅地から北東の方向、蕨市と隣接する川口市前川に住宅営団の前身である同潤会の職工向け分譲住宅がある。1939年につくられたもので、今はオリジナルのものは残っていないようである。
この同潤会も住民にかなり愛着を持たれたのか、1979年に『同潤会四十年の歩み』という冊子がつくられている。
それによって、同潤会建設までのいきさつを簡単に述べると、1935年頃に県立川口工業学校ができることになり、地元で「川口七人衆」と呼ばれる有力者が「四角耕地」と呼ばれる土地を学校用地として寄付した。
そして学校に隣接する土地に同潤会が37年から住宅建設を始め、39年9月から入居が開始したのである。第2期工事は41年から(つまり住宅営団になってから)始まり、工業学校内の土を掘って池をつくり、その土で畑を整地して住宅が建設され43年に入居完了した。当初は児童公園もあったという。
戦争中という特殊な時代ではあるが、蕨地域の住宅地にこれほど深い想い出の町があるとはまったく知らなかった。
参考文献
在塚礼子「まちの歴史を語り継ぐこと:住宅営団三和町での取り組み」(日本住宅協会『住宅』2013年8月号)
在塚礼子「住宅営団・三和町住宅地の変遷と居住プロセスに関する研究」日本建築学会大会学術講演梗概集、1996〜2000
三和町史編集委員会編『家中みんなの三和町の歴史』1982
『蕨市史 通史編』1995
『蕨市史 資料編三 近代現代』1992
石田頼房『日本近現代都市計画の展開』自治体研究社、2004
同潤会町会『同潤会四十年史』1979
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