民藝運動の本拠地として1936(昭和11)年に開設された日本民藝館
東京都目黒区駒場4丁目。東京大学駒場キャンパスの緑に囲まれた閑静な住宅地の一角に、登録有形文化財『日本民藝館』がひっそりと佇んでいることをご存知だろうか?
この『日本民藝館』本館は、1926(大正15)年にはじまった民藝運動の中心的指導者・柳宗悦(やなぎむねよし/1889~1961)が活動の本拠地として開設した施設で、柳自身の住まいであった西館のすぐ目の前に建っている。1936(昭和11)年の竣工というから、築年数は80年超。第二次世界大戦の戦火を免れ、竣工当時のままの凛とした姿で現存している貴重な建物だ。
思想家であり美学者としても知られる柳宗悦が「民藝という新しい美の概念の普及」を目指し、生活美の集大成的空間として自ら設計したという『日本民藝館』。その見どころと建物保存について、学芸員の古屋真弓さんにお話を聞いた。
日常的な暮らしの中に“用の美”を見いだし、文化を正しく評価する『民藝運動』
▲学芸員の古屋真弓さんは、高校生のときに初めて『日本民藝館』を訪れ“この空間で過ごしたい”と感じたのがきっかけで学芸員になったという。「柳宗悦の思想の素晴らしさのひとつは、それぞれの民族が持っている生活美を肯定していること。例えば、戦前に標準語政策で沖縄の方言が弾圧されたときにも、“けしからん。方言は大切な文化だ!”と主張したのが柳宗悦でした。古いから、珍しいからと作品を収集したのではなく、美しさを見出していったのに加え、その物の向こう側にある文化を深く掘り下げ理解する姿勢も、柳が指導した『民藝運動』なのだと思います」「柳宗悦の住まいだった西館の『石屋根長屋門』は、もともと栃木県の日光街道沿いの豪農宅にあったもので、ちょうど売りに出されていたものを柳が買い取って移築しました。職人さんもはるばる栃木から呼びよせ、門の両側に応接室と音楽室をつくり、その空間に意匠を合わせる形で西館の母屋を設計したのです。
その1年後に、向かいの土地に『日本民藝館』を建てたのですが、民藝館のデザインも母屋と揃えたいということで、外観から内装まですべて柳自身が設計しています。柳本人は長屋門の意匠に合わせて、作品が最も美しく見えることを念頭に、常識にとらわれずに設計していたので、大工さんたちにとってはとても難しい工事だったと聞いています」(以下、「」内は古屋さん談)
当時、柳宗悦が指導していた『民藝運動』では、時代や民族・地域を問わず、日常的な生活の中で使われてきた日用品に“用の美”を見出すことを由(よし)とし、従来の美術史の中では正当に評価されてこなかった「生活美の価値」について広める活動を行っていた。『民藝』というのは活動の過程で柳らがつくりだした造語だ。その後、柳は“民藝の美しさを言葉で説明するだけではなく、実際に物を見てもらって、自分たちの主張を理解してもらいたい”と考えるようになり、悲願ともいえる『日本民藝館』を完成させた。
「所蔵品は1万7000点超。その約9割は柳自身が自ら国内外で収集したもので、陶磁・染織・木漆工・絵画・金工・石工・編組など、柳の審美眼によって選ばれたものばかりです。『日本民藝館』ではその所蔵品の中からテーマに合わせて選定し、年5回の展覧を行っています」
「どうしたら、物がいかに美しく見えるのか?」が計算し尽くされた空間
あくまでも、住まいではなく“美術館”として設計された『日本民藝館』だが、建物に入って最初に驚かされるのは、まず「入口で靴を脱ぐこと」だ。
「この建物の最大の特徴は、吹抜けのある玄関です。美術館として建てられたのに、まるで普通の家のように靴を脱ぐスタイルというのはとても珍しいですよね?玄関の入口に段差を設けることで“害虫が入りにくくなる”という知恵もあるのですが、実は柳の中には“民藝館をより温かく家庭的なものを感じる空間にしたい”という構想があったからなのです。
美術館というと、とかく無機質で冷たい空間になりがちですが、入口で“靴を脱ぐ”ことで緊張感が緩みます。緊張が緩めば、これから観賞する作品を自分の中に取り入れやすくなる…民藝の温もりや生活感を率直に伝えたいという想いもどこかにあったのではないかと思います」
館内を散策していると、どの風景を切り取っても美しい。そのため、過去に取材で訪れた多くのカメラマンたちが「もっといろんなアングルで撮影をしたいから」と、つい長居をしてしまうというエピソードにも納得できる。
「展示ケースも含めて“どうしたら、物がいかに美しく見えるのか?“ということを意識して柳が設計しています。例えば、障子を通して漏れる光。木や石の質感。葛布(くずふ)と呼ばれる葛の繊維でできた壁紙。こうした天然素材の組み合わせによって“空間は自然に美しく見える”ということが計算し尽くされています。
細部まで柳のこだわりがつまっているので、ここを訪れる人たちは“展示品を観賞する”のではなく、“この空間を楽しむために訪れる”というリピーターの方も多いですね。既成概念に捉われず、建物の様式にも捉われず、ただ“自分が美しい”と思う物を再現している…柳宗悦というひとりの美学者の目を通してすべて選ばれているので、バラバラなように見えて一貫性がある美しさに、きっと多くの人たちが惹きつけられるのでしょう」
▲海外渡航経験から、西洋や韓国の文化にも造詣が深かったという柳宗悦。この吹抜けの階段も、ヨーロッパで出会った建築様式を見て自分の中に蓄積し、和の建築美を融合して再現したものだと考えられる。「よく“民藝館にあるのは民芸品だけなの?”とご質問を受けるのですが、単に民芸品を展示しているのではなく、柳自身が美しいと思って収集したものを収蔵しています。その多くが“生活の中にある美”であって、使う人のことを思ってつくられた作品ばかり。あえて展示品には説明書きをせず、最低限の情報だけにしているのも開館当初からの柳のこだわりです。情報を極力抑えることで“このカタチがいいな、好きだな、触ってみたいな”と感じていただくことが大切なのです」天然素材が多く使われているぶん、建物の修繕が難しい
こうして、柳宗悦が新しく提唱した民藝の美を令和の現在まで伝え続けている『日本民藝館』だが、80年超の築年数を経て、いよいよ大規模な修繕が必要な時期に突入した。これだけの特別な想いがつまった建物の修繕には、当然ながら莫大なお金と時間がかかる。
「昔の建物は頑丈にできているとはいえ、80年も経つとあちこちに傷みが出てきて、現時点では“不具合が出たらその都度補修する”というのが精一杯です。また、意匠のひとつひとつ、細部にわたって当時の職人さんの技術が生かされているので、今となっては修復技術を持った職人さんや修復用の素材を探すにも一苦労している状態です。
例えば、外壁や玄関床面の大谷石(おおやいし)は、加工がしやすいからということで使われているのですが、軟らかい石なのでどんどん欠けたり削れていきます。耐震基準は満たしているものの、“もし次に大きな地震がきたらどうなるんだろう?”と不安に感じることもありますね。
現代の加工材であればもっと強度の高い代用品もあるのでしょうが、柳自身が天然素材にこだわってつくった建物ですから“偽物での補修”はできません。今後の建物保存のことを考えると問題はまだまだ山積です」
耐久性・効率性だけを求めると、民藝は失われる
▲建物の中へ入った瞬間に多くの人たちが“懐かしい”と感じる空間。『日本民藝館』では建物補修のための募金を現在も引き続き募集している。「この美しい建物や作品を後世に残していきたい…そのためには、皆さまのご協力が不可欠だと考えています」と古屋さん『日本民藝館』では、開館80周年を機に建物補修のための募金をスタートした。しかし、費用面の課題に限らず、“歴史ある建物を残していく意義”について、多くの人たちの賛同・協力を得ることが何より重要だと古屋さんは話す。
「毎年、小学5年生の児童たちがここへ美術鑑賞見学に来るのですが、不思議と“なんか懐かしい”という子どもが毎年いるんですよね。
都会生まれの子どもたちが、過去にこういう空間を体験したことなんておそらく無いはずなのに、日本人のDNAに組み込まれた記憶なのでしょうか?この建物を見て多くの人たちが“懐かしい”と感じるのはすごいことだと思います。
今つくった建物は、50年、80年、100年後にも残されていくもの。つまり、建物を建てるというのは、その存在を残していく作業でもあります。柳がこの『日本民藝館』をつくったのは、徐々に工業化が進んできた昭和初期の時代。おそらく画一的な日本の未来の風景を危惧したからこそ、“耐久性・効率性だけを求めると民藝は失われる”というメッセージを、この建物を通じて残したかったのでしょう。だからこそ、今後も『日本民藝館』のファンを増やし続けて、良い形で保存していきたいと考えています」
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もともとは、建物も“民芸品”のひとつだった。しかし、いつしか工業化が進み、建築用の部材は工場で精密かつ大量につくられるようになって、画一的な建物が世に溢れるようになった。そんな加工品のような建物に囲まれている現代だからこそ、初めて『日本民藝館』を訪れた子どもたちはこの建物の温もりに惹かれ、「懐かしい」と表現するのかもしれない。
「物をつくることに誠実でないと、良い物は生まれない」。これは生前の柳がよく口にしていた言葉だという。この想いを徹底して再現した『日本民藝館』の存在意義について、皆さんもぜひ一度現地へ足を運び、じっくりと考えてみてほしい。
■取材協力/日本民藝館
http://www.mingeikan.or.jp/
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