晴れたら目を書き入れるのが慣例だった「てるてる坊主」
遠足や運動会の前日、雨になると流れてしまう楽しみな予定があるとき、「明日晴れますように」とてるてる坊主を吊るした経験はないだろうか。
てるてる坊主は白い布や紙で作られ、だるまのようなシンプルなフォルムに、愛嬌のある表情が描かれることが多い。地域によっては「てれてれ坊主」「日より坊主」などとも呼ばれるようだ。
江戸時代後期の国学者・喜多村信節は『嬉遊笑覧』巻八の中で、江戸時代中期の俳諧師・立羽不角の詠んだ「てるてる坊主 月に目か明」の句を引用し、「願のかなひぬれば墨にて目晴を書也」と注釈している。当時は目の描かれていないてるてる坊主を吊るし、晴れたならば目を書き入れるのが慣例だったようだ。
また喜多村信節は下の句である「八せんに てるてる坊主はがきかず 漢土にハ是を掃晴娘といふ」を引用し、中国の掃晴娘(さおちんにゃん)との類似を指摘している。
中国の掃晴娘は伝説上の美しい娘で、大雨で村が困っていたとき、雨を止めてほしいと天に祈った。すると雨を降らせていた龍神が「私の妻になるなら雨を止めよう」と申し出たため、掃晴娘はこれを承諾。途端に空は晴れ、村は救われたのだという。この伝説から、長雨の季節になると掃晴娘の人形を紙や布で作り、門に掛ける風習が生まれた。箒を持った少女の姿で、赤い紙や布の切り絵が多い。この風習が日本に伝来し、独自のてるてる坊主となったということも考えられるようだ。
日本における雨止め・雨乞い祈願
しかし、日本においても古来、雨止めは雨乞い祈願と表裏一体に行われてきた。
まずは、日本における雨乞いの歴史を見てみよう。
最古の記録は、皇極天皇元(642)年七月の記事だ。二十五日に群臣たちが「神社の神や河の神に祈ったが効果がなかった」と語り合っていると、蘇我蝦夷が「大乗経典を読んで雨乞いをしよう」と提案している。二十七日に仏典による雨乞いが行われ、二十八日に小雨が降った。そこで八月一日に皇極天皇が明日香村の川上で四方を拝して天を仰いで雨乞いをすると、雷鳴がとどろいて大雨が降ったというのだ。
雨止めについてでいえば、祈雨・止雨の神社としてよく知られるのが、奈良県吉野郡に鎮座する丹生川上神社だろう。寛平七(895)年六月二十六日の太政官符に、「人声の聞こえざる深山吉野丹生川上に我が宮柱を建てて敬祀せば、天下のために甘雨を降らし霖雨(ながあめ)を止めん」との神託によって創建されたと記録されている古社だ。社伝によれば、創建は「天武天皇白鳳四年」とされているが、『日本書紀』などには記録がなく、定かではない。比定される神社は三社あり、それぞれ上社・中社・下社と称される。
一方、雨乞いの神社として丹生川上神社が文書に登場するのは、『続日本紀』の二十四巻。天平宝字七(763)年五月二十八日の記事で、「幣帛を畿内四カ国の諸社に奉った。そのうち丹生川上神社には、幣帛の他に黒毛の馬を加えて奉った。日照りのためである」とある。
祈雨の際は黒馬を奉り、止雨を祈る際は白馬を奉るのだが、のちに京都の貴船神社でも同じ祈祷が行われた。その後、馬の代わりに奉納されるようになったのが絵馬だともいう。『続日本紀』の天平三(731)年十二月二十一日の記事に、「符瑞図を調べてみると『神馬は河の精である』とあり」とあり、馬と雨には深い関係があると考えられていたのだろう。符瑞図とは唐の書物で、祥瑞について掲載されたものらしい。
福井県高浜町には、少し奇妙な鐘にまつわる雨乞いの儀式も伝わっている。
佐伎治神社の神庫にある和鐘(わしょう)は鎌倉時代初期の鋳造と考えられるが、雨乞鐘(あまごいがね)ともよばれている。この鐘は、社伝によれば延元元(1336)年八月十一日に、中津海の海岸に漂着したという。実は、この鐘は妹鐘で、姉鐘はまだ海底にある。この妹鐘を海に入れて姉鐘と会わせると、姉妹の鐘が再会を喜んで涙を流し、大雨が降る。このため干ばつが続くと、妹鐘を海に入れて雨乞いをしたという。
平安時代中期に成立した『西宮記』に記録された祈雨法
美しい掃晴娘が坊主になった理由も、雨乞いの儀式と関係が深いと考えられる。
日本文化史研究者の山口えり氏は、「古代の祈雨儀礼『てるてる坊主』の淵源」と題する論文の中で、平安時代中期に成立した『西宮記』に記録された祈雨法は、
1.大極殿において読経を行う。
2.神泉苑において請雨経法を行う。
3.七大寺の僧が東大寺に集まり読経する。
4.龍穴において読経する。
5.丹生川上社、貴布祢社に黒馬を奉納する。
6.伊勢神宮の祭主に命じて神祇官の斎院において御祈する。
7.陰陽寮に命じて北山十二月谷で五龍祭を行う。
8.諸社の祟りの有無を神祇官と陰陽寮が占い、奉幣する。
9.犯罪者のうち罪の軽い者を赦免する。
10.山稜に祈る。
の10通りであるとし、このうち4つまでが仏教儀礼に属しており、さらに「雨僧正」とまで称された真言宗の僧・仁海の雨乞いが当時の人々に大きなインパクトを与えたがために、掃晴娘が坊主に変化したのではないかと推測されている。
童謡「てるてる坊主」の歌詞
童謡「てるてる坊主」を作詞した浅原六朗の出生地、長野県北安曇郡池田町にはてるてる坊主の館(浅原六朗文学記念館)がある。
浅原六朗は、雑誌『少女の友』の編集長を務めた人物だ。他にもさまざまな雑誌で記者を務め、同人誌を創刊するなど熱心に文化活動を行った人物だった。「てるてる坊主」の楽譜が出版されたのは大正12年。歌は3番まである。
1. てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のように 晴れたら 金の鈴あげよ
2. てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ
わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんとのましょ
3. てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ
それでも曇ってないてたら そなたの首をちょんと切るぞ
1番と2番は、「願いを聞いてくれたらお礼をする」、3番は「聞いてくれないのなら罰を与える」という内容だ。神祭りにおいても、「お礼」と「罰」はつきもののようだ。
てるてる坊主は、雨乞いや雨止めの儀式の人身御供
てるてる坊主は、人間に代わって晴天を天に祈る祈祷師とも、人身御供であるとも、晴天の神であるとも考えられる。雨乞いや止雨の祈祷師という考え方であれば、童謡のように、失敗すれば「首をちょんと切」られるのも仕方のないことかもしれない。また、掃晴娘は雨を止めるために差し出された人身御供ともいえ、てるてる坊主は人身御供の代わりと見ることもできる。
古くから、生きた人間の代わりを差し出した例はある。
たとえば奈良市に鎮座する倭文神社で毎年10月に斎行される蛇祭りは、神が村を荒らさないよう人身御供を出していた名残とされる。ある年英雄が身代わりになったところ、神の正体は大蛇だった。そこでこれを退治したのだが、現在の蛇祭りでは「人身御供」と呼ばれる神饌を供えている。人身御供は芋茎に餅などを刺して人の姿を模したもので、その名の通り人身御供の代わりとなるものだ。てるてる坊主は、あるいは、晴天の神であるとも考えられる。もし、てるてる坊主が神ならば「首をちょんと切る」のはあまりにも不敬に思われるかもしれない。
吉田兼好の『徒然草』第二百三段には、「勅勘(ちょっかん)の所に靫(ゆぎ)かくる作法、今は絶えて知れる人なし。主上の御悩、大方世中の騒しき時は、五条の天神に靫をかけらる。鞍馬にゆぎの明神といふも、靫かけられたりける神なり」とある。勅勘とは、天皇から謹慎の命令を受けることで、そのしるしとして靫がかけられた。靫は矢を入れる筒で、疫病の流行や天災などで世の中が騒々しくなったときは、五條天神や鞍馬の由岐神社にこれがかけられた。つまり、神を罰して、災いを祓おうというわけだ。
童謡の中で、てるてる坊主の首をちょんと切るのは、てるてる坊主を祈祷師の身代わりに見立てているとも、雨を降らせる神を罰しようとしているとも考えられて面白い。
梅雨のシーズンになれば、てるてる坊主を作る機会もあるかもしれない。その際には、てるてる坊主が何を意味しているのか、おもいを馳せてみてほしい。
■参考
池田町 てるてる坊主の館(浅原六朗文学記念館)
https://www.ikedamachi.net/0000000315.html
講談社『続日本紀』宇治谷孟訳 1922年6月発行
名著刊行会『嬉遊笑覧 下』喜多村信節著 1979年4月発行
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