古い町並みが残る地区に、江戸末期の町家を再生

名古屋北西部から清洲、甚目寺などを経て津島へ入る道だった上街道沿いに古い家が多く残る。津島神社のかつての参道へと続く名古屋北西部から清洲、甚目寺などを経て津島へ入る道だった上街道沿いに古い家が多く残る。津島神社のかつての参道へと続く

愛知県西部に位置し、かつては尾張と伊勢を結ぶ湊町として繁栄した津島市。織田信長の祖父・信定が築城したと伝わる勝幡城が隣市にあり、信長とのゆかりも深いといわれる。そのひとつ、全国に約3,000の分社がある津島神社は、信長だけでなく、豊臣秀吉、尾張徳川家からも崇敬を受け、江戸時代にはお伊勢参りの際に、ここにも立ち寄ることが人気だったという。また、津島神社の祭礼として神社と近くの天王川公園で毎年7月第4土曜、日曜に行われる尾張津島天王祭は、日本三大川祭りのひとつに数えられ、県内外から多くの人で賑わう。この祭りは信長も楽しんだと伝えられている。

その津島神社の周辺には、門前町として栄えた古い町並みが残り、国指定重要文化財の堀田家住宅をはじめ、江戸期から昭和期の歴史的建造物が点在する。そんななかで、表構えの外観や住居部分が修復されていた家を江戸末期本来の町家に再生した方がいる。渡邉家19代当主・渡邉祐司さんだ。

全国各地で町家の再生が行われている今、市や住宅会社などが主導することも多いが、個人で再生への取り組みを決めた渡邉さんに話を伺った。

1809年に建築された数寄屋造りを取り入れた家を1975年に現代風に修復

渡邉家住宅は、現在の三重県長島町や愛知県の海部郡南部などを開墾した14代の渡邉新兵衛義陳(よしつら)により1809年に上棟されたことが棟札からわかっている。1階の書院、次の間の茶室「扇面の間」、2階の賓客をもてなす部屋である12畳の次の間の「桜の間」と、11畳の茶室「涵月楼(かんげつろう)」は、数寄屋造りだ。1階にも2階にも茶室があるという、贅沢な空間は当時にしても珍しいのではないだろうか。

「江戸時代に、隣町の佐屋に尾張藩の代官所があり、渡邉家は代官所の手伝いをする役割があったんです」と渡邉さん。そのため、家人や客人の玄関とは別に、正面に表ノ門があり、こちらから武家が出入りし、茶室や書院を利用していたという。

涵月楼の天井は、二間半×二間の総網代(あじろ)天井ととても珍しいもので、桜の間の由来となった満開の桜樹が描かれた襖もすばらしい。こういった貴重な造りから、昭和30年代に国の重要文化財の候補に挙がった。だが、文化財になってしまったら住むのも大変になるのではないかと、渡邉さんの祖父は辞退を決めた。その後、昭和40年代後半になると水屋回り部分の屋根が崩れるなどしてきたこともあり、1975(昭和50)年に母屋の西北側に位置する書院や茶室などを除き、表構えと母屋の東南側を現代風に修復した。

再生後の外観。左端が江戸時代に武家の出入りに使われていた表ノ門。江戸末期から尾張津島天王祭のときに船に乗る稚児(3~6才の男児で、神の子とされ、祭りの主役ともいわれる)が同家で出立を待ち、その後に表ノ門から出ていくことから稚児門とも呼ばれる再生後の外観。左端が江戸時代に武家の出入りに使われていた表ノ門。江戸末期から尾張津島天王祭のときに船に乗る稚児(3~6才の男児で、神の子とされ、祭りの主役ともいわれる)が同家で出立を待ち、その後に表ノ門から出ていくことから稚児門とも呼ばれる

津島で生きる家に戻したい

1975年の修復時にはずされていた屋根神様(屋根の上に祀られた祠のことで、愛知県や岐阜県で見られる)も再生1975年の修復時にはずされていた屋根神様(屋根の上に祀られた祠のことで、愛知県や岐阜県で見られる)も再生

修復した家で渡邉さんは結婚後もしばらくご両親と同居していたが、仕事の都合で名古屋市に転居。その後、ご両親がこの家を離れることになり、10年ほど前に渡邉さんが受け継ぐことに。ただ、仕事の都合ですぐに移り住むことはできない状況だったこともあり、どうしようかと奥様と相談を重ねた。「多くの先人から受け継いできた家なんだということに思いを馳せますと、簡単には答えを出してはいけないなというのがあったんです。おそらく先人もその時代、その時代でそんなことを感じていたのかもしれませんね」。

残された家をどうするのか、各地の古い町並みや家屋を見て回り、昔に近い形に戻して維持することに決めた。

今回の再生は相談から含めると約8年かかったという。「本などを調べ、古民家再生の第一線で活躍されている長野県の降幡建築設計事務所にお願いすることにしました。降幡先生は全国で古い民家を甦らせていらっしゃるので、こういう家ならばこう再生して、こんなふうに活かしたらいいという事例・実績をたくさんお持ちなんです。ただ、町家を残すといっても、日本各地で同じようなつくりの家ではなく、私たちにとっては、やはりこの津島の中で生きる家にもう一度戻さないといけないと思っていました。そんな思いも汲んでくださって、先祖のことや、津島の町家のことなどを詳しく聞いてくださいました」。

津島の町家の壁は、白い漆喰ばかりではなく、黄土の壁が多かったので、壁の色を変更してもらったり、近隣の人の話や状況を見ながら、表の格子の形状や色を決め、むくり屋根は本来の姿のまま残した。そのなかでひとつ大きな問題だったのが、表の部分を道路からセットバックするかどうかだったという。渡邉家住宅の前の道は旧街道で道幅は狭いが、抜け道として交通量が多め。そのため、大型車が通るときに軒先の瓦にあたって壊れることがあり、瓦の予備を常に用意しているほどだった。「町並みの保存に取り組む市民団体の方とも相談させてもらったりしていたのですが、やはり町並みが変わってしまうから、ひかずにそのままがよいのではと。なので今回はかさ上げして、軒先に当たりにくいようにだけしました」。

生活空間とハレの空間を別にするという選択

津島市の指定有形文化財になっている1階の書院津島市の指定有形文化財になっている1階の書院

思いがけず良かったこともあった。「昭和50年に改築した時、玄関の吹き抜けを変更して2階部分を増設していたんです。その天井張りを壊したら、昔の梁が残っていたんです」。ほか、竹の壁や提灯箱、電球の笠なども蔵にしまってあったので、それを今回、元に戻し、かつての趣を取り戻すのにひと役かった。

耐震化を含め基本構造にまで及ぶ大改修工事となったが、母屋の西北側は基本的にもとのまま残され、2011年に津島市の有形文化財に指定された。「両親もこちらは聖域のように考えていたみたいで、お客様をお通ししたり、親せきと楽しむような部屋としていただけで、生活用品をこちらには基本的には置いていなかったんです。生活は自分たちの小さな部屋と台所などの水回りだけを行ったり来たりのような。昔も生活空間はもしかしたら小さかったのかもしれませんね。ハレの空間を大切にしていたのではないかと思うんです」。

今回の再生は、「建った当時から残っているところを生かし、本来の姿に戻してみよう」というのが目的。有形文化財に指定された部分は、エアコンも排除した。「同じ建物内ではあるのですが、文化財に指定されたところは生活と一線を画した空間にしてしまおうと思いました」。文化財指定ではない母屋の東南側は趣を戻しつつ、ユニットバスやシステムキッチンなど生活の利便性を出して住みよい工夫をした。

「これからが大事だと思います。昔の不便なところがある家に戻してどうするの?という疑問を持たれる方もいるでしょう。これからの課題ですし、ある意味で私たちのスタートラインだと思っています。ただ、子どもたちが次世代にどうするかというのもあり、その時にボロボロの、もらっても困ると思うような状態にはしておきたくなかったですし」。

町並み保存の取り組みが盛んに行われているが、古い家々が無くなっていくスピードも速い。生活する上では町家の趣をそのまま残すことは不便なこともあるかもしれないが、その町がかつてどのようであったかを伝えてくれる貴重な存在だ。住み継がれてきた思いを大切にした渡邉さんの決意は、津島の歴史にとっても大きなものだろう。

2015年 07月31日 11時06分