Uターンの女性が、文化財級の古民家を買い取った!?
佐渡の玄関口、両津港から車で約25分。山田というのどかな水田に囲まれた場所に古民家の宿が誕生した。
建築年は定かではなく、文献として遡れるのは明治初期というが、移築されてきた経緯を考えると江戸の頃に造られているのは想像に難くない。その立派な太さの梁や大黒柱、見事なつくりはまさに文化財級。実際に文化財登録も検討されていたそうだ。
オーナーは、Uターンで佐渡に戻ってきたという元会社員の春日絵里奈さんだ。Uターンといっても、ご実家はこの場所からは大分離れている。知人もいなければ、この家とも縁もゆかりもない。にもかかわらず、春日さんは驚くほど高額なローンを組んで、わざわざこの古民家を買い取ったのだという。資金難を解決するために、リノベーションに際しては、DIYや工務店を通さない分離発注までやってのけた。
まさに孤軍奮闘。なぜそこまでして、この家に魅入られたのだろうか? 今回は佐渡に誕生した古民家の宿「長蔵」にまつわる歴史とそのオーナーの物語を紹介したい。
広い廊下、「槍の廊下」の存在意義
この家は元々「萩田家」と呼ばれ、古くから山主として地域でも有数の名家だった。
林業を営んでいたというが、代々役人を輩出するほどの家柄。江戸の頃は今の場所ではなく、さらに奥まった山間部に建っていたという。それが、村ごと山から下りてきて、現在の場所に移築された。時代は定かではないが、移築されたのが明治初期。その前から山の上に建っていたわけだから、はじめに建てられたのは江戸時代になるだろう。
そんな時代の建物がよく残っていると思うが、家の中に入ってみればその精度、頑丈なつくりがよく分かる。大黒柱はケヤキの丸太4尺5寸。立派な梁が連なる「囲炉裏の間」は8mを越える見事な天井高。しかも、古民家といえども傾きがない。専門家に見てもらっても建物としてのゆがみや狂いはほとんどない、という見立てだ。
どうやら、この家屋はいまでいう「モデルルーム」のような役割を果たしたらしい。林業を営んでいた萩田家では、所有の山にどれほど立派な木材があるか、それを知らしめるためにもとびきりの木材を用いて豪奢な家をつくったのだ。近所の住人で、子どもの頃からこの家を知る稲場晴行さんによれば、その昔、この家の主人にそんな話を聞いた覚えがあるという。昭和に入ってもこの家の凄みは子どもながらに感じていたそうだ。
「子どもの頃、お菓子をもらいに土間に入れてもらうと、この家の柱を磨かされてね。この柱見事でしょう。今回の修復で直していないのに、この美しさなんですよ」(稲場さん)そういって、指さした囲炉裏の間の柱は、磨き抜かれた木材しか発色できない黒光りする艶を発していた。
玄関を上がった3間×3間の「御前」(おまえ:佐渡の伝統建造物の特長の1つ。ハレの間として機能する。正面には神棚が鎮座し、一番立派な材が使われる)から見上げると、何やら幅の広めの2階の廊下が見える。御前の箪笥階段から登っていけるのだが、ここは隣の土間の2階とつながっていて、ちょっとした部屋になっている。当時は使用人部屋として使われていたそうだ。
御前の間を東側に進んでいくと、16畳の仏間と座敷が現れる。ふすまに描かれた山水画が見事だが当然こちらも元からこの家に残るもの。実はこの部屋2016年にNHKで放送された横溝正史の『獄門島』のロケ地にもなっている。長谷川博巳が金田一耕助を演じていたが、村の寄り合いをするシーンでこの部屋が使われている。それほど、旧家の雰囲気をそのまま残しているのだろう。もちろん、この部屋にも宿泊することは可能だ。
筆者は、この部屋と廊下を挟んだ客間に泊まったが、この廊下がまた面白かった。幅1.82mと今の感覚で言えば広すぎる。こんなに廊下に面積を割くのではなく、部屋にすればいいのに、と東京暮らしの現代人は思ってしまうのだが、実はこの廊下は「槍の廊下」と呼ばれ、その広さにもきちんと意味があった。時代が時代なら、使用人が主人やお客様に何かあってはと槍を持って控えていた廊下なのだそうだ。実際にこの家には、ひと廊下分はある長々とした槍も残されていた。いざという時には、この槍で大立ち回りができるようにとこれだけ廊下が広くなっているというわけだ。
どこを見ても「なるほど」と歴史を感じさせる立派な家なのだが、平成の中頃には跡継ぎに恵まれず、おばあさま一人がこの家を守っていた。最後の家主のおばあさまが亡くなられた15年ほど前からは、親せき筋が家を管理していたが空き家になっていた。
改修費用を抑え、独学で分離発注とDIYを実践
そこに登場したのが、現在の「長蔵」のオーナーである春日絵里奈さんだ。大阪で会社員をしていた春日さんだが、2017年に田舎暮らしをしたいと地元の佐渡で家探しをしていた。当初は実家のある佐渡の南部「羽茂」エリアを中心に探していたが、気に入る古民家が見つからず、足を延ばして出会ったのがこの萩田家住宅だったという。最初に訪れたときに玄関の引き戸がすべて開けられ、広がる間口から「御前の間」が存在感を発していた。その開放感に圧倒され、魅せられてしまった。
「御前の景観を目にしたときに、本当に全身が震えてしまったのです。ひと昔前で言う『ビビビ婚』でしょう。正直、この家は予算的にはとんでもなくオーバー物件なので躊躇もしました。これだけの規模の家ですから個人ではなかなか買い手がつかない。文化財にというお話や大手企業が購入してかなり手を入れる計画もあったそうです。それを聞いていたら、私はどうしても今の形のままで家を残してあげたくなった。そんな気持ちが大家さんにも届いたのでしょう、譲っていただけることになったのです」(春日さん)
とはいえ、敷地すべてを入れると800坪というとんでもない屋敷だ。これを自分一人でどうすればいいのだろうか? 春日さんは購入直後、途方に暮れたという。しかし「これも家に選んでもらった者の運命」と家を活かすことを考えた。春日さんが行き着いたのは、地元のたくさんの人々の手を借りながら、この家のありし日の暮らしを体験できる「田舎のばあちゃんの家」。暮らしを体験できる民泊だった。
そこからがまた苦労の連続だ。この土地と家屋を買うだけで大変なことだ。改修費用が潤沢にあるわけじゃない。それに、なるべくこの家の「ありし日」の姿で残したかった。そこで春日さんは、工務店まかせにせず、独学で学びながら分離発注を行った。しかも半年間、多くの職人さんに頼み込んでは、丁稚仕事としてこの家の改修に関わった。まさに、自分でできるところは自分でこの家をつくっていった。
「今思えば、よくできたと思います。例えば、厨房設備は、地元の集まりや宿泊しているみんなが一緒に使えるキッチンにしたかったので、大規模冷蔵庫やシンクなど設備にはお金をかけました。そのため、壁などは自分で塗っています。改修中、アパート代を別に払うのももったいなかったので、ここに住みながら作業をしました。水回りや屋内工事期間が長引いてしまったので室内の水道が使えず、1日中作業して埃と汗まみれになっているのに、お風呂にも入れないといった状況にも。夏場だったので、庭の仮設の水栓ホースで行水をしたこともあります(笑)。そして、夜はこの広い家に1人で眠る。でも不思議と怖くはなかったですね。きっとこの家が守ってくれるだろう、と思っていました」(春日さん)
予算がないと言っても、この家に喜んでもらえるよう最大限の腐心をした。例えば、前出のロケが行われた広間には、漆塗りの柱があるが、壁面が漆喰になっているのは本来柱の黒と漆喰の白でコントラストの美を出すためのもの。左官職人の親方に話を聞いた春日さんは、ためらわず、広間の漆喰をすべて塗りなおすことをお願いした。
場所によっては、凹凸を味として素人が漆喰を塗ることもあるが、「ここは職人技でキッチリと塗ってもらわなければコントラストの美が成立しない」そんな思いからの選択だった。最近では漆喰を塗れる左官技術を持つ職人も少ない。春日さんはその技が継承されていくことも願いつつ、作業をお願いしたと言う。
一方、水回りでは、最新式の設備も入れた。脱衣所こそ和のテイストでおしゃれにまとめられているが、バスルームはジェットバス機能の浴槽を用いるなどモダン。そしてバスルームとはまた別に、スチームサウナつきのシャワーブースまで完備させた。
「地元の主婦の方の中には、“こんなの近所で見たことない”とわざわざ見に来てくださる方もいらっしゃいます。長蔵は、単に旅行者の方だけに知ってもらいたい場所ではありません。むしろ、地元の方にこそ、この家に親しんでもらいたい。そして、地域や世代を超えた人々の交流の場になってほしいのです」(春日さん)
至る所に、教科書で見るような貴重なモノが!
そんな交流の場を目指した「長蔵」の至る所には、今ではお宝級の家財道具や珍しい書籍などがいつでも手に取れるように置かれている。
例えば、きっとお花見にでも使ったのだろう、盃やお椀が収納されたカラクリ箱のようなお重や、何気なく置かれた日めくりカレンダーですら、右書きで表記される昭和10年のものだ。これらのものはすべて、この家の蔵や屋根裏から出てきたもの。普通であれば、ショーケースに入れて展示しても不思議はない。
だが、春日さんは「このお重なども、手に取れるようになっていれば、おばあちゃま世代がお孫さんに使い方を教えてあげる、そんな光景が見れるかもしれません。“ありし日のこの家の暮らし”をそのまま体験してほしい」とすべてを手の届く場所に置いてしている。
冬には、各部屋に蔵から出てきた「どてら」もディスプレイされていた。見るだけではなく、もちろん、「袖を通してどうぞ」というものだ。特に海外からの観光客は喜んで羽織るという。『獄門島』のロケに使われた床の間には、かつて、この家の男子に宛てられ、大切に残されていた召集令状や軍人手帳などが置かれ、宿泊者が手に取ることもできる。筆者も祖父から軍人として戦地にいった話は聞いているが、本物の令状などを目にするのは初めてだ。
また、無造作に箪笥の上に置かれた手習い帳を開いてみれば、これまた古く明治の元号が記されている。中身をめくってみると、どうやらこの家の子息が論語や仏典を書き写したものらしい。自由に部屋に持っていくこともできるので、テレビのない部屋で漉いた和紙のページをめくりながら、古文書を解読するかのように1字1字を拾っていくと、より、この家に住んだ人たちの当時の暮らしを身近に感じた。
とにかく、この宿の中には、当時の暮らしを少しでも感じてもらおうという春日さんの願いが詰まっているのだ。
今ならまだ、かつての暮らし・知恵をつないでいける
これだけ、あちらこちらに昔の暮らしを発見できる宿なのだが、春日さんは「まだまだ、これから」と言う。確かに、立派な蔵にも天井裏に眠ったままの物も多い。天井裏などには、戦前の書物が積まれてあった。「蔵は展示場にもしてみたいし、家だけを整えるのではなく、この家を起点にして人々をつなぎたい」と春日さんは笑う。
ご近所の稲場さんは漁師。実は、地域は異なるが漁業を営んでいた春日さんの実家と懇意だったそうだ。この家を購入してから判明したのだが、その縁もあって「長蔵」での食事には稲場さんが漁った魚が振舞われることが多い。また、稲場さんは素人ながら「そば打ち名人」としての顔を持つため、長蔵の土間には蕎麦打ちスペースが設けられている。気が向いた時に蕎麦屋が開店するそうだが、近隣の人たちには大人気だそうだ。
「今ならまだ、この家を知る人や昔の暮らしを知る人の知恵や経験をつないでいけると思うんです。ここの環境は最高で、近くに海もあるし、周りには竹林もある。子どもたちが宿泊した際に、近所の方々を講師に招いての竹細工体験などもいいですよね。実際、稲場さんには、プレオープンの時に、船を出してもらって、子どもたちに釣りを経験してもらいました。釣った魚をお家へのお土産にしてもらったら、とてもご家族の方が喜んでいました」(春日さん)
春日さんは、単に宿泊して終わりではなく、そこから始まる田舎との交流をつくりだせたらいい、と言う。おばあちゃんや母が都心に出た子どもたちに贈る、食材や魚、地のものが入った「田舎便」などのサービスも計画しているそうだ。
「私自身も都会に出ていたので、今一生懸命、両親や地域の方から暮らしの知恵をいただいています。そのためのこの家だったんでしょうね。50年経ったら、私は確実にこの世には存在しない。でも自分が存在しなくなってもこの家は残る。それを信じて大切にしていきたいと思っています」(春日さん)
長蔵の家の前には、まるで御神木のような樹齢300年を越える杉の木がそびえ立っている。その根元を見ると、小さなお地蔵さまがまるでこの木と共にこの家を、この地を守るように佇んでいる。お地蔵様は、この家の床下から発見されたのを、春日さんが御神木の下へと供えなおしたという。長蔵の空間の中にあるものは、一つひとつが意味や歴史を持つ。「長蔵」は、長くそこに存在したモノの凄みを、肌で感じさせてもらえる場所だった。
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