「夏をむねとすべし」

夏に冷房し、冬に暖房をする。もう、後戻りはできない。そう言って、現代の日本の家は冬向きの家がつくられている夏に冷房し、冬に暖房をする。もう、後戻りはできない。そう言って、現代の日本の家は冬向きの家がつくられている

少しでも住まいを文化として語る人ならば、兼好法師の『徒然草』を引き出さない人はいない。でもまともに熟読していない自分がいた。全段を読み直してみると、どうやら年を重ねた分だけ新しい発見がある。吉田兼好が生きた700年以上前から、男女の感情や人間関係、懲りぬ人々のふるまいは、変わらないようだ。
あらためて『徒然草』の中でも、家に関わる項目を読み直してみた。

『徒然草』でもっとも有名なフレーズは、「家の作りやうは、夏をむねとすべし」だろう。この後に「冬はいかなる所にも住まる暑き頃わろき住居は堪へがたき事なり」と続く。他の段の記述を合わせて考えると、兼好法師は暖かさは衣服で確保するものだと考えていたようだ。

現代では、とにかく冬の寒さを嫌っている。寒い冬でもシャツ1枚で暮らせる家が理想の家で、当然のことながら暖気を確保するためには相応のエネルギーを要する。エネルギーを無駄にもできないので家の省エネ性を高める。地球環境を考えて住宅の1次消費エネルギーの低減に、さらに人の健康という名分が加えられて「冬をむねとすべし」の家が現代流だ。

住まい文化で考えると、日本は暑くてどうしようもない国から、寒くてどうしようもない国に変わってしまった。

「天井の高さは冬寒く」

兼好法師だって、やっぱり寒い家は嫌だったのか。第五十五段の中にも矛盾はある兼好法師だって、やっぱり寒い家は嫌だったのか。第五十五段の中にも矛盾はある

でも、どうやら兼好法師にもいろいろと迷いがありそうだ。その迷いは、この第55段の続きにある。「天井の高さは冬寒く燈暗し」とある。ならば夏向きの家として、天井を高くすれば良いと単純に思う。やっぱり兼好法師も寒い家は嫌だと思っていたのだ。それを考えると「夏をむねとすべし」ばかりを取り上げて、現代流の気密性の高い性能住宅を日本の理想の家とは違うと疑うのもお門違いかもしれない。

省エネルギー性能を高め、家の中の温度を一定に保つ家ならば、吹き抜けがあっても寒さに困ることはない。夏には窓を開ければ、抜き抜けを通じて風が抜ける家もできる。それでも自分の生活環境を整えるために過分にエネルギーを使っている呵責は拭えないが、太陽光などの創エネルギーで解決もできる。兼好法師の迷いは現代の家ではすっかり解決されていると考えても良い。しかもエネルギー量という尺度を使ったエビデンスで、ひとつひとつの家の性能を表示できる。

それでも兼好法師はまだ「夏をむねとすべし」と言い続けていたかも知れない。素直に基準を受け止めるだけの人材であれば、何代にも渡り語り継がれる名文を残すようなことはできなかっただろう。現代流のエビデンスのない時代、間違いなく吉田兼好は自分流の直感力で語っていた。

そんなことも思いながら第55段の続きを読むと、ほんとうの面白さは、もっと違うところにあると思えてきた。夏とか冬の問題ではなく、エビデンスで語るか直感で語るかという問題だ。それはそのまま、文化で捉えるか技術で捉えるかという話しでもある。

「浅くて流れたるは涼し」

水の流れる形を切り取ると、時には芸術的だ。これを技術やエビデンスで語ろうとすると、殺風景なものに見えてくる水の流れる形を切り取ると、時には芸術的だ。これを技術やエビデンスで語ろうとすると、殺風景なものに見えてくる

徒然草第55段の続きには「深き水は涼しげなし浅くて流れたる遥かに涼し」とある。この風景は、現実に想像してみるだけでも気持ちがいい。池を作って水が溜まっているよりも、サラサラと水の流れる音が聞こえる方が確かに涼しく感じる。
風水が大事にされ、庭の造作までが住居として考えられていた時代だからこその記述だ。ここも夏向きの住まいの文脈にある。

でも、どうして涼しく感じるのだろうか。

溜まって淀んだ水面よりも、流れている水の表面積の方が大きく、気化熱が奪われることで涼しくなるのではないか。もしくは、盛んに動いている水ではマイナスイオンが発生して空気が清々しくなるとも考えられる。さらには水の流れる音を聞くと、過去の体験を大脳皮質に刻んだ人間という動物は脳科学的に涼感を生み出しているのかもしれない。

素直に直感で感じとったままでいれば良いものを、なぜか理屈で理解しようとする。でも、どの仮説もエビデンスが得られないうちは、効能は疑われたままになる。たとえ現実に涼しく感じても…

本当にそんなに、エビデンスが大事なのだろうか。個人によって寒暖の感じ方にも差があり、昔の人は寒さに強かったが現代人は弱くなったのかもしれない。しかもその弱くなった原因が、家にあるのかもしれない。住宅の省エネの基準が変わったように、技術的な要素は変わる可能性を含んでいる。その時には、エビデンスも変わるのだ。

断熱のために使っている空気を、温めたり冷やしたりして本当に効率の良い冷暖房なのだろうか?
気密性を保つために配置された、換気ダクトの中は本当にずっと衛生が保たれるのか?
機械まかせになっている家が、本当に長持ちするサスティナブルの家だろうか?

むしろ実証よりも、現象に気づくことの方が大切だ。
それが技術で語らない古人の感性であり、文化として継がれていることである。
「溜まった水よりも流れる水の方が涼しさを感じるよ」
「日本の家は、夏向きを考えるんだよ」
それでいいじゃないか。

「用なき所を作りたる」

その骨頂は、徒然草第55段の続きにある。
「造作は用なき所を作りたる見るも面白く万の用にも立ちてよし」
用もないのを作るのが用立つ?とは、兼好法師の国語力を疑いたくもなるが、「無用の用」と思えば道教・老子・禅宗の流れだ。少なくとも水の流れと同じように、科学的に実証しようとする現代の感覚ではない。
デザインの世界では、遊びが大事だ。そしてデザインこそ、文化の世界だ。

『徒然草』第55段も、この記述まで至れば兼好法師が「夏向きの家が良い」と言っているのではなく、住まい文化を語っているのだと思えるようになってくる。

それを考えれば、いたずらに国が厳しい住宅の性能基準を作ることは片手落ちだ。気候と生活習慣と、ましてや感性の違う西洋諸国の国の基準と比べることも首を傾げたくなる。
今どきこのようなことを書けば、時代を読めないやつだと嘲笑されそうだが、少なくとも本当に技術的なエビデンスを求めるのであれば、100年、200年は変わらない基準となることを前提にすべきだ。しかし革新が起こりうる技術ほど、不確定なものはない。

「人の定め合い侍りし」

ここまで来て第55段の最後のフレーズ「人の定め合ひ侍りし」の出る幕となる。
じつは最も気になる言葉だ。要は兼好法師が自分の意見として一方的に語っていることではなく、人々が議論を重ねた上で決めたことだと書いている。当時にも住まいづくりのプロはいたであろうし、住まい手も意見するはずだ。彼らが混じって、民主的に日本の家のことが話されていたのだ。

問題はこのフレーズが55段全体にかかるのか、それとも前行にかかっているかだ。
ここも技術で読み解こうとすると全体とは言えず、文化で読み解こうとすると前行ではもったいない。55段全体が文化として語られているのだと解釈したい。

くしくも近代になって、フランク・L・ライトも、住宅は民主主義であると論じた。

住生活基本法による性能云々は、すでに10年を迎えようとしている。建てる側が法律を利用して自分を優位に導こうとするのは当然のことだ。その分は性能住宅は広まったと言える。しかし注文住宅では、結果的に消費者が選んだとは言いがたい。その意味では、「人の定め合い侍りし」の結論は出ようとしている。
性能や技術を「健康」に変えて文化的に表現しても、現に平均寿命が最も長い日本の民意に届くのかはわからない。ましてや健康は、住宅の断熱性だけでは語れない。

それよりももっと、日本に来始めている海外の訪問者たちが、日本の住まい文化に触れて感動をする、そんな家が広まることの方が大切だ。それが洗浄便座だけではないことを願う。上足文化を始め木の匂いがする家など、日本の住まい文化がグローバル化すれば、さらには日本は世界に対しても価値ある国となる。
2020年に向けて、兼好法師の『徒然草』を、このように読んでみた。

住宅は民主主義で決まるものだ。いたずらな規制を強化することは、住まい文化を失うことにつながりかねない住宅は民主主義で決まるものだ。いたずらな規制を強化することは、住まい文化を失うことにつながりかねない

2015年 09月04日 11時07分