人口減少、高齢化が進む小菅村に分散型ホテル誕生
JR青梅線の終着駅・奥多摩からバスに乗り、奥多摩湖沿いの曲がりくねった道を行くこと約1時間(※1)。山梨県小菅村は見える景色のほとんどすべてが山、緑という自然の中にある。水音に目をやれば底の石の一つひとつまでが見えるほどの清流。その流れは山を下り、他の河川の水を集めて徐々に勢いを増し、最終的には首都圏に住む私たちにはおなじみの多摩川になる。小菅村は多摩川源流の村なのである。
美しい緑と水に恵まれてはいるものの、小菅村の人口はピークだった昭和30年代の約2,200人から約3分の1にまで減少、高齢化は46%にも及んでおり、このまま何もしなければ2060年には300人を割るという試算もある。
そんな事態を食い止めようと村ではさまざまな取り組みをしており、そのうちのひとつが村全体をひとつのホテルに見立てた分散型ホテル「NIPPONIA 小菅 源流の村」である。2018年の旅館業法改正で玄関帳場(フロント)の設置義務が緩和され、施設のスタッフが10分以内で行ける場所であれば客室を分散して設置できるようになったが、それを利用。村内に散らばる空き家を順に改修、それぞれを客室にしていこうという取り組みである。
また、村全体がホテルと考えれば宿泊客は地元の温泉に入り、道の駅でくつろいだり、買い物をしたりと村の中を歩き回ることになる。それによって村の経済が潤うのはもちろん、人の交流が生まれ、新たなやりがいや楽しみも生まれてくるのではないか。分散型ホテルの面白さは泊まる人だけではなく、受け入れる人にも影響があるところだろう。
地域のランドマークを全4室の客室、レストランに改装
2019年8月にまずオープンしたのは築150年以上という天井の高い合掌造りの古民家、細川邸。細川邸はかつて幕府に箸を献上した歴史があり、改修時には蔵の中から江戸幕府からの指令を村人に伝達するための御触書や幕府に献上品を届ける際に用いた「御用」と書かれた札その他が出てきたというから、村の歴史とともにあった家というわけだ。
歴史だけではない。先代の家主は村の小学校の校長先生で地元の名士。まだテレビが各家庭に普及していなかった昭和30年代前半には近所の人たちは夕食後、テレビを見るために細川邸に集まったそうで、村の人たちにとってはランドマークであり、楽しい思い出のある家なのである。
代が替わって使われなくなった時期があったものの、家族からは「村のために使ってほしい」という意思が示されており、そんなタイミングで小菅村で開催されたのが兵庫県篠山市で分散型のホテルの先駆である「篠山城下町ホテルNIPPONIA」を手がけた株式会社NOTEの藤原岳史氏の講演会。村民約700人のうち、100人もが集まった講演会をきっかけにプロジェクトがスタート、母屋と蔵を4室の客室に、長屋門を22席のレストランに改装した。細川邸が地元で「大家」と呼ばれていたことから、この建物はその名称で呼ばれている。
その1年後の2020年8月にオープンしたのが小菅村の特徴的な地形である急峻な崖に張り出すように立つ2棟を改修した一棟貸しの客室「崖の家」である。村の総面積の95%が森林(そして、その約3分の1は東京都の水源涵養林!)である小菅村には人が使える土地が少ない。そこで村では平らな土地は農業に使い、人は崖地に家を建ててきたという。
まるで絵画のように緑を楽しめる「崖の家」
その歴史を体現する「崖の家」は築100年以上と古く傷みが激しく、屋根、壁はほとんど使えず。結局、梁と四隅の柱だけを残してほぼ新築に近い状態にするしかなかったというが、それでもこの2軒を再生しようと思った理由は建物に入ると分かる。谷を挟んで正面に山が迫る、圧倒的な眺望のためである。玄関の反対側、山側は大きな窓になっており、一枚の絵のような緑が広がっているのである。
内覧会では多くの人が建物に入った途端に「おお」とか「わお」とか、それぞれに驚きの声を発しており、人は感動的なものを見ると頭で考える前に言葉が出るのだと思った。もちろん、私もほかの人同様、思わず、声を上げてしまった。
さらに印象的なのは室内の中央にある冷蔵庫や調理家電、食器、調味料その他を備えた大型キッチン。崖の家では地元の食材を使っての自炊が基本とされており、家族や友人たちとキッチンを囲んで調理しながら、つまみながら、飲みながらの時間が楽しめる。その中心になるのがこのキッチンなのである。地元の左官屋さんが作ったというモルタル仕上げのキッチンはどこか、昔の竈を思わせる造りでもある。
また、室内に置かれているものにはそれぞれに歴史、いわれがあり、地元産も多数。ダイニングテーブルに使われている板は大家で壁などに使われていたものを運んだそうで、天井に飾られた棟上げ時の札も同様。iPadを置く台や蜜蝋ラップを入れてある箱は地元の間伐材から地元のデジファブ工房・小菅つくる座の人たちが作ったもの。置かれている食器は窓からの緑に合わせて落ち着きのある緑が特徴の織部である。
個人的にうっとりしたのは建物の前の土地の植物を使った植栽。小菅の地名の由来のひとつともいわれるコスゲも植えられており、土地の人たちならどれがどこに生えているかを知っているそうだ。玄関に活けられた花も地元の山野草で、これらの風情がなんともいえない。華やかさはないけれど、しみじみと美しいのである。
崖っぷちにある今だからこそ、発信したい
立地に建物、設えと魅力的な「崖の家」だが、もともとは2020年のゴールデンウィーク前にオープンの予定だった。しかし、資材が届かないなど実務的な支障のほかに、コロナ禍という思いもよらぬ事態があり、ホテルの運営に当たる株式会社EDGEの嶋田俊平氏はやるべきかどうか、悩んだという。昨年の大家オープン以来、宿泊は好調で逆に満室が続いた時期には、人手が足りず、清掃などをパートタイムで手伝ってくれる人を、村内全戸回覧で募集したほど。
だが、4月、5月と営業を休止、6月には再開したものの、しばらくは先の見えない時期があった。それでも最終的にオープンを決めたのは崖の家が小菅村独自のものであり、かつ厳しい環境を生き抜いてきた建物であることを発信したいと思ったため。
「今回、コロナでいろいろなものが崖っぷちにあります。そこで、長年崖っぷちで生き残ってきたこの建物を使って、これからの新しい観光のあり方を発信するべきではないかと思ったのです」と嶋田氏。
小菅村は東京都心から約2時間と、このところ言われているマイクロツーリズム(都市近郊への観光)の目的地にふさわしい場所であり、分散型で一戸建ての同ホテルは密を避けられる形式。さらにチェックイン、チェックアウトをともに部屋でリモートで行うことができるため、人との接触は少なく、自室で料理、食事というやり方も同様。そう考えると、地域の食、自然を堪能するゆったりした旅はこれからの旅のスタイルとして有望なのではないだろうか。
世界の一流シェフが惚れ込む小菅村の食材
最後に忘れてはならない小菅村のもうひとつの魅力をご紹介しよう。食である。内覧会の後、レセプションが開かれたのだが、そこで供された食事が実に素晴らしく、率直なところ、意表を突かれた。山の中の古民家ホテルの食事である、なんとなく、和の伝統的な食を中心にしたものを想像していたのだが、実際に並べられた料理はカラフルで現代的。
聞くと、イギリスの月刊誌レストランが選ぶ「世界のベストレストラン50」で4回、第1位に選ばれたデンマーク・コペンハーゲンにあるレストランnomaのヘッドシェフだったトーマス・フレベル氏、タイ料理研究家のカラヤ・ガムクム氏が、ホテルのシェフである鈴木啓泰氏とコラボ、創作したもの。フレベル氏は小菅村の食材に惹かれ、何度も訪れているのだとか。
当然、並べられた料理の材料はすべて地元産。野菜、山菜、米や味噌は想像がつくものの、それ以外に清流を活かしたヤマメやニジマス、イワナなどの川魚にワサビ、甲州地鶏、甲斐サーモンや森の恵みであるジビエと素材は多種にわたっており、そこに世界の一流シェフの腕が加わるとなれば、美味でないわけがない。普段の宿泊でもこうした食材が使われており、朝食には村のお母さんたちの惣菜も加わるという。食べに行くだけでも楽しい旅になりそうである。
6月1日に営業を再開、8月に「崖の家」がオープンした「NIPPONIA 小菅 源流の村」だが、7月、8月はコロナ前の目標の1.5倍という稼働率となっており、崖の家も家族連れ、グループを中心に人気。これから秋に向けては紅葉、晩秋から冬は霧の立ち込める幻想的な風景、春には新緑が楽しめると考えると、四季折々、いつ訪ねても楽しめそう。近くでゆったり、その土地らしさを味わう旅の行き先としてお勧めである。
※1、小菅村へは大月経由その他いくつかのルートがある。もちろん、車で行く手も
NIPPONIA(ニッポニア)小菅 源流の村
https://nipponia-kosuge.jp/
小菅村
http://www.vill.kosuge.yamanashi.jp/
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