小倉百人一首はどのように生まれたか?
お正月には家族が集まり、「百人一首かるた」で遊ぶご家庭も少なくないだろう。読み札(絵札)に描かれた美しい肖像画はいかにもお正月に相応しいし、日本の素晴らしい文化のひとつである和歌を学び直す、良い機会にもなる。
しかし、小倉百人一首がどのように生まれたのかはわかっていない。百人一首が、かるたとして遊ばれるようになったのは江戸時代初期とされるし、歌の順番も時代によって変化する。そもそも、なんのために百首の歌が撰ばれたのか、記録がないのだ。
ただ、文学博士の大山和哉氏によれば、小倉百人一首は、鎌倉時代きっての歌人だった藤原定家が、鎌倉幕府の御家人・宇都宮蓮生に頼まれて編んだ秀歌撰を原型とするという。蓮生は、京都嵯峨野に建てた小倉山荘の襖を、さまざまな色の紙で装飾しようと考えたらしい。その色紙に書かれた和歌が、後世の小倉百人一首だというのだ。
百人一首は、『古今和歌集』のほか、『新古今和歌集』などの勅撰和歌集から和歌が採用されているし、小倉百人一首の撰者とされる藤原定家は、『新古今和歌集』の撰者の一人でもあるから、特に不自然に感じる点はない。小倉百人一首にある歌を、藤原定家本人が揮毫した「小倉色紙」も何点か現存する。
しかし、これが本当かどうかはわからないし、今後まったく違う説が登場するかもしれない。
百人一首に詠まれた数々の名所
さて、百人一首には、さまざまな景色が読み込まれている。
最初に紹介するのは、大河ドラマ『光る君へ』でも活躍している藤原公任の歌
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞えけれ
この歌は、北嵯峨野にあった名古曽の滝を詠んだものだ。
「名こそ流れて」と「名古曽」がかけられているのがわかるだろう。「滝の音が絶えてから久しいけれど」とあるように、公任の時代には、名古曽の滝はすでにほとんど枯れていたようだ。現在も大覚寺の境内に「名古曽の滝跡」と書かれた石碑が建っており、当時を偲ぶことができる。
つづいて第五十八番、紫式部の娘である大弐三位(ドラマでは藤原賢子)の歌、
有馬山 ゐなのささ原風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする
には、有馬山と猪名の地名が読み込まれている。
猪名の笹が風に吹かれて「そよそよ」と音をたてるけれど、本当にそうよ、あなたを忘れるなんてないわ……と、長らく訪れのない恋人に、軽い嫌味を言っているのだが、「そよそよ」をイメージさせる土地として、猪名の笹原が選ばれているのがわかる。猪名の笹原は有馬山の南東に位置する平原で、有馬山とペアで詠まれることが多かったようだ。
和歌を読むと、当時の人々が、日本各地の名所にさまざまなイメージを持っていたことがわかってくる。そこで、小倉百人一首に登場する「歌枕」(和歌に詠まれる名所など)を見てみよう。
小倉百人一首に詠まれる最北端の名所と最西端の名所
小倉百人一首に詠まれる最北の名所は、日本三景にも選ばれている「松島」だ。
第九十番で、詠み人は殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)。
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
ぬれにぞぬれし色はかはらず
殷富門院は後白河院の第一皇女で、大輔は地位だから、作者は殷富門院の女官だとわかる。十二世紀の女性が、宮城県まで行ったのかと不思議に思うが、この歌は平安時代中期の源重之が詠んだ。
松島や をしまの礒に あさりせし
あまの袖こそ かくはぬれしか
この本歌取。本歌取とは、過去の和歌から句を取り入れて、新たな歌を詠む技法だ。
松島は、松島湾の内外に浮かぶ島の総称で、その数は260余りにもなる。雄島は海を隔ててすぐ目の前にある比較的大きな島で、現在は橋でも渡れる。どちらの歌も「松島で漁をする海女の袖よりも、私の袖は(涙で)濡れていますよ」というわけだが、何も松島の海女の袖だけが濡れているわけではあるまい。平安貴族にとって松島は、一度は訪れてみたい憧れの地だったため、好んで歌に詠まれたのだろう。
それでは、小倉百人一首に詠まれた最も西の名所はどこかというと、島根県の隠岐の島だ。
第十一番、参議篁の歌。
わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと
人には告げよあまのつり舟
わたの原は広い大海原を意味し、具体的にどこの海なのか明確に示されていないが、小野篁は隠岐の島に流罪となっており、『古今集』には、「隠岐の国に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかわしける」と詞書があるので、隠岐の海であるとわかる。
小野篁は変わり者として知られ、昼は朝廷に仕え、夜は井戸を通って冥府に至り、閻魔大王に仕えたという伝説が残る。承和元(834)年、遣唐副使に任じられるが、篁はこれを拒否。このときに作った漢詩が嵯峨上皇を激怒させ、隠岐国への流罪に処されたのだ。
篁は、「隠岐の島への広い大海原に、多くの島々を目指して漕ぎだしたよと、都に残してきた人に伝えておくれ、漁師の釣り船よ」と詠嘆している。現在は観光名所として知られる隠岐の島々だが、罪人として赴く篁の目には、寂しい景色に映っていたことだろう。
百人一首に詠まれた富士山をはじめとする数々の名山
小倉百人一首には、さまざまな山も詠まれている。代表的なのは、やはり富士山だろう。
第四番、山部赤人の歌。
田子の浦に うち出でて見れば 白妙の
富士の高嶺に 雪は降りつつ
田子の浦に出てみると、富士山の頂上に雪が降っているというのだが、よくよく考えてみると、少し妙だ。富士山の頂上に雪が降っていたとしても、田子の浦から見えるはずがないではないか。
実は、万葉集に収められている赤人本人の歌は、以下である。
田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ
富士の高嶺に 雪は降りけり
「ゆ」は「~を通って」だから、田子の浦を通って見晴らしの良いところに出てみると、富士山の頂上は雪が降って真っ白だという意味になる。赤人は「雪が積もった富士山」を詠んだのだが、新古今和歌集の撰者らによって「雪が降っている富士山」に変えられてしまった。
関東の山ならば、筑波山も詠まれている。第十三番、陽成院の歌だ。
筑波嶺の 峰より落つる 男女川(みなのがわ)
恋ぞつもりて ふちとなりぬる
筑波山の峰から流れるみなの川が、やがて深い淵になるように、私の恋も積もり、淵になってしまったという恋の歌で、陽成天皇が綏子内親王に贈ったものだ。
筑波山は山頂が男体山と女体山に分かれていて、そこを流れるのが男女川。筑波山は、古代に歌垣が行われた山としても知られる。
歌垣とは、男女が互いに求愛の歌を詠み合い、自由に体の関係を持つイベントだから、この山には「恋」の印象が強かったのだろう。
陽成天皇は恋愛に奔放だったとされるが、綏子内親王は後に入内し、天皇が退位したのちも共に暮らしたというから、「淵となるほどの恋」は、一生ものだったのだろう。
都近くの山も詠まれている。第七番、阿倍仲麻呂の
天の原 ふりさけみれば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
大空を振り仰ぐと、三笠山に出ている月と同じ月が見えるという何気ない歌だが、詠まれた状況を知ると、胸が詰まる。
仲麻呂は非常に優秀な遣唐使で、玄宗皇帝に寵愛され、長らく唐に留まった。そして唐に到着してから32年後に帰国を決心し、この歌を詠んだのだ。
しかし船は難破してベトナムに漂着。仕方なく唐へ戻り、異国の地で73年の生涯を閉じている。唐で望郷の日々を送る中でも、晴れた夜には毎晩月が出ただろう。異国の月は、仲麻呂の心を慰めたのだろうか、それとも故郷への思いをなおさら強くしたのだろうか。
ただ、この「三笠山」「春日」は奈良のものではないという説もある。
遣唐使船は難波港を出てから、島々に停泊しつつ唐へ向かう。途中の豊後(大分県)にも三笠山や春日神社があり、仲麻呂は豊後で見た景色を思い出して詠んだのではないかというのだ。もしそうならば、小倉百人一首に詠まれた最西の景色は三笠山ということになるだろう。
龍田川、いづみ川……小倉百人一首に詠まれた川
小倉百人一首に詠まれた川といえば、龍田川を思い出す人は少なくないだろう。第十七番。在原業平の歌だ。
ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川
からくれなゐに水くくるとは
神代にさえ聞いたこともありません。龍田川の川面に紅葉が散り、流水を美しい紅に染め上げるなんて……と、秋の景色を絶賛した歌だ。
しかし、現在の龍田川は楓の木の数がさほど多いわけではない。
そもそも、記録に残る最古の紅葉狩りは長保元年(999年)のものとされる。『御堂関白記』や『権記』には、この年の9月12日に、藤原道長や藤原公任、藤原行成らが、大覚寺や大堰川を訪れ、紅葉を見たことが記録されている。最初に挙げた公任の和歌は、このときに詠まれたものだ。当時の貴族たちは、道長にあやかるためにこぞって紅葉狩りをし、この習慣が定着したとされる。
在原業平は元慶四(880)年に死没しているから、彼の時代に紅葉狩りの概念はなかった可能性が高い。万葉集では「紅葉」より「黄葉」が圧倒的に多く、藤原道長より古い、在原業平の時代の「紅葉」は、私たちの想像とは少し違うのかもしれない。
第二十七番も川を詠んだ歌だ。
みかの原 わきて流るる いづみ川
いつ見きとてか 恋しかるらむ
みかの原を湧き出るいづみ川、いつ会ったからこんなに恋しくなってしまうのだろうか……と、片恋の歌だ。
「みかの原」は瓶原と書き、現在の京都府相楽郡あたりにあった原、「いづみ川」は木津川のことだ。「いづみ川」は、「いつ見」にかけているだけでなく、みかの原を二つに分けて流れているため、思う人はまだ会ったことがない人であると暗に伝える手段にもなっているのだ。
作者は中納言兼輔とされ、『新古今集』にも兼輔の歌として収録されているが、それ以前の『古今和歌六帖』では詠み人知らずとされている。江戸時代の契沖がそれを指摘して以降、この歌が兼輔の歌でないことは一般に知られるようになったが、かるたなどでは、兼輔が作者とされたままだ。
小倉百人一首には、このほかにも、宇治山、逢坂の関、住之江、吉野の里、高砂の松、大江山、淡路島などが詠まれている。お正月に百人一首をするときは、その景色に思いを馳せてみてはいかがだろう。
■参考資料
法政大学出版局『ものと人間の文化史 百人一首』江橋崇著 2022年12月発行
水曜社『百人一首 百人の物語』辻井咲子著 2022年12月発行
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