「阪急梅田 駅と百貨店とお客様の101年」企画展(※阪急うめだ本店のこの催しは終了しています)
「梅田」といえば、大阪のビジネスや商業の中心地として多くの人が集まる場所であり、最近は住みたい街としても人気が高い。もともと梅田は、大阪の町外れの辺ぴなところであったが、ここまで人が集まる街へと発展したのは、間違いなく、「阪急梅田 駅」と「阪急百貨店」の存在が大きいといえるだろう。
この「梅田」の歴史を振り返る機会を与えてくれたのが、阪急百貨店9階の阪急うめだギャラリーで開催された「阪急梅田 駅と百貨店とお客様の101年」という企画展である(2021年7月28日~8月23日の期間開催)。
これは、日本初の駅ビルである「阪急梅田ビルディング」の歴史が101年を迎えるにあたり、阪急梅田 駅と阪急百貨店の歴史を101のトピックスで振り返ったものである。公益財団法人阪急文化財団と株式会社阪急阪神百貨店の共催で、阪急電鉄株式会社が協力する形で開催されたものであり、阪急文化財団が所蔵している当時の貴重な写真や資料が展示されていた。
今回、公益財団法人阪急文化財団の理事 館長である仙海義之氏と 阪急うめだ本店スペシャリティコンテンツ企画部 マネージャーの上田学氏に企画展の背景などをお聞きした。
阪急文化財団と阪急百貨店は、今までも共催でさまざまな企画展を行ってきたが、今回は、次につながる101年ということで、「お客様と阪急電車、阪急百貨店とのつながりを、またあらたに築いてもらえる催しにしたい」(仙海氏)という思いで開催された。期間中、約2万3,000人が来場する人気の企画展となり、なかには何度も足を運ばれるお客様や、おばあさんが娘や孫に説明している姿など、3世代、4世代にわたって「梅田」を利用している人たちの姿があったそうだ。
また、阪急百貨店で働く人たちにも評判がよく、「従業員にも見てもらい、モチベーションを上げる機会にしたい」(上田氏)という側面もあった。
企画展のタイトルに、「お客様」という言葉が入っているところに、「お客様ファースト」の商売を心がけてきた企業姿勢を感じることができる。
それでは、企画展の内容をもとに、101年の歩みを「戦前、戦後、現在、未来」の4つの時間軸で振り返ってみる。
戦前(1920年~1945年):実質的な利便性を追求した時代
最初の梅田駅が完成したのは1910年(明治43年)。当時は、阪急電鉄ではなく、「箕面有馬電気軌道株式会社」という名称であった。1918年に「箕面有馬電気軌道株式会社」は「阪神急行電鉄株式会社」へと社名変更し、1920年の「神戸本線」の開通をきっかけに、「阪急」の呼び名が定着していくことになる。
そして、梅田駅の拡張とともに1920年に、レンガ造り地上5階・地下1階建ての「阪急ビルディング」が竣工。1階には老舗百貨店の「白木屋」が賃貸として入り、2階には阪急直営の「阪急食堂」が開設するなど、駅以外の機能を持ち合わせた、日本初の「駅ビル」の誕生であった。「当時、世界でも駅ビルという施設はなかったので、阪急ビルディングは世界でも第1号の駅ビルになる」(仙海氏)、というように、駅の上を活用するという発想はそれほど斬新なアイデアだったということである。
また、西洋料理専門の「阪急食堂」は、当時まだ珍しかった西洋料理が手軽に食べられるということで、多くの人で賑わっていたそうである。
このように、梅田駅は通勤で使うサラリーマンだけでなく、百貨店や食堂があることで、買い物や食事などを目当てに、ご婦人や子ども、高齢者の方が集まる場所になったのである。
白木屋の成功を見て、阪急電鉄は1925年に直営の阪急マーケットを開業し、1929年に「阪急百貨店」が誕生する。「小林一三氏は、将来、2万坪に近い大ターミナルデパートをつくるので、それを夢見て頑張ってもらいたい、と阪急の社員に話していた」(仙海氏)という言葉どおり、その後次々と建物を拡張し、一大百貨店へと変貌していったのである。当時の百貨店は、心斎橋に大丸・そごう・高島屋、北浜には三越というように、街の中心部にあったのだが、「便利な場所なら暖簾なしで客が集まる」という小林一三氏の言葉どおり、ターミナルデパートは盛況を極めたとのこと。特に、「デパ地下」の食料品売り場は人気が高く、買い物をしてすぐに電車に乗って帰れるというのが、一般の百貨店とは違う有利な点であったという。電車を利用している乗客を、百貨店で買い物をするお客様と見立てた小林一三氏のビジネスセンスのよさと実行力は素晴らしいものであった。既存の考えにとらわれず、お客様が何を求めているかということを追求する姿勢が新しいことに次々と挑戦していくことにつながっていったのだろう。「社内では、お客様のニーズを捉えて早くやる、新しいことをやる 独自性のあることをやるというのが今でも生きている」(上田氏)というように、小林一三氏のスピリッツは今も脈々と受け継がれている。
この成功を機に、日本の各地で、駅直結の百貨店経営が増加することになる。
戦後(1945年~1980年):物質的な豊かさを追求した時代
戦後の復興は大変であったが、乗客は3年で戦前の3倍に膨れ上がり、その後も増加傾向に。ここから物質的な豊かさを追求する時代へと突入していく。百貨店は、物資の安定供給という使命を果たし、やがてくる新しい時代に備えて1947年に阪急百貨店が新会社として独立することになった。また、単なるモノの販売だけでなく、文化事業部の事業として「阪急婦人文化教室」を始めたり、美を求める女性たちの願いに応えようと阪急ファッションルームを開設するなど、戦後の苦しい時代においても、明るさと希望を与え続けていた。
そして、戦後の社会問題に取り組むために、事業がさらに多方面へと拡大。住宅不足の解消のために、1950年に「住宅金融公庫法」が制定されたのを機に、京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)では、土地の斡旋から設計監督、公庫の手続き一切を行うサービスを始める。住宅相談所を新設し、沿線の土地を斡旋するとともに、百貨店内にモデルルームを設け、設計相談を請け負うとともに、冷蔵庫や流し台などの台所用品も販売していた。
また、「阪急友の会」を創設。「お客様のご家庭の生活設計のお楽しみ」の会として、会費をとりながらお買い物券やグループ各社の娯楽施設への招待など、さまざまな特典を用意し、お客様との関係性を強化していった。
物質的なモノの豊かさを求めるお客様の受け皿としてさらに拡大するため、阪急梅田 駅が現在の場所へと移設された。新しい梅田駅は、百貨店から約200メートル遠くなるので、お客様の不便を少なくするように、エスカレーターや、日本での実用化第1号の「動く歩道」として駅と百貨店を結ぶ「ムービングウォーク」が導入された。このエスカレーターが稼働した時に、「お歩きになる方のために左側をお空けください」というアナウンス放送を始めたという。その後万国博覧会でも、欧米で主流であったエスカレーターの右側に立つルールが呼びかけられたという。これが、関西エリアが東京と違って左側を空けるようになったルーツのようだ。
また、地下2階の約2万4,000m2の阪急三番街は、集客のために「川が流れる街(1969年)」や「滝のある街(1971年)」というような環境演出に力を入れていった。そして、1973年には合計307店舗が入居する一大地下商店街が完成する。1980年代には、平日31万人、休日には37万人が訪れたというからその集客力はすさまじいものであった。
さらに、1973年には新梅田駅が完成し、この年に社名が京阪神急行電鉄株式会社から阪急電鉄株式会社となった。そして、1977年には、地上32階建ての「阪急グランドビル」が完成。当時、中之島センタービルに次ぐ、関西第2の超高層ビルであった。まさに物質的な豊かさを求める受け皿として、次々と拡大していった時代であった。
現代(1980年~2020年):さらなる利便性を追求した時代。モノからコトへ
1980年以降は、ハードとしての駅の施設やリニューアルは一段落し、次はお客様がより楽に、便利になることに注力していった。1983年に全駅が自動改札に変更。1989年には、切符の購入や運賃の精算ができるプリペイドカードのラガールカードの使用開始。改札機に直接通して使える、ラガールスルーへと進化していった。さらに1996年、「スルッとKANSAI」の登場で、ひとつのカードで各沿線に乗り換えられる体制が整い、2004年には、世界初のポストペイ(後払い)方式のICカードによる交通乗車・ショッピングサービスの「PiTaPa(ピタパ)」を開始。PiTaPa加盟店での飲食や買い物もこのカードで決済できるなど、さまざまな機能を持ったICカードシステムにより、鉄道以外の事業との融合が広がり始めた。
また、クレジットカードの会社を設立し、1986年には「ペルソナカード」を発行。阪急や東宝グループ各社による優待・割引などの特典を掲げてサービスを始めた。その後「HANAPLUS」などのカードもはさみながら、阪急阪神の統合を機に「STACIAカード」へと引き継がれていった。
「モノにまつわる背景や、使い方の提案、体験や共感などを伝える方向に転換」(仙海氏)、というように、時代は、物質的な豊かさを求める「モノ」から、体験などを重視する「コト」へと転換し始める。2012年、阪急うめだ本店がグランドオープンした際、ストアコンセプトを「素敵な時間(トキ)の過ごし方、暮らしの劇場、阪急うめだ本店」とし、各フロアにモノの価値や物語を話題化して伝える「コトコトステージ」を配置するなど、「お客様に新しい体験をしていただく、お客様一人一人が新しい楽しみを見つける」(上田氏)というスタイルへと変化していった。
駅ナカビジネスの展開で、駅のコンビニエンス・ステーション化が進み、フレッシュベーカリー「フレッズカフェ」や「551蓬莱」などが開店。2001年にはターミナル駅で初となる、高級食品スーパーの成城石井が進出し、駅を魅力ある空間に演出している。
2007年に(株)阪急百貨店と(株)阪神百貨店が経営統合し、持株会社体制へ移行。(株)阪急百貨店は、エイチ・ツー・オー リティリング(株)へと社名変更、ならびに(株)阪急百貨店を新設した。そして、2008年には、株式会社阪急阪神百貨店が誕生した。阪急百貨店は「大阪・うめだ本店」から「阪急うめだ本店」に改められた。
2010年、梅田阪急ビルオフィスタワーが竣工。阪急うめだ本店は地下2階から地上13階の低層部分に。地上14階から41階の高層部分にはオフィスが入居している。これにより、阪急百貨店は、売り場面積約8万m2という、国内最大級の百貨店になったのである。さらに、2019年には慣れ親しんだ「梅田駅」の駅名も「大阪梅田駅」へと変更された。
未来(2020年~2022年):共感の時代。同じ価値観を持って進む
阪急電鉄と阪急百貨店はどのような未来に向かっていくのであろうか。
仙海氏は「お客様は情報を集めるのが得意で、駅も百貨店も情報のハブ、情報の結節点や集積地となる」と言う。「情報、モノ、コト」が梅田でつながるようになるのだろう。そして、「お客様とよい価値を共有し、そしてその中で楽しい思いを体験する」(仙海氏)というように、価値の共感、共有の時代へと向かっていくようだ。
阪急阪神ホールディングスグループは、2020年にサスティナビリティ宣言として、未来に向けて、「1. 安全安心の追求、2. ゆたかなまちづくり、3. 未来へつながる暮らしの提案、4. ひとりひとりの活躍、5. 観光保全の推進、6. ガバナンスの充実」と、独自に6つの取組みを始めている。
また阪急うめだ本店においても、「サステナビリティ(持続可能性)への取り組み」として、GOOD FOR THE FUTUREの7つの視点に向かってアクションを起こしている。
2022年には、阪神百貨店が入居するビルが全面開業し、「大阪梅田ツインタワーズ・サウス」が完成する。それに伴い、梅田阪急ビルも「大阪梅田ツインタワーズ・ノース」に改称し、両ビルを「大阪梅田ツインタワーズ」と総称する予定になっている。
「阪急百貨店は引き続き世界ナンバー1の楽しさを追求し、生活の楽しみ方や豊かになる情報の提案を、今の時代にあった形でやっていく」(上田氏)とのこと。これからの阪急うめだ本店の取組みがとても楽しみである。
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