現存する最古の昆虫博物館

斎藤道三、織田信長らが居城とした岐阜城。金華山(きんかざん)という標高329mの山の頂上にそびえ、岐阜県岐阜市のシンボルである。その金華山のふもとに広がる岐阜公園内に、現存する昆虫博物館としては日本最古の名和昆虫博物館がある。

ギフチョウの発見で知られる名和靖が1896(明治29)年に設立した名和昆虫研究所の付属施設として1919(大正8)年に開館。所蔵する昆虫標本は1万2,000種類30万頭にも及ぶ。

昆虫好きや家族連れで賑わうなか、建物に注目するファンも多い。実は、名和昆虫博物館は国の登録有形文化財であり、北側に隣接する記念昆虫館は岐阜市の重要文化財に指定されている。

今回、5代目館長の名和哲夫さんにお話を伺いながら見学ができた。建物を中心にご紹介したい。

①金華山の山頂にそびえる岐阜城②名和昆虫博物館の5代目館長、名和哲夫さん③自然豊かな金華山のふもとに広がる岐阜公園内にある名和昆虫博物館(写真提供:名和昆虫博物館)④名和昆虫博物館の北側にある記念昆虫館。貴重な昆虫標本を保管する①金華山の山頂にそびえる岐阜城②名和昆虫博物館の5代目館長、名和哲夫さん③自然豊かな金華山のふもとに広がる岐阜公園内にある名和昆虫博物館(写真提供:名和昆虫博物館)④名和昆虫博物館の北側にある記念昆虫館。貴重な昆虫標本を保管する

岐阜市の誘致で岐阜公園内へ

名和昆虫博物館に展示されているギフチョウの標本。靖が明治期に採集したものもあるほか、生態展示も行っている。春の女神とも呼ばれるギフチョウは、岐阜市周辺でも生息名和昆虫博物館に展示されているギフチョウの標本。靖が明治期に採集したものもあるほか、生態展示も行っている。春の女神とも呼ばれるギフチョウは、岐阜市周辺でも生息

名和昆虫博物館は、私設の博物館である。当初は県や市から補助金が出ていたが、1945(昭和20)年からは自費で運営している。

まずは歴史をたどろう。1857(安政4)年に生まれた名和靖は、虫が好きな少年だった。しかし、庄屋だった祖父のもとを訪れる農家の人々が害虫被害で困っているという話を聞き、自分が好きな虫が、時に人間にとって都合の悪いものでもあることに心を痛めた。

そこで農家の人々の役に立ちたいという思いを抱き、虫の研究をするため1878(明治11)年に新設された岐阜県農事講習所(現・岐阜県農林高校)に入学。1882(明治15)年に卒業し、県庁に勤めるならば月給20圓と提示されるも、学校にとどまり月給10圓の博物学助手の道を選んだという。

昆虫採集をして標本を作っていた靖がギフチョウを発見したのは、その翌年の1883(明治16)年のこと。そして、先生稼業のかたわら、幻灯器械という現代のスライドのような機械を使って、全国を巡って害虫と益虫についての啓蒙活動をした。当時、害虫に関しての農家の人々の対応は、お札を買う、お祓いするといった迷信が多かったそうだ。

1896(明治29)年、38歳の靖は岐阜県尋常師範学校の教諭になるが、二足の草鞋は履けぬと、辞職。私財を投入して、岐阜市京町にあった岐阜県農会の施設を間借りして「私立名和昆蟲研究所」を設立した。その翌年にウンカが大発生し、全国の稲が大被害を受けた。そこで研究所に問合わせが相次ぎ、靖は東奔西走。幸か不幸か、靖と研究所の存在は全国区で知られるようになった。

「市や県からある程度の補助金はいただいていたようですが、基本的には私財を投入して活動しているもので、それを多くの皆さんが感銘してくださいました」と哲夫さん。

建築家・武田五一が設計を担当

そんななか、明治政府の政策により、金華山のふもとに岐阜公園が造られたが、当時は原野のような場所。何か施設をと望んでいた岐阜市から誘致され、1904(明治37)年に研究所が移転した。ここから永久貸与の形となっているそうだ。

一般昆虫の採集や害益虫の研究、防除相談など幅広い活動を続けていると、1906(明治39)年に大阪朝日新聞の記者が昆虫標本の取材にやって来た。記者は、立派な標本が整頓されることなく、自宅の部屋にうずたかく積まれていることを知り、新聞紙上で標本収蔵庫を造るための寄付金を募った。そのお金でできたのが、当時、特別昆虫標本室と呼ばれた、現在の記念昆虫館だ。

設計は、靖が教師だった頃に教え子だった武田五一。子ども時代に父の仕事のため全国を転々としており、岐阜にも1年間ほど住んでいたという。

「一緒に昆虫採集も行ったりしていたらしく、靖の活動に傾倒して当時は昆虫学者になりたかったんじゃないかとも言われているそうです。その後、武田氏は東京帝国大学で建築の道に進み、頭角を現しました。国費でのヨーロッパ留学などをしていた武田氏が活躍するうち、靖が収蔵庫を建てるという話が持ち上がり、恩師ということもあって設計したのではないでしょうか」

記念昆虫館は、1907(明治40)年6月に完成。武田がヨーロッパ留学で影響を受けたと思われる、赤い切り妻屋根に小窓を配した木造・レンガ造りの建物になっている。

レンガは、武田が注目していた常滑の陶工・久田吉之助が焼いたものを使用。完成当時に入り口のひさしの上に飾られていたトンボのテラコッタや、土製の屋根瓦も久田が作ったもの。瓦は、おそらく耐久性の問題から、大正時代初めには今のトタン屋根に変更されていたが、屋根瓦や鬼瓦にあたる部分には蝶の刻印が施されていた。

内部は1階の両サイドが標本用の棚になっていて、明治期からの貴重な標本が収蔵されている。建設当時は収蔵庫であるとともに展示室としても使われていたそうだ。残念ながら現在は内部の見学は不可だが、外観だけでも見応えがある。

①完成当時の記念昆虫館(写真提供:名和昆虫博物館)②レンガの積み方や上部の採光出窓など、設計された時代にオーストリアに興ったセセッションと呼ばれる建築様式の流れを汲んでいるという。明治末期から大正にかけた、日本の貴重な建築文化を見ることができる③名和昆虫博物館が所蔵するトンボのテラコッタ。②の写真で入り口上のひさしにある雲のような形の飾りの上に付けられていた④鬼瓦の位置にある蝶が刻印された装飾。現在のものはレプリカ。この様子は名和昆虫博物館の2階の窓から見られる⑤建設当時の蝶が刻印された瓦(名和昆虫博物館所蔵)⑥久田吉之助の刻印がされた建設当時の瓦。②の写真で2階部分の出窓の横の壁がうろこのような形になっているが、それも土からできている焼きものだという①完成当時の記念昆虫館(写真提供:名和昆虫博物館)②レンガの積み方や上部の採光出窓など、設計された時代にオーストリアに興ったセセッションと呼ばれる建築様式の流れを汲んでいるという。明治末期から大正にかけた、日本の貴重な建築文化を見ることができる③名和昆虫博物館が所蔵するトンボのテラコッタ。②の写真で入り口上のひさしにある雲のような形の飾りの上に付けられていた④鬼瓦の位置にある蝶が刻印された装飾。現在のものはレプリカ。この様子は名和昆虫博物館の2階の窓から見られる⑤建設当時の蝶が刻印された瓦(名和昆虫博物館所蔵)⑥久田吉之助の刻印がされた建設当時の瓦。②の写真で2階部分の出窓の横の壁がうろこのような形になっているが、それも土からできている焼きものだという

博物館の柱には、唐招提寺のシロアリ被害を受けていた古材を活用

1911(明治44)年には財団法人になり、国からの補助も受けられるようになったため、ひとまず運営が安定した。

1917(大正6)年、靖は還暦記念事業として論文集を出版したり、周囲の人々が祝賀会を盛大に開いたりした。その頃、靖は余生のライフワークとして旧天皇陵を参拝しながら、シロアリ被害の調査を行っていた。

奈良の垂仁(すいにん)天皇陵を訪れた帰り、近くの唐招提寺で大々的に千手観音像などが取り出されて工事が行われているところを見た靖。「シロアリですか?」と声をかけると、すでに害虫駆除研究の第一人者として名が知られていたことから、アドバイスを求められたという。

そんないきさつがあり、唐招提寺で1898(明治31)年と1905(明治38)年に金堂と講堂を解体修理したときに残されていた白アリ被害のある柱をもらい受けることに。約1,200年前のヒノキ材は、靖が続けたシロアリ研究の一環として保存も兼ねて、建設が決まっていた博物館に利用することとなった。

博物館も靖の活動に共鳴した地元の実業家・林武平氏の寄付が資金となり、1919(大正8)年に完成。記念昆虫館と同じく武田が設計を担当。こちらはギリシャ神殿風切り妻のレンガ造りに、白タイル貼りとなっている。

唐招提寺からもらい受けた3本の巨大な丸柱は、シロアリを防除する処置がされ、1階の中央に配されて建物の2階を支える構造となっている。「古材だけれども、活用すれば建物を支えることもできれば、歴史を物語る資料にもなるということで、靖はなかなかすごい思想家でもありましたね」と哲夫さんは語る。

しっかりとした丸柱が支えていることもあり、博物館2階の展示スペースは柱のない、空間を広く使える造りになっている。

①開館した1919(大正8)年に撮影された名和昆虫博物館(写真提供:名和昆虫博物館) ②入り口すぐの受付近くにある唐招提寺の古木を活用した柱。梁などの穴もそのままにしてある。奈良県教育委員会の追跡調査により、ここと真ん中にある柱が唐招提寺金堂にあったもので、奥にある階段そばの柱が明治38年に解体修理された講堂のものだということが判明した③丸くなっているところがシロアリ被害の防除跡。シロアリ被害のところに穴を開け、当時は使用できたヒ素を入れて、同じサイズの木栓を埋め込んだ。ヒ素による防除は、アリがヒ素に触れたらすぐ死ぬのではなく、体についた働きアリが巣に帰り、グルーミングすることで巣全体を駆除できるという方法だった④博物館の外壁タイルは備前焼。「以前こちらを訪れた建築好きの方が、目地が山型になっているのは技術として大変なのだとおっしゃっていました」と哲夫さん①開館した1919(大正8)年に撮影された名和昆虫博物館(写真提供:名和昆虫博物館) ②入り口すぐの受付近くにある唐招提寺の古木を活用した柱。梁などの穴もそのままにしてある。奈良県教育委員会の追跡調査により、ここと真ん中にある柱が唐招提寺金堂にあったもので、奥にある階段そばの柱が明治38年に解体修理された講堂のものだということが判明した③丸くなっているところがシロアリ被害の防除跡。シロアリ被害のところに穴を開け、当時は使用できたヒ素を入れて、同じサイズの木栓を埋め込んだ。ヒ素による防除は、アリがヒ素に触れたらすぐ死ぬのではなく、体についた働きアリが巣に帰り、グルーミングすることで巣全体を駆除できるという方法だった④博物館の外壁タイルは備前焼。「以前こちらを訪れた建築好きの方が、目地が山型になっているのは技術として大変なのだとおっしゃっていました」と哲夫さん

建物の息吹を大切にしながらつなぐ

現在の博物館の展示は、哲夫さんと4代目館長の時代から働くベテラン職員・松尾さんと二人三脚で作り上げた。「完成までは30~40年ほどかかりました」と苦労したそうだが、興味を引く展示でリピーターも多いという。

昆虫が最も美しく見える姿で標本され、生きているときの写真などと合わせて昆虫についてよく理解できる。“隠れ展示シリーズ”として標本の蓋を開けると、大きな蛾やクモなどが見られるというものも。

年1回の抽選で標本などがもらえる虫クイズも楽しめるし、2階にある青く輝いて見えるモルフォチョウの展示は“インスタ映え”と密かに人気になっている。子どもたちに付き添った大人が思わず夢中になるというのも分かる。

昆虫専門の博物館としてはもちろん、100年の歴史を持つ建物も魅力あふれるものとなっている。

現在は公的な補助は受けず、入館料のほか、グッズや昆虫採集などの道具の販売、展示物をデパートなどに貸し出したり、講演会を行ったりしながら運営を維持。そこから建物の修繕費も捻出しているそうだ。

「最近は建物を目的に来られる方も多く、せっかくなので僕らもそういう情報に応えられる活動もしていきたいと思っています。この建物がうちの生命線でもありますので、補修もしながら、大事にしていきたいです」

取材協力:名和昆虫博物館 http://www.nawakon.jp/

①1919年ごろ撮影の記念昆虫館(左)と名和昆虫博物館(写真提供:名和昆虫博物館)②博物館2階にあるモルフォチョウの展示。「モルフォチョウはもともと青い色素は持っていません。青い光の波長を反射し、あとの光りを吸収し、干渉や屈折といったかなり複雑な具合でこう見えるのです」とのこと(写真提供:名和昆虫博物館)③標本箱は、密閉性が高いドイツ式をもとにして、枠の部分のデザインなどにこだわり、特注。販売もしている④記念昆虫館の前にある昆虫碑。靖の還暦記念事業で集まったお金で作られ、この設計も武田五一が担当。1912(明治45)年には、社会のためとはいえ研究で殺してしまった何億という虫の魂を癒したいと、周囲の協力による寄付金で「駆蟲(くちゅう)の碑」が本願寺岐阜別院(西別院)の敷地内に建てられた①1919年ごろ撮影の記念昆虫館(左)と名和昆虫博物館(写真提供:名和昆虫博物館)②博物館2階にあるモルフォチョウの展示。「モルフォチョウはもともと青い色素は持っていません。青い光の波長を反射し、あとの光りを吸収し、干渉や屈折といったかなり複雑な具合でこう見えるのです」とのこと(写真提供:名和昆虫博物館)③標本箱は、密閉性が高いドイツ式をもとにして、枠の部分のデザインなどにこだわり、特注。販売もしている④記念昆虫館の前にある昆虫碑。靖の還暦記念事業で集まったお金で作られ、この設計も武田五一が担当。1912(明治45)年には、社会のためとはいえ研究で殺してしまった何億という虫の魂を癒したいと、周囲の協力による寄付金で「駆蟲(くちゅう)の碑」が本願寺岐阜別院(西別院)の敷地内に建てられた

2020年 02月24日 11時00分