日本の成長を支えた労働者のまち、山谷

泪橋そしてかつてこの地を流れていた思川を説明する掲示板。歴史のあるまちなのである泪橋そしてかつてこの地を流れていた思川を説明する掲示板。歴史のあるまちなのである

日本の大都市にはいくつか、高度経済成長期以降の、景気の良かった時代に生まれた労働者のまちがある。台東区と荒川区にまたがる一角、山谷(さんや)はそのひとつ。郷里を離れてひとり、3畳ほどの宿に泊まりこみ、その日限りの契約で建設現場の作業をしてきた男たちが集まっているまちだが、最近は高齢化が進展。かつては荒々しいほどの活気に満ちていたまちの商店街もアーケードは撤去され、商店が減って人影を見ることは少なくなった。もちろん、今も住み続けている人はいるが、そのうちのかなりの人達は公共の扶助を受けて暮らしている。

そんなまちに2019年2月、緑色の看板が目立つ新しい場が誕生した。泪橋ホール。映画喫茶である。壁一面が映画のポスターだったり、映画にちなんだカクテルやメニューがある店なら他にもあるが、喫茶店で映画の上映は珍しい。それにそもそも、なぜ、わざわざ、このまちなのか。

オーナーの多田裕美子氏は現在、浅草に住んでいる。だが、2001年までの29年間、現在、泪橋ホールがある隣の建物に多田氏の両親が営む食堂があった。丸善食堂という中央にコの字型の細長いカウンターがある、今ではほとんど見られなくなったタイプの、食堂という名称ながらも飲み屋である。

学生になってからは店を手伝うこともあったという多田氏だが、だからといって当時からずっと山谷に関心があったというわけではない。大学を出てからはスタジオ勤務などを経てフリーランスのカメラマンとして忙しく働いていたからである。

ひとり、愚痴を言わずに飲む人が多いまち

著書を手に多田氏。泪橋ホールの名物は丸善食堂以前に中華料理店をやっていたことから、多田氏のおかあさんが作る餃子なのだとか。取材時に食べ損ねたのが残念著書を手に多田氏。泪橋ホールの名物は丸善食堂以前に中華料理店をやっていたことから、多田氏のおかあさんが作る餃子なのだとか。取材時に食べ損ねたのが残念

その多田氏が山谷を離れて10年以上の後、再び山谷に関わることになったきっかけが写真である。雑誌などの依頼による撮影ではなく、自分の作品を撮ろうと思った時に思い出したのが丸善食堂で見知った男たちの姿だったのだ。

それ以前にも食堂内で撮影をしたことはあり、渡した紙焼きを何年も大事に持ってくれている人がいる一方で、撮影を嫌い、コップを投げつける人などもいたという。それでも再度撮ってみようと思ったのは、多田氏が多くの人の姿をレンズ越しに眺めてきた経験があったからだろうと思う。面白いと思うが、カメラという機械を通して見ると時として人や風景が違うものに見えることがある。今まで見えていなかったものがふと立ち現れたり、見えていたはずのものが見えなくなったり。

多田氏はこの時期に撮影した写真をまとめて2016年に「山谷 ヤマの男」(筑摩書房)と題した書籍を上梓しているのだが、その中に山谷の男たちを撮ろうと思った時のことが綴られている。

20代の頃と違い、社会で働き続けていれば酒の場で愚痴のひとつも出る。ところが山谷ではそれがない。また、誰も過去を語らないし、聞きたがらないとも。郷里や家族と離れてひとり生き、ひとり飲み、互いにそれを知っているから喧嘩はしても人には優しいまちなのだと。

「昔から知っていたのに気づかなかった、こんな街はどこにもなかった」

だからこそ、まだまだ危ない場所と言われていたこのまちで男たちを撮ったのである。

福祉のまちとなった山谷の厳しい現状

1999年から2年間、商店街から少し離れた玉姫公園で週末だけの写真館を開き、男たちを撮り続けた多田氏。その間に起きた出来事はどれもほろっとしたり、はらはらしたりとドラマのようだが、それらは書籍で読んでいただくとして、その写真がさらに十数年の時を経て書籍としてまとまりかけていた時期、多田氏は3度、山谷に戻って来た。

「撮影後、2度ほど展覧会をしたものの、それ以降お蔵入りになっていた写真を写真家であり編集者である都築響一さんに再発見していただき、ようやく書籍になることになったのですが、そこで現在の山谷の姿も入れようということになったのです」

久しぶりに訪れた山谷は福祉のまちになっていた。多田氏の両親がやっていた食堂は閉店後に福祉施設となっており、多田氏はそこから現在の山谷に関わるようになった。人手不足だからと頼まれて宿直をやったり、調理の手伝いをしたり……。そこで感じたのは社会で生きづらさを抱えた人たちを受け入れる優しさのある山谷というまちの魅力だ。組織や社会に馴染めなかった人達もここなら生きていける。さらにこのまちで働く人、暮らす人を取り巻く厳しい現実を知り、何かしたいと思うようになった。福祉ではない何かを。

そこで物件を探し始めるのだが、最初の時点では映画という発想ではなかった。ただ、たまたま見た土間のある物件の天井の高さに、これなら映画が上映できると思い、以降は映画をやる喫茶店をと思うようになった。

泪橋ホール入り口。右側が上映後の入り口になっている泪橋ホール入り口。右側が上映後の入り口になっている

物件探し、施工に映画の上映と多難の続く開業まで、開業後も苦難続き

物件を見つけたのは2018年の6月。契約直前まで行ってダメになった物件があり落ち込んでいたところに、前述の福祉施設の職員から隣の建物のリフォーム工事がうるさいという相談があった。見に来てみると境界を越えて壁が作られようとしていた。今、泪橋ホールがある店舗部分の後ろにアパートがあり、それを宿泊施設にしようと購入した投資家が違法な工事をしていたのである。咎めようとして気づいた。手前に天井の高い、良い感じの店舗がある。しかも、そこは倉庫にする予定だという。そこで壁については多少の譲歩をすることにし、その分、手前部分を安価で貸してくれと交渉。最終的に借りるまでにはさらにトラブルもあったそうだが、なんとか借りることになった。

だが、それからも開業に至るまで、そして開業してからも苦難は続く。この物件以前に2度も直前にキャンセルをされていた大工さんに今度こそと依頼したところ、忙しいからと着工が遅れ、せっかくのフリーレント2ヶ月が無駄になってしまった。また、飲食も映画も始めての、多田氏の頭の中だけにあるイメージでの注文に大工さんが「ワケが分からない」と頭を抱えたこともあったものの、最終的には良い感じに仕上がった。「最後まで丁寧な仕事で感謝しています」と、多田氏。

さらにそれ以上に問題だったのは映画の上映だ。「映画の配給元に直接電話をして交渉に行ったのですが、日本の古い、おじさんたちが喜んでくれそうな映画は1本5万円。1人あたりワンコインで一杯に入っても30人ほどの場所では、上映するには持ち出しになります。日活が3万円で3回上映できるとのことで2本借りて6回上映することにしたものの、最後の回の入場者はわずか1人。500円。開業前にクラウドファンディングで改修費プラスαは集めていたものの、これではとうてい回りません」

泪橋ホール店内。テーブルをどかせば40人は入る。映画上映時は入えい口側を閉めてスクリーンを作る。上映中に入ってくる人は脇のドアから背後に回る仕組み泪橋ホール店内。テーブルをどかせば40人は入る。映画上映時は入えい口側を閉めてスクリーンを作る。上映中に入ってくる人は脇のドアから背後に回る仕組み

若い人たちが入ってくることもある、懐の深いまち

あれこれ探すうちに著作権の切れた作品を貸してくれる会社と知り合い、現在はそこから借りた作品を上映している。映画会社から借りるよりはお手頃な料金で、これなら毎日上映できる。おじさんたちが好きな昭和の日本映画ばかりではないものの、ほぼ毎日15時~、800円(税込み。以下同)と気軽に見られることを良しとすべきだろう。しかも、年金生活者、生活保護受給者に加え、福祉関係施設の従事者、学生さんはワンコイン。少しでも息抜きをという思いが伝わる料金設定だ。

月に何度か、別料金でイベント、ドキュメンタリー映画の上映なども行っている。往年のアイドルの投げ銭ライブなど、満員御礼になる会もあるそうで、遠方からも訪れるイベント参加者、日々訪れる地元の人たちと少しずつ常連さんは増えてきている。だが、課題は昼間の集客。年金暮らしで映画好きなら楽しい場所だと思うし、ウチの近所にも欲しいと思うが、まだまだ知らない人が多いのだろう。ちょっと残念である。

ところで高齢化が進むと言われる山谷だが、浅草から近いこともあって近年は外国人観光客の姿も見かけるようになった。また、人間関係がうまくいかず、心を病むなどして新たにこのまちにやってくる30~50代の人達もいるという。

「若い人たちの中には昔風の居酒屋に馴染めないとウチに通ってくる人もいます。束縛されたくないから一人でいるけれど、本当は寂しがり屋で、でも、人との距離がうまく取れない。そんな、人と交わるのが難しい人たちがほんの一瞬、イベントなどで他人と同じ空間にいて、ああ、こういう人もいるんだと思えれば、この場所の意味もあるのかな」

若い人たちの中にはやがてこのまちから姿を消す人もいるそうで、ある意味、今の山谷は一時隠れ住んで傷を癒す場となっているのかもしれない。多田氏の母は丸善食堂で酔って暴れる男達をいなし、癒す山谷のアイドルだったというが、今後の泪橋ホールがそうした場になっていくとしたら、家族の歴史とは面白いものだと思う。そして、そうなってほしいとも思う。

古い映画が好きな人なら楽しめそうな店内、店頭。最近では毎日のように顔を出す人もいるそうだ古い映画が好きな人なら楽しめそうな店内、店頭。最近では毎日のように顔を出す人もいるそうだ

2019年 11月21日 11時05分