昭和初期に急増した借家

足立区の人口は1920年には6万780人だったが、関東大震災後の25年には8万9,226人に増え、30年には12万7,507人、40年には23万1,246人と、20年でほぼ4倍に増えた。特に1930年代(昭和5年から15年)に増えたのである。

足立区の中心地である北千住も、大正時代はまだ人家もまばらだったが、昭和になると地主が宅地化を急激に進めた。
地主は日光街道沿いに住んでいたが、借家はそこからはずれた低地で、耕地としても住宅としても使われてこなかった土地に建設された。
1935年には同潤会による千住緑町住宅が分譲されるなど1930年代には北千住全体が住宅で覆われるほどになったのである。

隅田川べりには1926年に千住火力発電所が操業開始したが、そこから出る石炭のガラが区内の湿地を埋めて地盤を上げて住宅地を造成するために使われた。そのため今、開発のために土地を50〜60センチほど掘るとガラが現れるという。

同潤会千住緑町職工向け分譲住宅(2011年撮影)同潤会千住緑町職工向け分譲住宅(2011年撮影)

文化都市・千住のサロン

豪商たちが豪華な屏風を飾った(写真:足立区郷土博物館)豪商たちが豪華な屏風を飾った(写真:足立区郷土博物館)

北千住は元々日光街道の、日本橋を出て最初の宿場町・千住宿である。今の千住1丁目から5丁目が成立当初の宿場だ。
千住宿の南が掃部(かもん)宿、千住河原町、千住橋戸町で、この3つが後から千住宿に加えられた。さらに千住大橋を渡って南千住側の小塚原町、中村町が「南宿」として加わった。

街道沿いには旅籠、酒場が立ち並び、繁盛した。1843年にすでに1万人近い人口があり、小田原、水戸、宇都宮、松本、米沢といった城下町、同じ宿場町の八王子よりずっと人口が多かった。

寛政年間〔1789〜1801〕には絵師・俳諧師である建部巣兆(たてべそうちょう)が掃部宿の藤沢家に養子に来て「秋香庵」(しゅうこうあん)を構え活動を始めた。「秋香庵」には地元の青物問屋や川魚問屋の旦那衆が集まって、俳諧のグループ「千住連」をつくり、句会を開いたという。
また巣兆は酒井抱一(さかいほういつ)、大田南畝(おおたなんぼ)らの江戸の文人と交流があり、彼らを千住に呼ぶなど旦那衆と交流させて、千住の文化活動を活発化させた。

巣兆の死後も、俳諧、絵画をたしなみ巣兆と親しくした青物問屋の鯉隠(りいん)が世話役となって、誰が一番酒を多く飲めるかを争う「酒合戦」の会を開き、吉原、浅草からも人が集まり、抱一、南畝に加え、谷文晁、狩野彰信(かのうあきのぶ)らが千住に招待されたという。いわば江戸のサロン文化のようなものが北千住で展開したのである。

商人たちの豊かさは、千住河原町の大祭でも目にすることができた。彼らは所有する屏風や盆栽、生け花などを問屋の座敷に並べ、通行人が見られるようにして、松に花を添えたのだった。
このように北千住は、豊かな商人層に支えられた文化都市でもあった。

活気があった「やっちゃ場」

千住橋戸町にはやっちゃ場と呼ばれる青物市場があり、昭和初期は非常に繁栄していた。市場には荷主(近隣農家)が夜、牛に引かせた大八車に野菜を乗せて問屋に持ってきた。宿泊は問屋でして、翌朝競りを見て帰った。ついでに買い物をするための日用品店、食事をする飯屋、一休みする茶屋があった。茶屋には大八車を預けることができた。

飯屋はピンキリだったが、高級なところは料亭のように中庭があった。メニューは天丼、玉子丼が一般的で、カツライスというと上等なほうだった。ビールも高価だったので、金回りの良い者しか飲めなかった。安い飯屋では牛丼(牛肉の切れ端だろうが)と味噌汁だったそうで、なんだか今と変わらない。
ちなみに当時の日本では、トンカツにはパンが付いてきたらしいが、パンではどうも腹がふくれないということで、いつしかご飯が付くようになったそうだ。

往時のやっちゃ場往時のやっちゃ場

デパート古久屋の繁栄

そんな商店のなかに、古久屋(こくや)という大きな店があった。「こく」とは「穀」であり、最初は穀物問屋だったからだ。それが呉服屋に変わってから古久屋となり、カメラでもなんでもデパートのように売るようになった。自動車のそれほど走っていない時代にフォードのワゴン車を売るほどだった。

何年か前、私が北千住を高級カメラであるライカを首からぶら下げて歩いていると、アパートの前で、おじいさんが「いいカメラだね。散歩かい。」と声をかけてきたことがあった。下町だからとあなどってはいけない。ここは北千住。古くからの金持ちもたくさんいる。ライカを持っている人も知っている人も実は多いのだ、とその時思った。

古久屋の建物は洋風だったようで、「古久屋さんの洋館」と言われ、当時を知っている人は「あれはすごかった」と異口同音に語る。今から見ればそれほどのものでもなかったかもしれないが、北千住駅前通にある大橋眼科を大きくしたような建物だったのかもしれない。

当時の北千住駅前は今から想像できないくらい暗かった。いや、私が30年ほどまえに行ったときだって、駅東口を出てすぐ南に下る飲み屋街が、古い店ばかりで、暗かった。当時は若者が行くような店もなく、どこも常連でないと入れないような怖い雰囲気だった。だから大正、昭和の時代なんて、もっとずっと暗かったに違いなく、急に鼻をつままれてもわからないほどだったというのだ。

ところが古久屋の前にいくと照明が煌々(こうこう)と輝いていた。だから、近くの家の人が椅子を持ち出して古久屋の前に置いて読書をしたという。コンサイスの辞書のような小さい文字でも読めたという。
そう言えば、足立区出身(北千住から3駅先の梅島駅近くの出身)のビートたけしは、お兄さんも頭脳明晰で勉強家だったそうだが、家が狭いので、外に出て電信柱の街灯で本を読んだという。もしかしたら古久屋にも来たかもしれない。

マンション建設進み、人口も増加

最近北千住は住みたい街としても人気が高い。JR、東武、東京メトロ半蔵門線、日比谷線、つくばエクスプレスが乗り入れる交通の要所であり、どこに行くにも便利だ。東京電機大学が移転してきて若者も増え、それに合わせて洒落た飲食店も増えた。足立区全体では人口は伸び悩んでいるが、北千住駅周辺だけは違う。

もちろん昭和の店はいくらでもあり、安い居酒屋、立ち飲み屋も多い。焼き肉、ホルモンの店も多いから、がっつりパワーを付けたい人にも最適。北千住以北に住むサラリーマンも多数途中下車して楽しんでいる。最近は女性客も多い。
マンション建設も盛んであり、若い世代が入居している。イトーヨーカ堂発祥の地もタワーマンションに変わり、イトーヨーカドー食品館が入っている。

全盛期には36軒もあったという銭湯は今も10軒ほど残っており、どこもお湯の質が違ったり、内装、外観も違ったりしているから、毎日違う銭湯に行くという楽しみもある。
大きな川に囲まれているので、風呂上がりに川から来る風が気持ちよい。そしてビールを飲みに居酒屋へ、というわけだ。
このように繁華街としてだけでなく、散歩に行きたくなる街、住みやすい街としても今、北千住は大いに注目されているのだ。

参考文献
佐々木勝・佐々木美智子『日光街道 千住宿民俗誌』名著出版、1985
足立区立郷土博物館『千住生活史調査報告書』足立区郷土博物館、2012
西木弘一他編『みる・よむ・あるく 東京の歴史 8 地帯編5 足立区・葛飾区・荒川区・江戸川区』吉川弘文館、2020

今の宿場町通りが旧日光街道今の宿場町通りが旧日光街道

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