「長崎くんち」の始まりは、諏訪神社の奉納踊

長崎には有名なお祭り「長崎くんち」がある。

戦国時代、長崎領主の大村純忠は、鉄砲や珍しい商品を集めるために南蛮との貿易をすすめ、自らキリシタン大名となった。さらに南蛮との関係を深めるため全領民をキリスト教に改宗させたとする説もあり、社寺は焼き払われてしまったという。江戸時代にキリスト教が禁教となると、再興されたのが鎮西大社諏訪神社だった。社伝によれば再建は寛永2(1625)年のことで、初代宮司の青木賢清の尽力によるという。

江戸幕府は長崎の出島にオランダ商館を置き、ほかの地域での貿易を制限したから、江戸時代の長崎は、日本唯一の国際都市といえた。南蛮に日本の国威を示すため、寛永11(1634)年に、諏訪神社に能の奉納が行われたのが、「長崎くんち」の起源だとされる。

幕府が諏訪神社の例祭を後押ししたのは、キリスト教禁教により荒れた人々の心をまぎらわすためでもあったらしい。キリシタンが弾圧されて、次々と処刑されるだけでなく、それまで外国からの珍しい品を商ってきた豪商たちは、自由に事業ができなくなった。そんな彼らが祭りへの参加を強制されたのだから、当初はあまり乗り気ではなかったのかもしれない。それが徐々に人々の楽しみにまで昇華したのは、それまでの外国との貿易で、長崎の人々が富を得ていたからもあるが、異国との交流によって高い文化を得て、モダンな祭りを好んだからかもしれない。

9月9日は重陽の節句にあたり、日本全国で祭りが開催されていた。
くんちの名称も、旧暦の9月9日に開催されたからとする説が有力で、「くにち」が「くんち」に訛ったという。九州では「おくんち」と呼ばれることも多く、諏訪神社の例祭である「長崎くんち」は、1874年まで旧暦の9月7日と9日に開催されており、現在は毎年10月7日・8日・9日に開催されている。また、演し物を「奉納踊」と総称するのは、諏訪神社に奉納されるからだ。

「おすわさん」の名で親しまれている諏訪神社「おすわさん」の名で親しまれている諏訪神社
「おすわさん」の名で親しまれている諏訪神社長崎くんちの御座船

異国風の踊りもたくさん奉納された「長崎くんち」の変遷

寛永11年(1634年)の諏訪神社秋季大祭では、虎屋の人気遊女であった高尾と音羽が、謡曲の「小舞」を奉納したとされる。

長崎奉行により諏訪神事は長崎町人の神事であると認定され、諏訪神社はすべての長崎町人の氏神となった。氏子である長崎町人が奉納踊を献上するのは義務とされ、幕府の援助もあったため、祭りは年々盛んになっていく。長崎に居留するオランダ人への示威もあったから異国風の踊りもたくさん奉納され、長崎の祭礼は豪華絢爛であると、近隣地域だけでなく全国的な評判になったらしい。

寛文12(1672)年には長崎の80町のうち、77町が7年ごとに奉納踊を献上していた。丸山町と寄合町は奉納踊を献上していないが踊町の露払いを務めており、出島町はオランダ商館があったので、実質的にはすべての町が祭礼に参加したといえる。しかし、戦後には踊町が激減した。

長崎出島の風景長崎出島の風景

長崎くんちの「龍踊り」「コッコデショ」

奉納踊は「本踊」「曳き物」「担ぎ物」「通り物」に分類できる。
「本踊」は日本舞踊で、長唄ものが中心。過去には浄瑠璃ものが舞われたこともあった。「曳き物」は川船や唐人船、龍船、御座船、南蛮船など。船形の山車が勇壮に曳き回される。「担ぎ物」は大勢で担ぐものでコッコデショやシャチ太鼓などがある。「通り物」は仮装行列で、現在は奉納の一部となっているが、かつては大名行列などが演じられたという。

現在の踊町は長崎市内に全部で58町。全町が7つの組に分かれ、年ごとに1つの組が奉納踊を献上する。古くから能面や能装束が伝わっており、国指定重要無形民俗文化財にも指定されている。町のシンボルとされる傘鉾を先頭にして境内へ入り、龍踊りやコッコデショなどが奉納される。傘鉾とは呼ばれるものの、傘の形をしているものは少なく、その上部は「出し」あるいは「飾」と呼ばれ、町の印になっている。

長崎くんちといえばまず思い出すのは龍踊りではなかろうか。もともとは中国の雨乞い神事で、長さ10mもある龍が、太陽と月を模した玉を追って、ときにとぐろを巻きながら舞う。雨の神でもある龍が太陽や月を飲み込めば、雨が降るというわけだ。龍をあやつる棒は頭から尾まで10本あり、玉と合わせて11名の使い手が舞を演じる。さらに30~50名の子どもたちが囃子方をつとめるダイナミックな演目だ。

コッコデショの正式名称は太鼓山。担ぐときに「コッコデショ」と声を掛けるためこの別名がある。コッコデショは、4名の太鼓打ちが座り、屋根に大きな座布団を5枚積み重ねた太鼓山を36名で担ぎ、力強い掛け声と太鼓の音で廻し、放り上げる勇壮な奉納舞。「ホーエンヤホーランエーエーヨイヤサノサ」の掛け声で入場、「アトニセイ」で後に戻り、「トバセ」で走り、「イヤシャントサイタヨナ、ヨヤショ」で3回上下して高く放り上げ、手を叩いて片手で受け止める。「廻れ」で3回廻り高く上げる。これを3回繰り返すのである。その派手さと力強さで、長崎くんちでもっとも人気の演し物の一つだ。

鯨の潮吹きもよく知られている。古式捕鯨の様子が再現されており、船頭船と納屋、主役の鯨で構成されている。潮を吹きながら曳き回される鯨は、最終的には網がかけられる。そして船頭船と納屋の屋根には雪がつもり、つららも垂れ下がるのだ。

長崎くんちの太鼓山長崎くんちの太鼓山
長崎くんちの太鼓山太鼓山を36名で担ぎ、力強い掛け声と太鼓の音で廻し、放り上げる勇壮な奉納舞
長崎くんちの太鼓山長崎くんちで有名な龍踊り

2022年はコロナ禍で開催中止に。今後は新しい演出もとりいれる「長崎くんち」とその継承問題

長崎くんちは江戸時代からの伝統的な祭りだが、演目の中でシンセサイザーが演奏されたり、2021年には地元の中学生がモザイクアートを制作したりするなど、毎年新しい演出が考え出されている。

しかし今後の継承には課題もある。曳き回される
たとえば鯨の潮吹きで曳き回される鯨は真竹を組んで作られているが、真竹は昭和40年代に一斉に枯れており、今後も手に入るかどうかは不透明だ。また竹組みの技術を伝える職人の数も減っている。さらに人手不足や予算不足により、辞退せざるを得ない踊町もある。

2022年の長崎くんちは残念ながら開催中止が決定したようだが、コロナの収束後には見物に出向いてみたいものだ。

2022年は残念ながら中止。派手な龍踊りもお預けとなった2022年は残念ながら中止。派手な龍踊りもお預けとなった

■参考
有限会社岩田書院『民俗文化の伝播と変容』植木行宣・樋口昭編 平成29年6月発行

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