郊外学園都市開発の時代

戦前の日吉駅周辺(出所:慶応大学ホームページ)戦前の日吉駅周辺(出所:慶応大学ホームページ)

昭和30年代住宅分譲地チラシから探る横浜市の郊外。今回は3回目、港北区の日吉である。

1926年東京横浜電鉄(その後東急電鉄。現在の東急)の東横線開通と共に日吉駅も開業。30年、日吉台に慶応大学の学校用地12万坪が確保された。うち7万2,000坪あまりが東京横浜電鉄からの寄付だった。

日吉駅の北西にある日吉不動尊付近は東京横浜電鉄が土取り場として最初に買収した土地だったのだ。そのため日吉は東急発祥の地とされており、1956年に「東急電鐵発祥之地」の記念碑が建立されたほどで、東急としても日吉の開発に力が入っていたのだろう。

当時は神田の東京商科大学(現・一橋大学)が国立に移転、成城学園や玉川学園の開発など、大学・教育機関を核とした郊外学園都市開発がしばしば見られたが、日吉もその1つである。

34年に慶応の日吉第一校舎が竣工。サッカーやホッケーの練習場もできた。36年には横浜市港北区下田町に野球場、ラグビー場新設など、慶応の町として発展していった。
田園調布同様、駅西口は道路が放射状に整備され、美しく、かつ現在も賑わいがある。

神奈川県で一番の人口急増地帯

昭和30年代らしいショッピングセンターもまだ残っていた昭和30年代らしいショッピングセンターもまだ残っていた

さて日吉のある横浜市港北区(現在の港北区と都筑区)は、もともと山林と農村であり、緑が多い地域だった。また高台からは富士山や多摩川を見ることができた。

しかし、高度経済成長の始まりと共に人口が増え、1960年から70年の10年間で99,126人から233,807人、増加率140%と激増した。
神奈川県全体では10年で 203万人増加、増加率 59%だったし、横浜市全体では86万人増加(増加率63%)だったので港北区の増加の激しさがわかる。
特に67年から70年にかけて港北区は、年15,000人以上増加したのである。

港北区の中での増加数第1位の町は日吉本町で 14,513人増加、第2位は日吉本町の南側の低地である新吉田町で10,226人、新吉田町の西側の高田町が 8,495人、日吉本町の北側の下田町が 8,051人の増加となっている。

人口増加の主な要因は、日吉本町の 南日吉団地 (4,700人), 下田町の日吉団地 (1,800人) という公団住宅の完成のほか、民間デベロッパーによる大規模な宅地開発が上記町を中心とした北部地域, 内陸地域において行われたためである。

慶応ブランドを使って売り出す

昭和30年代の住宅分譲地チラシも、日吉の物件は多い。
いずれも「陸の王者」慶応のブランドを利用しており、その名も「慶応台」という分譲地もある。「住宅地の王様」「住宅地の最高峰」「住宅地のエベレスト」「万人の憧れの東横線随一」などという、かなり大げさなコピーも見える。あるいは「日吉冨士ヶ丘」という名称は富士山を臨む立地だったに違いない。

また「映画にも撮影された美しい街の丘」「色とりどりの夢のような文化住宅」という表現からは1980年代に一世を風靡したテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」につながる価値観がすでに現れている。

昭和30年代の日吉分譲地のチラシ「水道・ガス 引込可」と時代を感じる広告昭和30年代の日吉分譲地のチラシ「水道・ガス 引込可」と時代を感じる広告
昭和30年代の日吉分譲地のチラシ「水道・ガス 引込可」と時代を感じる広告昭和30年代の日吉分譲地のチラシ「住宅地の王様」とある
昭和30年代の日吉分譲地のチラシ「水道・ガス 引込可」と時代を感じる広告昭和30年代の日吉分譲地のチラシ「日吉 冨士ヶ丘」の住宅地広告
昭和30年代の日吉分譲地のチラシ「水道・ガス 引込可」と時代を感じる広告昭和30年代の日吉分譲地のチラシ「日吉 学園台」の住宅地広告

スプロール開発が多かった

1920〜30年代に流行った赤い屋根の住宅もある1920〜30年代に流行った赤い屋根の住宅もある

しかし、これらの宅地開発の特徴は、他の公共施設等の整備建設と調和がなく総合的な開発でなかった。きわめて短期間に開発がなされたという、いわゆるスプロール化である。

スプロールとはアメリカの都市ジャーナリストであるウィリアム・ホワイトが初めて定式化した言葉らしいが、日本語でひとことで言えば「はびこる」という意味である。
雑草があっという間に地面を覆うように、乱雑に、不規則に、だらしなく広がっていく様を言う。住宅が、あまり整備されていない土地に乱雑に建設されるのが都市のスプロール化である。

そこで、これらの住宅地がどこにあったかを探るために日吉駅から丘を登り、谷を下って歩きまわってきた。
しかし先ほどの「慶応台」「学園台」「冨士ヶ丘」などの名称はすべて分譲時のものであり、地名ではないし、住宅地の街区名でもない。販売促進のためにイメージアップで付けられた住宅地名である。だからその名称は今は残っていない。

そこで横浜市のデータベースから、昭和30年代の分譲されたことがわかる街区を探し出し、そこを歩いてみることにした。
駅西口から放射状道路の真ん中の道を5分足らず歩くと、すぐに右手に住宅地が見えた。行ってみると、赤い屋根に白い壁という1920年代から30年代に流行した様式の住宅が見える。なかなかかわいい住宅である。

富士山を一望する住宅地

かっこいい住宅地かっこいい住宅地

そこから北西に向かい、慶応大学グラウンドの脇の道を歩くと、その北側はかなり急な坂であった。「丘」とか「台」という地名にふさわしい。ここからなら富士山も一望できるだろうし、慶応のグラウンドも見下ろせるので、もしかするとここが「慶応台」という分譲地だったかもしれないと想像した。
横浜市データベースによると、1954年(昭和29年)に市に申請された分譲地がある。かなり高級感があり、目黒、世田谷の住宅地と言われれば信じるほどだ。

坂を登り切って西に向かうと地名は下田に変わる。このへんも緑が多く、良好な住宅地である。電信柱の看板を見るとこの一帯は「常盤台」というらしい。地名にはないが、1950年代から60年代初頭に開発された土地だと思われる。

最も標高が高いところに道がまっすぐ東西に走っている。こういう道を尾根道という。
尾根とは山の稜線である。その上を走る道のことを尾根道という。青梅街道など街道は水はけのよい尾根道につくられることが多い。
とすればこの尾根道は何かと思ったら、川崎市と横浜市の市境であった。道すがら出会った女性に話を聞くと、昔は尾根道からは多摩川を見下ろすことができたという。南に富士山、北に多摩川を一望でき、夏は花火もよく見えたという。素晴らしい立地だといえる。

女性は先ほどの常盤台のこともよくご存じで、土地造成中はブルドーザーが山林や畑をどんどん宅地にしていくので驚いたそうだ。それまでは人力で開発していたので、機械の力に圧倒されたそうである。

うっそうとした緑

思ったより緑が豊かだ思ったより緑が豊かだ

この尾根道から南に下がる斜面沿いは、日当たりがよいので住宅地としてもふさわしい。
データベースによると坂の途中に1957年(昭和32年)に申請された分譲地があるので、行ってみた。
坂を少し下りていくとうっそうとした緑が見える。神社とお寺があるのだ。その隣接地を住宅分譲地として開発したらしい。
坂道なので年を取ると大変だが、先ほどの女性によれば、昔の人たちは歩いて日吉駅近くまで買い物に行ったという。
また坂の下には川が流れているので、昔は、うっそうとした緑の中の冷気のために川に霧が出ることもあったという。こんな東京の近くで霧が出ることがあったのかとびっくりした。

大谷石が目印

大谷石が経年劣化し味が出ているが、今は擁壁に大谷石は使われない大谷石が経年劣化し味が出ているが、今は擁壁に大谷石は使われない

そこから坂を下り、さらに南に行くとまた丘を登る。そしてまた下っていく。その途中にもいくつか分譲地がある。

データベースからわかったのは少し新しく1969(昭和44)年に分譲申請された街区である。かなり急な坂が住宅地として開発されている。
昭和30年代は、土地を支える擁壁(ようへき)に大谷石を使うことが、しっかり造成された住宅地の証だったようだ。チラシにも「南向雛壇式の台の上に」とあるが、その台が大谷石なのだ。

今は、その大谷石が経年劣化していることで、時の流れが感じられる。急な坂が多く、場所によっては崖崩れも起きる地形なので、経年劣化すると耐久力が衰える大谷石は、現在擁壁には使われないそうである。
横浜市内で大谷石の擁壁を見たら、ほぼ1970年代半ばまでの分譲地だと考えてよいらしい。

資料:『港北 都市化の波の中で』横浜市港北区役所,1971

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