徳川家康の家臣・本多忠勝の子孫、忠次

東名高速道路・岡崎インターから車で約5分。動物園もありながら入園無料で、広く市民に親しまれている岡崎市東公園の一角に瀟洒(しょうしゃ)な建物がある。旧本多忠次(ただつぐ)邸だ。

本多忠次は、徳川家康の家臣で、“徳川四天王”と呼ばれた本多忠勝を始祖とする旧岡崎藩主本多家の末裔にあたる。忠次の父で、本多家の十七代目・忠敬(ただあつ)は、宮内省式部官や貴族院議員を歴任する一方で、岡崎城の跡地を利用した岡崎公園の整備や岡崎市の教育振興に貢献し、岡崎市の名誉市民となっている。

子爵の称号を授かっていた忠敬の次男として東京に生まれた忠次が、36歳の時におよそ1年かけて完成させたのがこの邸宅である。1932(昭和7)年のことだ。

その場所は世田谷区野沢で、いまの環七通りの脇で、約7,100m2という広大な敷地。ここで忠次は1999(平成11)年に103歳で亡くなるまで過ごした。その後、遺族から取り壊し予定の話が上がり、専門家が調査に出向いたという。旧本多忠次邸のスタッフ・中野敬子さんがその経緯を教えてくださった。

「個人宅として住み続けられていたことと、周囲を森に囲まれていたこともあってか、知る人ぞ知るという存在でもあったようで、調査した先生方もこれほどの邸宅が残っていたことに驚かれたようです。現地保存は無理でしたので、どこかで復元することを前提とした調査、解体が進むことになり、その間に縁のあった岡崎市に相談があり、お引き受けすることになりました」

2001(平成13)年に本多家から建築部材や家具・調度品などを寄附されたが、予算などの関係で開館までは10年ほどねかせてしまうことになった。ただ、その間にステンドグラスの修理や家具の修復、用地の選定は進み、ようやく2009(平成21)年に用地造成工事がスタート。2012(平成24)年7月6日に開館した。

岡崎市東公園の南西角にたたずむ、旧本多忠次邸岡崎市東公園の南西角にたたずむ、旧本多忠次邸

施主自ら設計に携わった思い入れたっぷりの邸宅

実家から独立するにあたり、家の建築を考えた忠次。そのときはまだ結婚していなかったが、未来の妻と暮らすことを想定した家を建てることに。驚くことに、忠次は用地選定から家の基本設計まで自らが行っている。

「東京帝国大学(現・東京大学)の文科大学哲学科で学び、建築を専門としたわけではないのですが、語学に堪能で、建築に興味もおありだったと思います。いろいろな雑誌を取り寄せるなど勉強をされ、思い描いた通りに図面をひきました。当時の有名な建築家に相談しようと、その方たちが造った東京の個人宅などを観に行ったりもされていたようですが、当時はまだ新進気鋭だった白鳳社(建築工務所)に白羽の矢をたて、ご自身と二人三脚でやっていくという方法をとりました。今でこそ、このスタイルは当たり前ですが、ちょうど上流階級の方がステータスとして洋館を建てる時代から、家族でどのように過ごしていくかということを意識した家造りに変わっていった過渡期にあたるということで、この建物のひとつの評価点になっています」と中野さん。

当時の東京はというと、1923(大正12)年の関東大震災を経て、復興整備が進んでいたころ。田園調布など住宅開発が始まっていたなかで、忠次は高台であることや道の利便性などの明確な条件を持って土地を探した。

土地を取得した忠次は、登山や植物採集を趣味としていたことや、当時の文化人の間で田園趣味がブームになっていた影響から、スパニッシュ風の建築様式を取り入れた。色モルタル仕上げの外壁にフランス瓦の屋根、三連アーチのアーケードテラス、半円形のベイウインドウ(出窓)など、実にしゃれたデザインとなっている。

家具や照明もオリジナルで作成したものとあって、思い入れたっぷりの家が完成した。ほどなく第二次世界大戦が始まってしまうが、空襲などの被害に遭うことはなかった。しかし、終戦後にGHQに接収されることになる。そこで、なんと忠次は、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーに宛て、「思い入れのある家なので改造、改築されることなく住んでいただけるように」と願う手紙を書いた。

その効果なのか、GHQ接収時代はマッカーサーの顧問弁護士である夫婦2人の住まいとなり、家が改築されることも、家具などが散逸することもなかった。その間に日本政府から借上料が支払われており、返却の際には瑕疵部分の補償金が出て、それらをその後の修繕費の足しにしたそうだ。

このように当初から大きな改築がされず、家具や照明などの内装品もほぼそのまま、さらに設計図面や構想ノートなどの紙資料が残っている、そして住まわれていたご遺族がいまもいらっしゃってエピソードが聞けるということは、近代建築としてとても貴重な存在だという。時代性が反映されているとして、2014(平成26)年には国登録有形文化財となった。

上/旧本多忠次邸の館内マップ。公の施設として公開するにあたり、第一女中室など一部を多目的トイレやエレベーターなどに改造した。下/館内に展示されている、忠次が描いた設計図。団らん室にはピンポン台、ビリヤード台、パンチングボールの設置を希望しており、友人たちと楽しく過ごすことを想定していたことが分かる上/旧本多忠次邸の館内マップ。公の施設として公開するにあたり、第一女中室など一部を多目的トイレやエレベーターなどに改造した。下/館内に展示されている、忠次が描いた設計図。団らん室にはピンポン台、ビリヤード台、パンチングボールの設置を希望しており、友人たちと楽しく過ごすことを想定していたことが分かる

大きく4つのゾーンに分かれた1階

1階は大きく4つのゾーンに分かれた中廊下式の造りとなっている。西側が応接室など接客スペース、東側はプライベート空間として和室の夫人室、南側にはくつろぎスペースとして食堂や団らん室、北側には水回りと使用人スペースといった具合だ。

「明治、大正時代を過ぎておりますので、和館併設型ではなく、洋館のなかに和室を取り入れた和洋折衷です。そして、使用人さんたちがいながらも家族のプライベート空間を確保できるような動線というのも考えて設計されており、本当に家造りを楽しまれたということが随所にみられます」と中野さんは語る。

先の項の画像で紹介した、忠次手書きの設計図には「御用聞きが食堂を見ぬように」といったことも書き込まれていたりするのである。また、夫人室には日光室(室内テラス)が併設されている。外観でみると半円形のベイウインドウのところにあたる。当時、太陽に当たることは健康によいということから多くの洋館で取り入れられていた日光室を、まだ見ぬ妻のために備えるという優しさが垣間見える。

団らん室や食堂の家具、照明はオリジナルデザインで、そのまましっかり保存されている。どうしても劣化してしまうソファーの布地やカーテン、じゅうたんなど一部は新しいものとなったが、かつての趣を再現している。

北側の湯殿(浴室)はモザイクタイルを使用し、窓にはステンドグラスがはめこまれ、とても素敵な雰囲気だ。「ところが」と中野さんが忠次の娘さんから聞いたという逸話を教えてくださった。

「(北側に位置していたことで)お嬢様に言わせると、寒いわ、暗いわと悲しいお風呂だったそうです(笑)。お嬢様のお友だちで泊まりに来たことのある方も『真っ暗な中で入ったよね』とおっしゃっていたとのこと。忠次氏はもともと土いじりもお好きな方で、登山や植物採集も趣味。なので、お風呂は作業後にそのまま入ったりと、昼間に利用するというのがご自身の生活スタイルだったと思われるんです。実際に外から湯殿に入れるように扉が設置されています。昼間入るには、ステンドグラスもきれいですし、東向きなので朝日も入って朝風呂も最高。でも、夜に利用する女性陣のことまで設計時には考えられてなかったかもしれません」

ちなみに、建築部材のオリジナル使用率は、瓦78%、タイル66%、木材78%とのこと。新規で作ることになったタイルと瓦は、近隣地域の有名な産地に依頼。タイルは常滑市、瓦は高浜市だ。タイルはいまの技術ではきれいに均一に焼けてしまうとのことで、当時のような色むらを出すため、少しずつ色を変えた何種類かをランダムに貼り付けることで再現したそうだ。復原では、人目につく箇所にはもとの部材をなるべく使い、見えにくいところで新規材を使うようにした。

①団らん室。窓際にあった備え付けのソファーも当時のまま。照明器具は部屋ごとにデザインが変えられている。漆喰壁などは職人が昔の工法を守って再現した②団らん室から続く食堂。扉で仕切ることもできる。ダイニングテーブルは可動式で天板の真ん中部分で伸ばすことができ、普段は8人掛けだが、10人掛けでの利用が可能に③日光室を併設した夫人室。日光室があることで、外からは和室があるとは分からない洋風の趣になっている。床の間付きの和室は、女性らしい柔らかな印象のある細い柱の造り④配膳室から使用人が料理を出すタイミングを見られる小窓を設けた食器棚もオリジナルデザイン⑤家具にはGHQ接収時に付けられたハウスナンバーが残っている⑥湯殿。浴槽右側にある陶器製の羊モチーフの口からお湯が出て、浅い所から湯が流れ込むことで浴室全体に蒸気が溜まり、昔ながらの湯殿とよばれるシステムになっている。左側の小さい水槽は上がり湯を溜めておくところ⑦浴槽の底のタイルは水の色がきれいに見えるように水色のタイルを使用することが、忠次の構想ノートに書かれていた①団らん室。窓際にあった備え付けのソファーも当時のまま。照明器具は部屋ごとにデザインが変えられている。漆喰壁などは職人が昔の工法を守って再現した②団らん室から続く食堂。扉で仕切ることもできる。ダイニングテーブルは可動式で天板の真ん中部分で伸ばすことができ、普段は8人掛けだが、10人掛けでの利用が可能に③日光室を併設した夫人室。日光室があることで、外からは和室があるとは分からない洋風の趣になっている。床の間付きの和室は、女性らしい柔らかな印象のある細い柱の造り④配膳室から使用人が料理を出すタイミングを見られる小窓を設けた食器棚もオリジナルデザイン⑤家具にはGHQ接収時に付けられたハウスナンバーが残っている⑥湯殿。浴槽右側にある陶器製の羊モチーフの口からお湯が出て、浅い所から湯が流れ込むことで浴室全体に蒸気が溜まり、昔ながらの湯殿とよばれるシステムになっている。左側の小さい水槽は上がり湯を溜めておくところ⑦浴槽の底のタイルは水の色がきれいに見えるように水色のタイルを使用することが、忠次の構想ノートに書かれていた

スパニッシュ様式の特徴のひとつである壁泉

上/前庭に設置された壁泉のあるプール。下/玄関にも壁泉が設けられており、涼しさを演出したと考えられている上/前庭に設置された壁泉のあるプール。下/玄関にも壁泉が設けられており、涼しさを演出したと考えられている

食堂の前には庭が広がり、眺めがいい。扉を開放すれば、庭に出られるようになっており、ガーデンパーティーも開催していたようだ。移築の際、東西南北はもとの場所と同じまま復原されたが、用地の都合で庭の広さは3分の1ほどに縮小された。当時は7,100m2の土地の端に家が立ち、いまの環七通りからヒマラヤスギのアプローチを過ぎて玄関へとつながっていたそうだ。

庭には壁泉(へきせん)のあるプールが設けられている。現在、建物から壁泉の水路の先端までの距離はそろえてあるものの、水路自体も2分の1の長さに。食堂から見られるエンジェル像の眺めは当時とは少し違ってはいるが、開放感は十分あるように感じた。

壁泉はスパニッシュ様式の特徴のひとつとされる。残念ながら水路や、プール部分の部材は新規材だが、エンジェル像や水の流れ口となっていたシャチのレリーフは当時のもの。そのまま建物のほうを振り返ると見ることができる妻飾り(外壁の三角形の部分にある飾り)のライオンが、シャチと向かい合うようなかたちに。「海のものと陸のものが面して家を守る、もしくは緊張感を演出しているのではないかと言われています」とのことだ。

邸宅美術館としてなど活用しながら、価値や歴史を伝える

2階には寝室、書斎、客間などがある。書斎は机の前方一面が窓になっており、東から西までぐるりと陽の光が入るように工夫されている。「忠次氏はかなり長い時間をここで過ごされていたようです。太陽の位置や方位を記した図面も残っており、窓の高さをどこまでにするかなどの計算もされていたようです」と中野さん。

書斎の隣は“茶室”。その隣が3部屋続きの和室となっているが、そこに茶を点てる炉縁はなく、紅茶派だったという忠次はティールームスタイルの部屋を茶室と呼んでいた。建築当時は最新式だった1920年代のアールデコのデザインを取り入れた部屋となっている。ソファーの座面は朱色で、黒の漆のひじ掛けなどと伝統的な組合せの色合いだが、背もたれの一部が金属でモダンな印象に。

「書斎をイギリスの古典的なデザイン、その隣にフランスの最新式のアールデコ、その隣が和室と。見学された方からは、建築士だったらこういうデザインにはしない、もっとトータルに発想するという感想をいただくことがありますが、施主である忠次氏がセンス良く組み合わされたのだと思います」

また、2階について「忠次氏の息子さんと娘さんに話をお聞きしたところ、2階はお父様のエリアで、旅行のお土産をもらうのに呼ばれたときなどに和室に座って待つというような、そんなときくらいしか2階には上がらなかったそうです」というエピソードが残る。

今後について中野さんはこう語る。「忠次氏が建物を愛していたことをご家族が承知されていたので、壊す前にとお声がかかり、建物を残すことができました。移築に際しては岡崎市の予算が間に合わず、解体から運搬までの費用を奥様がご負担してくださることになりました。

こういった歴史的な建物は、ご親族が亡くなられて解体されてしまうこともあり、保存の難しい点だとも思います。こちらはご家族がいまもときどき遊びに来てくださり、まだ歴史が途絶えていません。戦争で焼けなかったというのも忠次氏の人生に強運の星がついていたからかもしれません。

移築に関しては賛否両論ありましたが、残すと決めたからには活用し、どうしたら市民の方や本多家に恩返ししていけるのかということを心に置いて、伝えていかなければと思っています」

実際に住んでいた人のエピソードが聞けることでとても豊かなイメージができ、興味深く見学することができた。これらのエピソードは市民ボランティアによる無料ガイドの案内で聞くことができる(しばらくは新型コロナウイルスの感染予防から中止しているため要問合せ)。

また、2階の和室や1階の夫人室および日光室を展示室としての貸し出しや、近代建築などの歴史文化講座も行っている。そして通常の入館料は無料だが、年1回、有料展を主催する。2020年8月には「はじまりのマイセン―18世紀マイセン磁器の魅力」と題した企画展を実施予定。食堂にディナーセットを飾ったり、床の間に壷を置いたりと、“邸宅美術館”というスタイルで発信する。

「岡崎市にはほかにも近代建築を残していこうという動きがあり、その先駆けとして、まずは足を運んでいただこうと、入館無料で始まったそうです」とのことだが、これだけ見どころのある邸宅を無料で見られる機会はそうはない。多くの人にぜひ訪れてほしいと思う。

取材協力:旧本多忠次邸(岡崎市教育委員会)
     https://www.city.okazaki.lg.jp/1100/1109/1162/p011774.html

①寝室②ベッドには立葵の家紋をアレンジしたデザインが施されている③2階浴室。1階の湯殿とは異なり、ここの浴槽は琺瑯(ほうろう)製。主に身支度用のシャワー使いがされていたという。天井裏に大きな水槽タンクがあり、地下のボイラー室から湯を上げ、圧をかけて使う仕組みになっていたという④書斎⑤茶室⑥1階、2階にはそれぞれ消火栓が備えられていた(写真は2階のもの)。2階のベランダには避難ハシゴも備えられており、「火事が頻繁に発生したとされる江戸のDNAが残っていたと思いますし、関東大震災を経験したあとでもあったので、設置したのではないでしょうか。ホースは家の端から端まで渡せる、10mの長さ。本来は木の扉で目隠しされていましたが、いまは見えるようにガラス戸にしました」と中野さん⑦3間続きの和室。奥が客間、真ん中が次の間、手前が控の間。客間の床柱や違い棚には、忠次自身が探し求めたというカエデの木を使用⑧客間と次の間の間の欄間は鶴の絵柄で、写真では分かりにくいかもしれないが客間のふすまは金色で山が描かれており、山の上を鶴が舞うというデザインになっている⑨和室の南側には縁側があるため、外から和室の障子が見えないように。1階の夫人室と同様、洋館の雰囲気を損ねないようになっている①寝室②ベッドには立葵の家紋をアレンジしたデザインが施されている③2階浴室。1階の湯殿とは異なり、ここの浴槽は琺瑯(ほうろう)製。主に身支度用のシャワー使いがされていたという。天井裏に大きな水槽タンクがあり、地下のボイラー室から湯を上げ、圧をかけて使う仕組みになっていたという④書斎⑤茶室⑥1階、2階にはそれぞれ消火栓が備えられていた(写真は2階のもの)。2階のベランダには避難ハシゴも備えられており、「火事が頻繁に発生したとされる江戸のDNAが残っていたと思いますし、関東大震災を経験したあとでもあったので、設置したのではないでしょうか。ホースは家の端から端まで渡せる、10mの長さ。本来は木の扉で目隠しされていましたが、いまは見えるようにガラス戸にしました」と中野さん⑦3間続きの和室。奥が客間、真ん中が次の間、手前が控の間。客間の床柱や違い棚には、忠次自身が探し求めたというカエデの木を使用⑧客間と次の間の間の欄間は鶴の絵柄で、写真では分かりにくいかもしれないが客間のふすまは金色で山が描かれており、山の上を鶴が舞うというデザインになっている⑨和室の南側には縁側があるため、外から和室の障子が見えないように。1階の夫人室と同様、洋館の雰囲気を損ねないようになっている

2020年 07月27日 11時05分