ロシアのウクライナ侵攻を受け、もう一度考えたい杉原千畝の功績
ロシアのウクライナ侵攻から約半年が経過し世界平和の均衡が脅かされている今、人の命の大切さをもう一度考えるきっかけとなる施設が岐阜県にある。加茂郡八百津町の「杉原千畝記念館」だ。
第二次世界大戦時、ナチス・ドイツの迫害から約6,000人のユダヤ人の命を救った外交官・杉原千畝は、1900(明治33)年にここ八百津で誕生。杉原の生誕100年の節目となる2000(平成12)年7月に、その功績を後世に伝えるための記念館がオープンした。
今般のウクライナ侵攻では、日本国内の多くの自治体がウクライナからの避難民を積極的に受け入れ支援活動を行っているが、第二次世界大戦下の日本では避難民の受け入れを良しとしなかった。そうした危地の中で、国の方針に背きながらも約1ヶ月の短期間に2,139通の「命のビザ」を発給し続けた杉原の人道的功績が、いま改めて人々の関心と敬意を惹きつけているのだ。
「杉原千畝記念館」館長の山田和実さんに館内を案内していただいた。
約1か月で発給したビザは2,139枚、約6,000人のユダヤ人の命を救った
▲杉原千畝記念館 館長の山田和実さん。八百津町の地域振興課で町のPRの一環として記念館の幹事として携わっていたことから、杉原千畝について感激し、当時杉原研究の第一人者だった渡辺勝正氏に学ぶ。この記念館は山田さん自身にとっても思い入れのある建物だ「コロナの影響で最近は減少していますが、来館者の多くは外国の方で、特にイスラエルから来日される観光客の7割~8割の方が聖地巡礼のようにはるばるここ八百津に立ち寄って下さいます。みなさんチウネ・スギハラのことはよくご存知ですね」(以下「」内は山田館長談)
杉原千畝記念館がある『人道の丘公園』が開園した1992年当時は、竹下内閣肝いりの『ふるさと創生事業』によって1億円が全国の市町村へ交付され、多くの自治体が街のシンボルづくりに沸いた時期だった。この記念館もその一環として開設された。
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まずは、杉原千畝の功績と当時の歴史を振り返ってみよう。
1933(昭和8)年、ドイツで行なわれた総選挙でヒトラー率いる国家社会主義党(ナチス党)が勝利を収めた。当時のドイツは第一次世界大戦に敗戦したばかりで経済的に困窮した時期であったため、ヒトラーは「ユダヤ商人たちが大儲けをすることで、我々ゲルマン民族が不当な苦しみを強いられている」と陰謀論を吹聴しながらユダヤ人迫害政策を推し進め、歴史的惨事となるホロコーストを引き起こした。
当時、杉原千畝は早稲田大学在学中に外交官留学生試験を知り、官費留学生として中国ハルピンでロシア語を学んだ。ロシア語が堪能であったことからハルピン学院で教鞭をとったこともある。その後、満州国外交部で活躍したのち本国へ復帰、フィンランド・ヘルシンキへ赴任。1939(昭和14)年にポーランドとソ連に挟まれたバルト三国の『リトアニア』カウナスに日本領事館を開設するため領事代理として出向した。その領事館で“事件”が起こる。
「杉原がリトアニアへ赴任した4日後、ナチス・ドイツがポーランドへの侵攻を開始し、第二次世界大戦が勃発しました。戦禍を逃れポーランドからリトアニアへ到着したユダヤ人避難民たちは、日本を通過するビザを得ようと日本領事館へ殺到しました。彼らの最終目的地はカリブ海に浮かぶキュラソー島。縁もゆかりもない島でしたが、シベリア鉄道に乗ってソビエト経由で日本に渡り、太平洋を横断して南米へ向かうルートが想定されていました。“キュラソー島はオランダ領であり島だから上陸にビザは要らない”という情報が巡ったため、多くのユダヤ人がキュラソー島を目指したのです」
日本領事館前に殺到したユダヤ人の中から5人を館内に招き入れて詳しく事情を聞いた杉原は、どう対処すべきかと一晩中悩んだ。そして翌日、通過ビザの発給許可を求めて東京の外務省に長い電報を打つ。しかし、その答えは「不可」だった。
「杉原は“国の方針がどうであろうと、私は人間としてこの人たちを見放すことはできない”と決断しました。ほどなくして外務省から新たな辞令が届き、リトアニアを離れてドイツの大使館へ移ることになりました。そのため杉原は、自分に許される限りの時間を使って、ユダヤ人のためにビザを発給し続けたのです。正規の発給手順では、国籍・氏名・年齢等の情報だけでなく、滞在費となる所持金の有無の確認や、ビザの発給手数料が必要でしたが、そうした手順をすべて省き、一枚でも多くのビザを発給するために寝る間も惜しんで書き続けました。
公式には1940年7月29日から8月25日の領事館閉鎖までとされていますが、実際には領事館閉鎖後もホテルの部屋で書き続け、最終的には9月5日にドイツ行きの列車が出発する駅のホームでも作業を続けていたようです。杉原が発給したビザは家族単位で2139枚。約6000人のユダヤ人の命を救ったと伝えられています」
※杉原千畝の生い立ちや命のビザの発行について、詳細はこちら(杉浦千畝記念館ホームページ)から。
終戦後、命の恩人「チウネ・スギハラ」を探し続けたユダヤ人避難民たち
杉原千畝の人道的功績は、今でこそ“日本人の誉れ”として語り継がれているが、実は杉原本人は戦後しばらく表舞台から姿を消していた。日本国内でその存在が注目を集めたのは終戦から約40年が経過してからのこと。それまで外務省令に背いた「命のビザ」のストーリーはむしろ“タブー”とされており、外交官を辞した杉原自身も自らの体験を語ることはなかったと言う。
「しかし、杉原のビザによって生き延びた“スギハラサバイバー”と呼ばれるユダヤ人たちは、命の恩人である日本の外交官のことを戦後ずっと探し続けていたのです。杉原はすでに辞職勧告を受け外務省から離れていましたし、外国人には『チウネ』の発音が難しく『センポ・スギハラ』と呼ばれていたので、日本の外務省へ問い合わせてもなかなか名前が一致せず、所在を確認するのにかなり時間がかかってしまったようです」
1968(昭和43)年、イスラエル大使館のニシュリ参事から突然杉原本人に連絡が入る。イスラエルの政府高官として日本に赴任したニシュリ氏こそ、杉原に命を救われたスギハラサバイバーの一人であり、当時リトアニア領事館内で杉原へ窮状を訴えた5人のユダヤ人避難民のうちの一人だったのだ。
こうして「ユダヤ人の命を救った日本人外交官・杉原千畝」は“発見”された。
「1985(昭和60)年にはイスラエル政府から『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』が授与されました。“我々ユダヤ人がこうしていられるのはスギハラのおかげ”と称賛されたことが新聞記事となり、ようやく世間の注目を集めることになったのです。ここ八百津町でも“こんなに偉大な人が八百津の出身だそうだが、知っているか?”と関係者から問い合わせがあり、初めてその存在を認識。記念館設立へ向けて地元新聞社の協力を得ながら史実調査を開始しました。
ちなみに、杉原千畝生誕百周年にあたる2000(平成12)年に『勇気ある人道的行為を行った外交官 杉原千畝氏を讃えて』と記した顕彰プレートが外交史料館に設置され、その除幕式で当時の河野洋平外相が戦後の外務省の非礼を認め、正式に謝罪しました。これにより杉原千畝氏の名誉は回復しました」
記念館の展示では、杉原がビザを書き続けた領事館執務室を再現
八百津町の『杉原千畝記念館』では、こうした杉原の偉業が丁寧に展示解説されている。
中でも来場者の関心を集めているのは、当時のリトアニア日本領事館執務室を再現した『決断の部屋』だ。本国の命に背きながらも自身の決断を信じ、ひたすらビザを書き続けた執務机に杉原の孤高がうかがえる。
「イスラエルからの来館者が多いため、館内の展示は日本語・英語だけでなくヘブライ語版も用意しています。イスラエルは兵役があるため“兵役期間中にお金を貯めて日本へ旅行に行きたい”と考えている若者たちが多いそうで、日本滞在中の目的地のひとつがここ八百津町だと聞いて驚きました。
来館されたイスラエルの方は、皆さん口々に“我々民族が生きているのは奇跡であり、スギハラのおかげ”とおっしゃいますし、中には展示を見ながら涙を流す方もいらっしゃいます。リトアニアの記念館にも執務室はありますが、なかなか本物を見る機会がないとのことで、再現空間ながら皆さん一様に感動されていますね」
歴史を振り返り、平和の大切さを再認識できる記念館
「コロナ禍から後は外国人の方が減り、団体の学生さんたちが遠足や人権学習で来館されることが多かったのですが、今年2月のウクライナ侵攻がはじまってからは、個人旅行の来館者の方が増え、皆さん真剣に展示物に見入るなど見学の仕方が変わってきました。“歴史を振り返るためにここへ来た”とおっしゃる方も多いですね。
この記念館を訪れることで、改めて平和の大切さを理解すると共に、平和が日常でなくなったとしたら人としてどう生きるべきか?杉原のように決断の時を迎えたら自分はどう行動するのか?──そんなことを考えていただくきっかけになれば嬉しい限りです」
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平和に慣れすぎてしまった日本人にとって、杉原の功績を振り返ることで得られる気づきはあまりにも多い。ちょうど子どもたちの夏休みシーズンでもある。親子で八百津町を訪れ、過去の歴史を振り返りながら、選択すべき未来について親子で語り合ってみてはいかがだろうか?
■取材協力/岐阜県加茂郡八百津町『杉原千畝記念館』
http://www.sugihara-museum.jp/
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