神聖なイメージがある床の間、「床」とは一段高くなった板張り空間のこと

日本の住宅から和室が消えている。一戸建てはまだしも、新しいマンションは初めから和室が無い間取りのほうが多いため、障子や畳に触れたことがない、床の間に至っては名前すら知らないという子どももいることだろう。

筆者が子どもの頃は、客人は床の間付きの和室に通し、床の間に近い上座に座って頂き、座卓の上には煙草入れとライター。茶菓子はもちろん、食事の時間になれば店屋物の蕎麦や天丼でもてなすといったような光景がよく見られた。

和室の床の間には、いつも掛け軸や花が活けられ、何となく神聖な場所というイメージがあった。子どもたちがその上で遊ぶようなことがあると、床の間に乗ってはいけないと叱られたものだ。

さてこの床の間には、いったいどんな意味があるのだろうか。単なる飾り棚なのか、なぜ床の間側が上座なのか。今回は、歴史的かつ民俗学的な切り口から、床の間の存在意義について考察してみよう。

床の間とは、文字どおり「床」の間のことである。床とは何かと言えば、漢字の成り立ちがその意味を表している。「床」は「牀」の略字で、「爿(しょうへん)」は寝台を立てた象形文字であり、右に添えられた「木」は立てられた寝台に接した木片を表している。つまり「牀」は寝る場所を表した文字というわけだ。

それが転じて、一段高くなった板張りの場所を「床(とこ)」と呼ぶようになった。床屋という呼び名も、この「床」からきている。江戸期、商売屋は基本的には店舗併用住宅であったが、特例として床店(とこみせ)と呼ばれる、簡易な専用店舗で商売をするシステムがあった。

作りはとても簡素で、床を一段高くして板を張り、囲いをした小さな区画に簡単な小屋掛けをして、小間物屋や古着屋などが商売をしていた。当時、髪結いは出張での商いと、この床店での商いがあり、床店で行うものを「髪結い床」と呼んで区別していた。この髪結い床に職業を表す「屋」が付加されて「髪結い床屋」、後に「床屋」となったのである。

京都市北区鷹峯北鷹峯町にある曹洞宗の寺院の床の間。円窓と障子窓の配置が禅の極意を表している京都市北区鷹峯北鷹峯町にある曹洞宗の寺院の床の間。円窓と障子窓の配置が禅の極意を表している

殿様が座るのは上段の間、下段の間では床に一番近い人が偉い

寝殿造りの代表的な建造物である平等院鳳凰堂。10円硬貨に刻印されているので馴染み深い寝殿造りの代表的な建造物である平等院鳳凰堂。10円硬貨に刻印されているので馴染み深い

では室内に床の間なるものができたのはいつ頃だったのだろうか。平安時代、貴族達は寝殿造りの家で暮らしていた。大まかな構造は、白壁に囲まれた敷地内に、複数の離れ家を渡り廊下でコの字型に繋げたリゾートコテージ風といったものである。

室内は板張りになっていて、その上にゴザやムシロが敷かれていた。ムシロとは、稲やイグサなどの草で編んだ敷物の総称で、ゴザはその中のイグサで編んだものを指して言う。ゴザはムシロより肌触りや質感が良く、上質な敷物とされていた。ゴザやムシロと言うと、今では簡素なものというイメージがあるが、当時このような敷物は高貴な人のみに許されたものであった。

その敷物が変化し、厚く高さを持たせた藁床の表面にゴザを貼ったものが畳である。畳はまさに貴人の特別な敷物であった。畳はそもそも身分を表す敷物であり、また寝台の役割をも担っていた。

室町時代になると、武家社会へと変化する中で、生活スタイルも変化し、建築様式も寝殿から書院、方丈へと変わっていく。そこで畳の意味が大きく変化する。日本独特の畳を敷き詰めた和室が出現したことで、畳の持つ高貴な身分を表す敷物としての意味が損なわれてしまったのである。

そこで、身分の上下をはっきりさせるため、「上段の間」が考案された。これは君主と家臣が接見するときに使われた部屋で、君主が着座する「上段の間」と家臣が着座する「下段の間」は続き間になっていて、上段の間は框と呼ばれる横木の分だけ高くなっていた。

しかし、この方式だとかなり広い建築面積が必要になり、中級の武家や寺院では上段の間を設えることは困難であった。また上段の間に座るのはあくまでも殿様であり、それ以外の人は下段の間にいるべきである。と言うことで、身分の差を表す手段として、上段の間を極限までコンパクトにした「床」を部屋の一角に設えて、下段の間に居ながら、床に近い方が身分が高いという方式が生まれたのである。

和室のお約束の一つに、床の間に近い位置が上座というのは、このような理由による。また床の間に何となく神聖なイメージがつきまとうのも納得だ。

床の間は床を持つ部屋?身分を表す存在から心意表現という新たな役割へ

掛川城の二の丸御殿の次の間・御書院上の間の様子。御廊下にも敷き詰められた畳が書院造りの特徴掛川城の二の丸御殿の次の間・御書院上の間の様子。御廊下にも敷き詰められた畳が書院造りの特徴

さて床の間の「床」は高い場所を指して呼ぶものであるが、「間」にはまた別の意味がある。平安時代、貴族の住まいである寝殿造りは、複数の離れ家を渡り廊下で繋いだ構造をしていた。

このような住まいは、十二単を着込んで、優雅に日がな一日、仕事をすることもなく座って暮らす平安貴族たちには問題無いが、日々忙しく立ち働く武家や僧侶たちにとっては、実に不便な作りであった。

そこで考案されたのが書院造りで、大きな箱のような家の中を複数の部屋に仕切って、役割別に小分けにした建築様式である。小分けされた部屋は用途別に設計され、それぞれに「〇〇の間」という名称がつけられていた。「居間」は居のための部屋という意味であり、他にも大広間、次の間、中の間、奥の間など、それぞれ用途別に名前がつけられていた。

そう考えると、床の間とは床を持つ部屋という意味であり、和室飾りの設え部分のみを指すのではなく、そもそもは部屋そのものの名称であったのではないかと考えられる。

さて、身分を表す存在だった床の間は、時代を経ると共に、精神世界へ誘う道標的な存在として性格付けがされていく。

室町時代、方丈に床の間が登場した際、僧侶の家という性格上、床の間は仏壇や仏像、仏画を設える場所であったと資料に残されている。つまり宗教の精神世界を表現する展示スペース、ギャラリーと言うわけだ。

僧侶たちは床の間に信仰心や思想、信条を表現することで、自分の心を絶えず見つめ直し、また来客に対して赤心を表す意味を持っていたのだろう。床の間は、心意表現と言う新たな役割を持つことになったのである。

茶の湯によって成熟する床の間文化、千利休と秀吉が愛した侘び寂びの世界観

明々庵は、松江藩7代藩主松平不昧公が建てた茶室を主とした庵。不昧は江戸時代の代表的茶人の一人で、その茶風は現代まで受け継がれている明々庵は、松江藩7代藩主松平不昧公が建てた茶室を主とした庵。不昧は江戸時代の代表的茶人の一人で、その茶風は現代まで受け継がれている

この後、床の間は更に成熟し、文化と呼べるほどに昇華していく。その背景には、茶道の存在が大きいだろう。そもそも茶とは、最澄が茶の実を唐より持ち帰り、空也が十一面観音に供えた茶湯を病人に与えたことが始まりと言われている。当初は薬湯としての習慣であり、茶は薬であった。

その後、臨済宗の開祖栄西が、宋から帰国後に日本初となる茶の専門書「喫茶養生記」を記し、僧侶や貴族の世界で飲茶の習慣が生まれた。

戦国期に入ると、千宗易、号を利休という侘び茶の大成者が、この養生のための飲茶を己の精神世界を表意するための芸の域へと深めていく。利休が作った待庵という茶室は、たった2畳と床の間という小さな空間の中に、亭主と客が各々の精神世界を戦わせて、時には融和させ、一個の小宇宙を茶室の中に作り出した。

この茶の湯の主客が協力して作り上げる精神世界に必要であったのが床の間である。床の間には、その日に行われる茶席のテーマが掛け軸として掲げられ、主客で作り上げる小宇宙のガイドラインが置物や花といった季節の設えで示される。

さながら禅問答のようであり、推理ゲームのようでもある。茶室という一坪程度の閉鎖空間で行われる無言劇に、お互いの知性と教養を総動員して亭主の心の有り様を探り、それに和するという、なんとも数寄者な遊びだろうか。

侘び寂びという言葉があるが、侘びと寂びは本来違う概念の言葉で、「侘び」は粗末なもの質素な風情を指し、「寂び」は静かで奥深い様、閑静な佇まいの中にある豊かさを指す。それが合わさり、粗末で簡素な佇まいに奥深い味わいを感じて心豊かになるという茶の道が生まれた。

だが、利休の作った侘び茶の茶室には、もう一つの目的があったことも史実として残されている。時の太閤秀吉は、この待庵で何度も利休と会っている。秀吉は寸鉄も身に帯ず、もちろん供の者も連れず、はいつくばって小さなにじり口を潜った。たった二畳の閉鎖空間で、毎回繰り広げられていたのは政治経済に止まらない密談だったに違いない。物理的な密接度の高さも信頼強化へと貢献したのだろう。

小さな世界に無限の広がりを作りだした床の間、日本の家屋に残る仏教思想

京都右京区にある臨済宗の寺院である龍安寺の庭。石庭と呼ばれ世界遺産にも登録される枯山水の方丈庭園京都右京区にある臨済宗の寺院である龍安寺の庭。石庭と呼ばれ世界遺産にも登録される枯山水の方丈庭園

一期一会は、千利休の言葉として伝わっている。一期とは仏教語で人が生まれてから死ぬまでの間、すなわち一生を表す言葉である。一生一度のチャンス、出会いに臨み、床の間を設え飾り、ありのままの心で主客が同心することが茶会の本義であった。

その狭く小さな茶室という空間に、奥深い意味を持たせ、精神という無限の広がりを創り出したのが、床の間の存在である。武家の世界では身分をはっきりと知らしめる目的で作られた床の間が、仏教界においては主の心意表現の場となり、茶の湯の世界においては浮世の人間関係を超越した精神世界を作りだすための存在となったのである。

このような床の間の役割は、禅の世界観を表現するのにも非常に役立った。実は高名な禅僧には茶の湯の名人上手が多い。

達磨大師の残した禅の四聖句と言うものがある。「不立文字(ふりゅうもんじ)」、「教外別伝(きょうげべつでん)」、「直指人心(じきしにんしん)」、「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」で、これは悟りの境地への到達法の解説のようなものである。意味は、「悟りとは、文字で書けるものではなく、人から教えてもらえるものでもない。己の心と絶えず向き合い、自らの心の内に見出すものである。」と言うもので、禅に深く取り入れられてきた。

このような禅の悟りの境地を、他人である弟子に伝えるには、以心伝心しかなく、それに利用されたのが茶の湯のシステムであった。禅寺には、必ずと言っていいほど茶室が設けられている。また本堂や庫裏と言わず、全ての設えに禅の世界観を表す工夫がなされている。

このような禅の影響を受けた日本の伝統的な家屋には、床の間だけに留まらず、至る所で仏教思想が息づいている。

皆さんの家には床の間があるだろうか。そこには何が表現されているだろうか。荷物置きにはなっていないだろうか。また床の間のある部屋に入ることがあったら、ぜひそこにあるメッセージに目を留め、心を寄せてみて欲しい。一畳分ほどの広さの中に小宇宙が見えるかもしれない。

2017年 10月15日 11時00分