菊池川のほとりに建つ5階建て。コンセプトは「誰もが集い、“カタル”場所」
熊本県北西部、有明海に面した玉名市。市の中央をゆったり流れる日本遺産・菊池川のほとりに、ホステル&カフェダイニング「HIKE(ハイク)」はある。緑の河川敷の上にひときわ目立つ、ライトグレーの5階建て。実はもと整形外科医院だったという。オーナーの佐藤充さん・陽子さん夫妻は、約3年も使われずにいたこの建物を自ら買い取り、1年近くかけてリノベーションした。
施設名の「HIKE」には、「ハイキング」と「引き上げる」の2つの意味がある。「訪れる人に、人生の価値を少し引き上げるような出会いや体験を提供したい」と佐藤さん夫妻。コンセプトは、「誰もが集い、“カタル”場所」だ。この「カタル」にも2つの意味があり、1つはもちろん「語る」、そしてもう1つは熊本の方言で「参加する」。HIKEは開業のずっと前から、多くの人の参加を得て誕生した。
福島出身の夫が見た「なんでもある玉名」を、地元の人にも伝えたい
東京で出会い、結婚した佐藤さん夫妻は、2017年5月に陽子さんの故郷である玉名に引越してきた。東京での仕事を辞めてから玉名に落ち着くまで、1年3ヶ月かけて世界37ヶ国を旅したという。
「東京での仕事は充実していたけれど、終電で帰宅して寝るだけの日々では、将来のビジョンが描けなかった。さまざまな国を巡りながら、やはり玉名に住もうと決めたんです」と充さん。自身は福島県の出身だ。「玉名では、妻にとって当たり前のことが、僕には新鮮で魅力的だった。一年中果物が採れるし、身近に温泉がたくさんある。僕が『いいね』と言うと、妻は『えっ、そう?』って(笑)」
移住してからも地元の人によく「ここには何もないでしょ?」「つまらないでしょ?」と言われる。「僕はむしろ『なんでもある玉名』だと思う。そのことを地元の人に気付いてもらいたい」。そんな思いも、HIKEには反映されている。
上左/HIKEの西側を流れる高瀬裏川。手前の「高瀬眼鏡橋」と奥の「秋丸眼鏡橋」はいずれも江戸時代の石橋だ。水辺は公園になっており、5月から6月には約66000本の花菖蒲が咲く 上右/HIKEのある高瀬の街並み。江戸時代に建てられた築200年、300年の古民家が今も残り、老舗の酒屋やお酢、味噌、醤油の醸造元や茶舗、菓子店などが軒を連ねる 下左/菊池川には江戸時代の船着き場の痕跡が残る。写真手前の石積みがそれだ。川に架かる鉄橋は、煉瓦の橋脚が明治、その上のトラス式橋梁が大正のもの。複線化に伴って昭和に手前の橋が架けられた。4つの時代の土木構造物が集まり、ここが交通の要衝であり続けた歴史を感じさせる 下右/HIKEの秋のランチセットの一例。炊き込みご飯は玉名郡和水町の無農薬米に熊本県天草産の芽ひじき。デザートには玉名郡玉東町の果樹園から季節の果物を仕入れている。ほかにも、熊本の郷土料理「だご汁」や玉名郡南関町特産の「南関揚げ」を使ったいなり寿司が名物だ。「旅人に、ここでしか味わえない家庭料理を楽しんでもらいたい」と佐藤さん夫妻屋上から広がる景色に一目惚れ。根気強く事業計画を練る
旅する人から、迎える人へ。玉名を拠点に「人が集まる場所」をつくろう、と志した佐藤さん夫妻だが、HIKEを開業するまでも、そして開業してからも、道のりはまさに山あり谷ありだ。
「まず、物件探しから難航しました」と陽子さん。玉名に空き物件はたくさんありそうに思えるが、手頃な規模、適当な立地の建物はなかなか見つからない。一時は廃校の活用も考えたそうだ。移住から1年半ほどしてこの建物を紹介されたときは、その規模の大きさにひるんだものの、「廃校に比べれば小さい」と意を決した。何よりも、その屋上から広がる雄大な景色に心を奪われた。
建物の耐震性などをチェックしてくれたのは、近くに村田建築設計所を構える村田明彦さんだ。陽子さんの知人を通じて知り合った村田さんは、ふたりを「九州DIYリノベWEEK」の仲間に引き合わせ、HIKEの改修設計にDIY指導にと、HIKE完成に大きな役割を担うことになる。
鉄筋コンクリート5階建て、1階ピロティ、2階は診察室や待合室、3階以上は病室という構成に、「ここなら宿泊施設ができる」とふたりは考える。「付近に温泉旅館はあるけれど、気軽に泊まれる宿はない。ホステル形式なら、私たちに共感してくれるゲストを呼び込めるのでは」と陽子さん。事業計画を練り、金融機関に融資を申し入れた。「けれど、玉名でリノベーションの宿が成り立つのかと危惧されて、決裁が下りるまで、何度も何度も資料を提出し直さなければなりませんでした」
建物に出合ってから半年以上経った2019年7月にようやく引き渡し。それから融資の決裁を得るまで、さらに半年を要した。
上左/改修前のHIKE外観。今は開放的なラウンジになっている2階も、以前は小さな窓が並んでいた 上右/HIKE屋上。周囲に高い建物が少なく、東西両側が川に面しているため、見晴らしは抜群 下左/客室階の廊下。間取りは病院時代とほとんど変えていない。病院の痕跡を残す引き戸には額縁状の飾りを付けて鮮やかな色を塗り、印象を一変させた 下右/ツインの客室。木の小上がりにマットレスを並べた。客室の設計や共用設備には、夫妻の旅の経験が生きている。ほかにシングル、定員6人・8人のファミリールーム、和室がある。相部屋のドミトリーも用意したが、2020年11月現在、コロナ対策のため営業してない(上右以外の写真提供:HIKE)工事中にDIYワークショップを開催。開業はコロナ禍で延期に
引き渡しから着工までの間にふたりがまずしたことは、現地見学&意見交換会の開催だ。近隣の人々やリノベ仲間を招いて建物を見てもらい、使い方や改修方法について話し合った。「まちに開かれた場所にしたかったので、はじめからなるべく多くの人にかかわってもらうようにした」とふたり。その収穫は大きく、ふたりだけでは思いつかなかったアイデアをもらえた。特に大きかったのは、熊本でリノベのレジェンドと呼ばれるサンワ工務店代表・山野潤一さんからの「2階(エントランス階)の外壁をぶち抜いてしまいなさい」というアドバイス。この言葉から、今のHIKEの開放感あふれるラウンジが生まれた。
次に、ワークショップ形式で、屋上の手すりを塗り直し。職人を招いて指導を受けることで、参加者が塗装のコツを学べる機会にした。さらに8月には、目の前の菊池川河畔で大規模な花火大会が開かれる。絶好の観賞スポットとなる屋上を無料開放したところ、146人もが集まった。
10月からは、いよいよ解体に取りかかる。ここから、間仕切り壁の取り壊し、クロス剥がし、とワークショップを重ねていく。「できることはなるべく自分たちの手で、とクロス剥がしに取り組んだものの、予想以上に大変で。多くの人に参加してもらいながらも、2ヶ月近くかかってしまいました」とふたりは振り返る。
それでもなんとか解体にめどが立ち、希望に満ちて年を越し、2月初めには東京から講師を招いて真鍮のカトラリーをつくるワークショップを開く。このときは、まだブルーシートを張ったままの工事中の建物に、満員御礼の40人近くが集まって賑わいを見せた。福岡や八代、さらには東京からと、遠方から足を運んでくれた参加者も少なくなかった。しかしこのあと、雲行きはだんだん怪しくなっていく。言うまでもない。コロナだ。
「当初は2月下旬の開業を目指して工事を進めていたんですが、たとえば中国に注文した照明器具など、届くはずだった資材がだんだん届かなくなって」と陽子さん。目標としていた玉名初のフルマラソン大会(「玉名いだてんマラソン」、定員2000人)も、隣の福岡県内で感染者が発生したため、開催を目前に中止が決まる。さらにその2日後の2月22日、熊本県内でも初の感染が発覚した。
工期遅れのためもあって、次に開業目標に設定した4月には、ついに緊急事態宣言が発出される。「とはいえすでにスタッフも雇い入れていましたから、立ち止まるわけにもいきません。宿泊と夜のバー営業は見合わせ、5月14日に、まずカフェとショップを開業しました」と陽子さん。エントランスに設けたショップ「タシュロン」では、玉名の国指定伝統工芸品・小代焼の器や、隣の南関町「ヤマチク」の竹箸などを扱う。こちらは前年11月に、オンラインショップを先行オープンしていた。
6月に入ってバー営業もスタートし、「ヤマチク」のポップアップショップや、熊本の酒造家を招いての「カタル」会などのイベントを開催。ランチタイムには、オープン前から行列ができるほどの盛況を見せるようになる。「いよいよ宿泊開始!」と意気込んだ、ホステル開業初日が7月10日。令和2年7月豪雨による避難勧告が、玉名市にも発令された。結果として、周辺市町村に比べれば、玉名市内の被害は小さくて済んだが、菊池川は2度氾濫危険水位を超え、HIKEの宿泊開業は、延期せざるを得なかった。
「玉名にこんな場所ができてうれしい」。地元でも歓迎の声
2020年7月13日、HIKEも利用する菊池川河川敷公園の駐車場ゲートが、1週間ぶりに開く。記念すべき宿泊客第一号は、近所に住む一人暮らしの80代女性だったそうだ。
玉名市が市民向けに「地元を楽しもう宿泊等クーポン券」を発行したこともあって、当初の宿泊客はほとんどが「気分転換したい、という近隣の方々でした」と充さん。夏休みに期待した帰省客も、ほとんどいなかったという。9月には台風10号襲来でまた臨時休業を余儀なくされたが、シルバーウィークあたりから、少しずつ客足が伸び始めた。
この間もHIKEでは、健康や食、暮らし、ファッションに関するイベントやポップアップショップを重ねている。陽子さんの旧友からは「玉名にこんな場所をつくってくれてありがとう」という言葉をもらった。「これまでは友だちと集まるのに、ファミレスや居酒屋を使うしかなかったそうなんです」と陽子さん。HIKEのラウンジで同世代の女性たちが子ども連れで待ち合わせする様子を見ると、うれしくなる。「ひとりでいらしてゆっくり本を読んだり、ノートパソコンを広げてお仕事したりと、いろんな使い方をしてくださるようになってきました」。
充さんは「これからは、もっと宿泊に力を入れていきたい」と語る。「ここで、外から来た人たちと地元の人たちが、交流する風景を見たいんです」。
HIKE https://hike-tamana.com/.
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