日本初の市営電車

お話を聞かせてくださった大阪市高速電気軌道株式会社 広報課の永澤良太氏と、社員が趣味で制作した市電車両のレプリカお話を聞かせてくださった大阪市高速電気軌道株式会社 広報課の永澤良太氏と、社員が趣味で制作した市電車両のレプリカ

大阪市営地下鉄は2018年4月1日に民営化し、「Osaka Metro(大阪メトロ)」と名称を改めた。それに伴い大阪市交通局は廃止され、大阪市高速電気軌道株式会社が運営を引き継いでいる。運賃やダイヤに変更がないので、「メトロってネーミングが馴染まへんわぁ」と、軽いぼやきが聞こえてくる程度で、今のところ利用者は大きな変化を感じていないようだ。

しかし、市営であることが大切だと感じる市民もいる。なぜなら、大阪の地下鉄が日本初の公営地下鉄だったからだ。それだけではない、その前身と言える大阪市電も、日本初の市営電車なのだ。そこで、今回は大阪市高速電気軌道株式会社 広報課の永澤良太氏に、大阪市電が生まれた背景や歴史を教えていただいた。

大阪市電が産声を上げたのは、大阪市内に大量輸送機関がまったくない時代のこと。それまでは人力車が主役で、1900年大阪駅には450人もの車夫がいたという記録もある。馬車鉄道(四天王寺西門~東天下茶屋)や、巡航船(新町~湊町~戎橋~日本橋)が市内の人の移動を担っており、大きな荷物は船舶で運搬するのが通常だった。しかし当時の大阪港は川口町あたりで水深が浅く、大型の汽船が入れず大阪の商業衰退が続いていたので、海の玄関口として、今の大阪港の地に市民待望の「築港桟橋」が完成する。
そして築港桟橋から、付近に商店の並ぶ九条新道や花街で有名な松島新地があることから西の心斎橋と言われ、大変にぎわっていた花園橋を結ぶ路面電車が1903年9月12日に誕生する。それが大阪市電だ。
「当時は、港に到着した船乗りさんが歓楽街へ向かうのに利用することもありましたが、やはり築港桟橋へ物見遊山に訪れる市民が一番の顧客でした。その後、大阪市会で大阪市の市内交通は大阪市が経営するとした議決を行い、大阪市の中心部へ路線を延長していきます。さらに市域の拡張に合わせて路線も増えていきました。庶民にも手の届く運賃だったため、満員御礼になることも多かったようです。全盛期は大正から昭和で、モータリゼーションが起きる前までは、『ちょっと買い物でも』と、気軽に使われていたようです」。

大阪市電ができたことにより、⼤きく変わったのは鉄や石の橋の増加だろう。「市電を走らせるため、大きな川の木の橋が、鉄や石の橋に架け換えられましたが、桜橋や長堀橋といった地名だけに残る橋も、大阪市電の開通に伴い架け換えられたもの。⼤阪市の橋の⼤半が、⼤阪市電のために架け換えられたといっても過言ではありません」と、永澤氏は教えてくれた。市電のための橋といっても、庶民も自由に渡れたから、大阪市内の道路が広がり、大阪市民の移動は各段に便利になった。

太平洋戦争が始まると、大阪市は頻繁に空襲を受けるようになる。6月1日正午の空襲で174両の車両が燃えたほか、その後に続いた空襲で約850両あった車両が479両まで減り、8月15日の終戦時には、動ける車両は150両ほどだったというから、甚大な被害を受けたようだ。また、戦争による人手不足をうけ、女性運転手の育成にも取り組んでいた。

市電から地下鉄へ

戦後はいち早く復興し、「戦後復興はまず市電から」とも言われたが、昭和30年代に自家用車ブームが起きると、市電は衰退。ついには「市電は交通渋滞の元凶」と報道されるようにさえなる。市電の線路と車道は区画されてはいたが、道幅が広くないことに加えて、輸送手段も船からトラックへと変化するなど、急激に車が増えたため、実際に市電の停車が交通を滞らせることも少なくなかった。昭和35年には、市内の道路交通が10時間も⿇痺することもあったそうだ。

一方大阪市も、1両編成の路面電車では一度で運べる乗客数が少なく、定刻運行が難しいこともあり、将来的に路面電車では大阪市の成長に耐えきれなくなると考えていた。こうして、昭和8年すでに開通していた地下鉄が、急ピッチで路線を延ばすことになったのだ。

当時の技術で地下を掘るのは容易ではなかったし、水路が縦横に走る大阪では特に難しかったはずだ。しかし、当時の関一市長は市役所を通って大阪市を南北に縦断する御堂筋をメインストリートにする構想を描いていた。だから路面交通に影響を与えず、高架が景観の邪魔をしない地下鉄を、御堂筋に作ると英断した。当時、大阪でもっとも主要な道路は四つ橋筋で、御堂筋にも問屋や商家はあったが、むしろ商工会議所などがある堺筋の方が人通りも多い。御堂筋はあまり顧みられない道だったという。
「御堂筋は、大阪の中心・千場を通る、3間(5.4m)の街路でした。これを24間(43.6m)に拡幅し、さらに南北に伸ばすという大工事で、昭和元年に着工しました。その下を走る地下鉄に、10両連結の車両が停車できる長さのホームができたのだから、当時の人たちは呆れたそうです。しかし現在御堂筋線の車両は10両が標準。関市長には優れた先見の明があったのでしょう」

その後大阪万博に向けて地下鉄の路線がグンと増え、その前年1969年の4月に大阪市電は廃業となった。

自動車で混雑する市電自動車で混雑する市電

大阪市民の誇りだった市電

大阪市電の特徴の一つは、私鉄の乗り入れを一切みとめなかったことだろう。
当時の大阪は造船、貿易、繊維などの産業が集中し、日本経済を牽引していたため、「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれていた。人口も面積も日本一を誇っていたから大阪市民の地元愛は強く、「市内の交通網は市がやる。そして市電は市民の特権」という意識が強かったようだ。

2年目の1904年には乗客が減少したため、話題作りのために日本で初めての2階建て車両を導入している。1階も2階も運賃は同じで、築港桟橋に向かう釣り⼈たちのために釣り竿をたてかける箱を取り付けていたほどで、「⿂釣り電⾞」とも呼ばれていた。夏は夕涼み、秋には観月を楽しむ市民が多く、2階にサーチライトをとりつけて、沿線の景色を照らしながら路線上を案内するサービスもあったとか。

「大阪人のサービス精神からでしょうか。お客様から『あれを照らしてくれ』『これを照らしてほしい』と要望を受けると、それに応えていろいろなものを照らしていました。料亭が立ち並ぶ花園橋付近では『料亭の2階で女性をはべらせている金持ちを照らしてくれ』という要望もあったようです。それで料亭の客が『キャッ』と驚くと、乗客は拍手喝采でしたが、後日警察から大目玉をくらったとか。今では考えられないサービスですよね」と、永澤氏は苦笑いしながら教えてくれた。

住之江区緑木にある市電保存館には、大阪市電の車両が6両展示されているが、費用対効果や塗装の保存を考えて、公開は年に一度だけ。例年は保線作業車や、地下鉄車両をつり上げる様子を見ることができるが、今年は民営化後初めての公開なので、さらに楽しんでもらえる企画を検討しているという。

時期は鉄道の日である10月14日以降で、秋ごろにはOsaka Metroのホームページで告知されるそうなので、興味のある人は注目してチェックをしておいてほしい。

二階建て車両は乗客に人気だった二階建て車両は乗客に人気だった

2018年 06月21日 11時05分