大正から昭和初期に栄えた中村遊廓
名古屋駅にほど近い、中村区大門地区にかつて遊廓があったことをご存じだろうか。
大正から昭和初期にかけて栄えた中村遊廓は、吉原遊廓をしのぐほどの豪華さを誇ったという。日本屈指の規模を誇った花街ではいま、どんどんと取り壊しが進んでいる。
今回は、そんな中村遊廓の中にあって今も面影を残す『旧松岡旅館』を特別に見学できるというツアーがあると聞き、参加してみた。
参加したのは『中村区大門界隈ツアー~名古屋の旧赤線・中村遊廓跡をじっくりまち歩き~』。東海エリアのディープなオモシロさを発掘する「大ナゴヤツアーズ」の体験プログラムのひとつとして開催されたものだ。
ガイドとなって案内してくれたのは名古屋市博物館の勤務を経て蓬左文庫(※)の研究員として尾張徳川家の旧蔵書を研究し、名古屋の歴史に精通する松村冬樹さん。
「つい先日までここにあった遊郭時代の建物が、取り壊されて今はもうありません。遊廓建築だけでなく大正昭和の時代を生きた建物は、5年後には1軒も残っていないかもしれない。今日は、そんな建物を見て回ります。みなさん今日の景色を忘れずに心に留めておいてください」
と、ツアーはスタートした。
※蓬左文庫(名古屋市東区)
尾張徳川家の旧蔵書を中心に和漢の古典籍を所蔵する公開文庫。蔵書は約11万点、絵画、名古屋の城下図、古地図なども所蔵する。
大須から移転。約3万坪に東洋一の遊廓が誕生した
現在は、スーパーマーケットやドラッグストア、コンビニ、喫茶店などが並ぶ、どこにでもあるようなまち並み。
しかし、ちょっと立ち止まって見てみると、買い物客でにぎわうスーパーの周りには、ソープランドやラブホテルが。松村さんによると、「これも遊廓の名残」だという。
ここで前もって、松村さんから教えていただいた中村遊廓の成り立ちについて紹介しておこう。
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<松村さん資料より抜粋>
名古屋に遊廓ができたのは慶長15年(1610)。名古屋築城に伴い、飛田屋廓が作られた。
安政の時代には中区・大須観音の北側「北野新地」に遊廓が作られ、明治8年(1875)には大須観音の西南側、堀川までの一画に移転。「旭遊廓」としてにぎわった。
明治10年(1877)には茶屋106軒、娼妓318人だったが、同41(1908)年には茶屋173軒、娼妓1508人と規模が大きくなったことから移転が決定。
大正9年(1920)から中村遊廓の区画整理が開始。約3万坪の敷地を造成し、3年後の大正12年4月から営業を開始した。
昭和12年(1937)には最盛期を迎え、貸座敷138軒、娼妓約2000人にものぼり、当時その規模は「東洋一」とうたわれたという。
その後、空襲の被害を受け、焼け残った88軒の妓楼と843人の娼妓で中村遊廓から「名楽園」と改名し復活するも、昭和33年(1958)の売春防止法(以降、売防法)完全施行に伴い、妓楼は旅館、料亭、特殊浴場(ソープランド)などに転業を余儀なくされた。
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生き残った数軒も風前の灯
遊廓の敷地はほぼ正方形。今は埋め立てられ細い路地になっているが、徳佐川の流れで作った外堀が囲っていた。
特徴的なのが、正方形の敷地の四隅に斜めの道が作られていること。
「遊廓は、“一般社会とは違う別世界ですよ”という意味と、娼妓さんたちが逃げ出さないようにとの意味もあって、堀や塀を作って外との区別をしていました。遊廓は人の集まる場所に作られますが、普通の人が暮らす場所とは距離をおかなくてはならないという配慮から、こうした造りになったといわれています。また、正方形の敷地の四隅から道が放射状に延びているのは、遊廓の中をのぞけないようにとの工夫なんです」。
(松村さん)
正方形の敷地内には中央に本通り、それに直行するように北から「日吉」「寿」「大門」「羽衣」「賑」と通りの名が付けられ、今もそのまま、まちの呼称として残っている。
「北側が一番格式の高い妓楼でした。地図を見てもらうとわかると思いますが、だいたい同じ大きさで8つに区切った敷地を1ブロックとし、力を持っているところは4ブロックを買い取って大きな妓楼を作ったのです」(松村さん)。
2階は当時のままに。中村遊廓のなかでも格式が高かった『松岡旅館』
ツアーの目玉となる『旧松岡旅館』は、大正元年(1912)に妓楼として建てられたもの。
大きな入母屋の屋根や高欄をそのままに残す立派な建物だ。昭和34年(1959年)に修復、同時に南側が増築されて今の規模になったという。平成5年(1993)には歴史的建造物として名古屋市の都市景観重要建築物に指定されている。
売防法施行以降は旅館に転業。現在は高齢者向けのデイサービスセンター「松岡健友館」となり1階をリノベーションし活用しているが、2階は当時のまま残されているということで、見せていただいた。
2階にあがってすぐ。圧巻の大広間が広がる。
ここは遊廓の北側。最も格式が高い日吉町に位置する。
「このあたりを利用できたのは財力のある人たちだったので、遊廓南側の庶民的な店とは違って、大きな宴席などにも使われていたのでしょう」と松村さん。
広間の西側にはステージが設けられ、檀上には豪華な神棚が作られている。旅館転業後は結婚式などを採り行うこともあったという話だ。
広間を出て廊下を進むと小さく区切られた部屋が中庭を囲むようにして作られている。この、いわゆるコートハウスのような様式が一般的な妓楼の造りだったという。「さくら」「菊」「梅」など花の名が冠された部屋は、欄間にそれぞれの花をあしらった透かし彫りが施されていて、一部屋ずつ凝った造りに。
「小さな店ですと1号室、2号室というように部屋には番号がふられていたのですが、こうした格式の高い大店になると名前にも部屋の内装にも趣向を凝らしてお客をもてなしたんですね」。(松村さん)
松村さんによれば、歴史的な遊廓の中には、現在取り壊しが決まっているものもあると言う。貴重な建築資料。「なんとか残すすべはないのか」とツアー参加者が口をそろえて言うが、これも時代の流れなのかもしれない。
失われゆく風景に思いをはせながら
遊廓について多くを書いたが、今回のツアーでは、他にも大門界隈の珍しい建物を見て回った。
バスクリンの元となった「浴剤中将湯」を使用した銭湯『寿湯』は、明治26年(1863)創業。今も現役だ。松村さんによると、壁面一体にモザイクタイル画が描かれていて「最近はやりの、“銭湯女子”の間でも人気のお風呂屋さん」なのだそう。
また、「現存する劇場としては名古屋最古であり、成人映画を専門とする映画館」と松村さんが紹介してくれた『中村映劇』にも立ち寄った。戦前の芝居小屋だった『旭座』を昭和20年(1945)に映画館に改装したという建物。インスタ映えしそうなレトロな看板が掲げられ、壁面には昭和初期に流行ったというムカデのレリーフが施されていて味わい深い建物だった。
一人では入るのに躊躇してしまいそうな「大門小路」は、入口がとても低く暗い小路がF字型につながっていて、小さなスナックや居酒屋がひしめいていた。まだ営業時間ではなかったためひっそりとしていたが、夜になると人が集まってくるのだろうか。
大門界隈から名古屋駅まで歩く途中にも、創業から80年今もなお現役の銭湯『金時湯』や、豆タイルの柱がモダンなアパート『新宿荘』が昭和の香りを漂わせて建っていた。
「名古屋駅を境にして、東側と西側とではまったく違う雰囲気ですよね。開発が進みタワービルが立ち並ぶ東側に比べて、西側は昔の風景をまだこうしてとどめている。
今回の大門に限らず、国道や大きな県道に挟まれた場所には、時代に取り残されたような建物や風景がまだ残っています。機会があれば、当時の人々の生活を想像しながらじっくり歩いてみてください」と、松村さん。
ショッピングセンターの屋上駐車場から中村遊廓跡を俯瞰で眺めながら、ツアーは締めくくられた。
ツアー解散後、一人でもう一度界隈を歩いてみた。
発展を遂げるまちの裏側に残された風景。煌びやかな遊廓を想像しながら、建物の粋だけでなくその時代を必死で生きていた人たちに思いをはせる。わいわいと歩いているときは気づかなかったが、重機があちらこちらで音を立てていた。
【取材協力】
大ナゴヤツアーズ
http://dai-nagoyatours.jp/
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