江戸の水辺は多くの災害に悩まされてきた

首都圏の水害について多数の事例を解説くださった土屋氏首都圏の水害について多数の事例を解説くださった土屋氏

水辺のまちづくりで東京再生を目指す水都東京・未来会議では2021年4月から6月にかけて水辺を知り、考えるための4回の連続セミナーを開催した。ここではそのうちの3回目、公益財団法人リバーフロント研究所技術審議役・土屋信行氏の「隅田川バリアによってもたらされる水辺の変化への期待」をご紹介しよう。

土屋氏は東京都庁で道路や橋梁、下水道、まちづくり、河川事業に従事した後、江戸川区土木部長などを経て現職に。土木学会首都圏低平地災害防災検討会座長なども務めており、水辺の魅力と同時にその危険についても詳しく、著書に「水害列島」「首都水没」(ともに株式会社文藝春秋)などがある。

さて、ご存じのとおり、徳川家康の入府以来、江戸とその周辺では河川の流路変更、新たな河川の掘削が続けられ、江戸は東洋のベネツィアとも称されるほど水路の張り巡らされたまちだったといわれる。その一方で江戸はたびたび災害に見舞われてきてもおり、土屋氏の話ではそこがたいへん印象的だった。そこで、ここではまず、当日語られた水辺の災害についてご紹介していこう。

土屋氏が最初に取り上げたのは江戸時代中期の1783(天明3)年の浅間山の噴火。浅間山は数十万年前から現在に至るまで活動が続く活火山で、何度も噴火を繰り返しているが、そのうちでもこの年の噴火は被害が非常に大きかった。噴火が麓の村のいくつかを壊滅させたのみならず、1782(天明2)年から1788(天明8)年にかけて発生した江戸四大飢饉でも最大とされる天明の飢饉の一因となったともいわれている。

浅間山と同時期にはアイスランドのラキ火山などでも噴火があり、噴火から数年は地球規模で低温、多雨が続いた。ちなみに歴史学者の間ではこの時の食糧不足、農家の貧困が1789年のフランス革命の遠因になったとする説もあるそうだ。

そして江戸ではこの噴火がきっかけとなって水害が起きている。なぜ、噴火で水害と思うかもしれないが、火山活動によって山腹に堆積していた噴出物が崩壊。吾妻川に流れ込んでダムを形成するもすぐに決壊し、泥流が本流である利根川、さらに江戸川にまで流入したのである。

この時の降灰は3年後にも利根川流域全体に洪水を引き起こし、その後も河床が上昇した利根川では各地で水害が激化することに。自然は何かひとつバランスが崩れると、ほかに大きな影響を及ぼすというわけである。

首都圏の水害について多数の事例を解説くださった土屋氏浅間山の麓にある鬼押出し園。天明の噴火で最後に最後に流出した鬼押溶岩流の姿を今に伝える(写真提供/Hikaru Kondo)

江戸時代は住まないことが防災

平久橋のたもとにある津波警告の碑。すっかり小さくなっている平久橋のたもとにある津波警告の碑。すっかり小さくなっている

続いては1791(寛政3)年の大水害。この年は8月、9月と津波が続き、その9年前にも洲崎神社の拝殿が倒れるなどの被害が出ている。土屋氏によると、当時は津波、高潮を海嘯(かいしょう:海から水がやってくること)と言っていたそうで、この時の被害があまりに大きかったため、幕府は周辺の3万坪もの土地を買い上げ、そこに住んではいけないとするお触れを出したのだという。

それが江東区の洲崎神社境内および平久川(平久運河とも)にかかる平久橋のたもとに残されている波除碑(なみよけのひ)である。建立された江戸時代には6尺(約180センチ)ほどもあったそうだが、地震、戦災、風雨にさらされ、現在はずいぶんと小さくなっており、隣に津波警告の碑がなければ分からないほどだ。

「当時の防災は危険のある場所を安全にしてもう一度使うのではなく、危険な場所を忌み嫌い、安全な場所に住み替える、避難防災でした。場所を忌む、忌所というやり方をしたわけで、それが分かるように人が嫌う地名、警告する地名をつけました。水にちなんだ地名は洪水があったことを如実に物語るというわけです」

実際、文明開化期(約145年前)の地図で見ると洲崎神社は海沿いにある。だが、明治の終わりごろにはすでに海側の埋立てが始まっており、約100年前にはその沖合に飛行場が造られている。その後、枝川、辰巳とどんどん埋立てが進み、現在の洲崎神社から海までは3キロほどの距離がある。避難するだけが防災の時代ではなくなったのである。

平久橋のたもとにある津波警告の碑。すっかり小さくなっている津波警告碑の前で東京時層地図を使い、明治の終わりごろの地図上に現在の地点を表出させたもの。海側の土地は新たに埋め立てられたものであることが分かる

地盤沈下で東京はより水に弱いまちに

もともと低かった江戸の水辺エリアがさらに低くなり、広範に広がるゼロメートル地帯を生んだのは明治末期くらいから始まっていたといわれる地盤沈下である。徐々に沈下はしていたものの、事実が明らかになったのは関東大震災で建設途上だった荒川放水路が被害を受けたことから。調査の中で地盤の異常沈下が分かったのである。

当初は地殻変動が要因と思われたが、終戦前後で工場の稼働が停止、減少する中で揚水量も減少、それによって地盤沈下が沈静したことから地下水のくみ上げ過ぎが要因ということが判明。地盤沈下を止めようという運動が起こった。

「昭和30年代半ばから地盤沈下抑止を目的に地下水の揚水規制が施されましたが、ようやくある程度止めることができたのは昭和50年代になってから。それまでは年に30センチ近く沈む年もあったほどで、最終的には4.5mという地盤沈下が起きています」と土屋氏。建物1階分くらいが沈んでしまったわけである。

ちなみに地下水は水として使うためだけにくみ上げられていたわけではない。千葉県から東京都江戸川区、江東区にかけては地下に南関東ガス田と呼ばれるメタンガスを含む地下水(鹹水 かんすい)の層があり、1930年代からはその採掘が行われていた。東京都は1972年に民間企業から江東区、江戸川区の天然ガス鉱業権を買収し、地下水の揚水を全面停止。これも地盤沈下ストップに寄与した。

低くなった土地を守るためにカミソリ護岸が誕生

昭和初期の護岸。さほどの高さはなく、水は比較的近くにあった(写真提供/土屋氏)昭和初期の護岸。さほどの高さはなく、水は比較的近くにあった(写真提供/土屋氏)

土地が低くなれば、当然、水害被害は起こりやすくなる。実際、1947(昭和22)年9月のカスリーン台風以降、東京ではしばしば大きな被害が発生している。土屋氏が例を挙げたのは1949(昭和24)年8月のキティ台風で江戸川区にある総武線平井駅前を舟で避難する人々の写真。この時には海岸の護岸が台風で破壊され、江東区の砂町(現在は地名は残っておらず。商店街で有名)で1.5m~2m、人の背の高さを越す浸水があったという。舟が無ければ逃げようがない状況だ。

キティ台風をきっかけに江東区の内部河川の護岸の嵩上げが開始されるなど護岸整備が始まるが、自然は何度もそれを脅かしてきた。

「1958(昭和33)年の狩野川台風では嵩上げされたカミソリ護岸でも足りずにそこに土嚢を積みましたが、それでも水が護岸を超えそうなところに迫り、荒川に掛けられていた木の橋はほとんどが流されました」。

低くなった土地を守るため、護岸はどんどん嵩上げされ、いわゆるカミソリ護岸に。水辺が生活から遠ざかって行った時代である。また、狩野川台風以降は東京低地以外の台地でも多摩川、神田川、野川、石神井川などで浸水被害が出るようになっている。

「都内河川の護岸は嵩上げを繰り返しており、旧中川のように毎年のように継ぎ足した例もあるほど。小名木川の旧護岸も3回くらい高くしたはずです。そして、今は遊歩道などになっていますが、当時はカミソリ護岸の内側は河川区域として立入り禁止。

護岸だけでなく水門も整備を重ねてきていますが、それでも危険は相変わらず。1971(昭和46)年9月には新川の西水門がミスで突如開き、増水した水が一気に流れ込むという事故が起きましたが、たった25分で床上浸水120戸、床下浸水600戸という大きな被害に。武蔵野台地、下総台地以外は常に水没の危険と隣り合わせなのです」

昭和初期の護岸。さほどの高さはなく、水は比較的近くにあった(写真提供/土屋氏)東京低地内の主要河川ではコンクリートの堤防からスーパー堤防、緩傾斜型堤防への改築が進んでいる。モニュメントとして一部残されたかつての防潮堤(写真提供/土屋氏)

東京を守る外郭防潮堤、内部護岸

東京都港湾局の資料から外郭防潮堤の位置を示す図東京都港湾局の資料から外郭防潮堤の位置を示す図

最近では2019年に江戸川区のハザードマップが「ここにいてはダメです」と実にストレートな表現でゼロメートル地帯の脅威を表現したが、事態はそれほどに危険。荒川が氾濫した場合、北千住駅前のペデストリアンデッキは水没すると土屋氏。115兆円に及ぶ被害が想定されているというのだ。

それに抗するため、現在行われているのは外側に高い外郭防潮堤を築き、内側の守られたところに水に親しめる内部護岸を造るというもの。図は東京都港湾局の海岸区分と海岸保全施設という資料から引用したもので、東京湾に面した外郭防潮堤や水門、排水機場、陸こうは1959(昭和34)年の伊勢湾台風級の台風を想定した高潮から背後地域を防護すべく作成されている。

外郭防潮堤はコンクリート等で現地盤をかさ上げし、平均干潮面から高さ4.6mから8.0mで整備されている。所によっては見上げるほどの高さである。一方の内部護岸は平均干潮面から高さ3.0mで整備されており、護岸上部は遊歩道として整備、親水性の高い空間になっている。

護岸で守る以外に高台で守るというやり方もある。それが葛西臨海公園である。同公園の背後には海抜ゼロメートル地帯の江戸川区が広がっている。そのため、同公園は大潮の満潮時よりも8m高い強固な堤防を内在しており、ここで水を防ぐ仕組みに。公園内には堤防より高く盛土された地域もあり、堤防の姿は見えないが地中で頑張ってくれているのである。

最後の一手、隅田川バリア

あの手この手の東京の水害対策に加え、土屋氏が高潮対策として提案するのは隅田川バリア。これは隅田川の入り口に可動式の防潮堤を造り、高潮の侵入を防ぐというもの。これが機能すれば平時の墨田川は水に親しむ空間として使えるようになる。

テムズバリア。イギリス政府のホームページ内に詳細が紹介されているので関心のある方はぜひテムズバリア。イギリス政府のホームページ内に詳細が紹介されているので関心のある方はぜひ

お手本となるのはイギリスのテムズ川で稼働しているテムズバリアだ。これは世界最大の可動式防潮堤で、普段は船の航行を妨げずに静かに佇んでいるが、北海の高波が襲ってきたときには10個の鋼鉄の門ががっちりと壁となり、ロンドン中心部の125平方キロメートルを高潮から守る。高さは5階建ての建物ほどあり、横幅は520m。各門の重さは3,300トンあるそうで、なんともインパクトのある構造物である。1982年に運用開始されて以来、2021年6月までにすでに199回閉鎖されているというから、技術としても十分検証されているものといえる。

もちろん、上流の水位が高ければ環七地下調整地などを利用、河口部にポンプ所を造って流すなどの工夫も必要で、総合的に考えての設置が必要だが、これが隅田川にできれば水辺は大きく変わる。カミソリ護岸を撤去できるかもしれないのである。

となれば、江戸から今までに失われてきた水面の一部を取り戻し、水都の面影を復活させることも可能になるはず。もちろん、安全性も担保できるようになる。日本の水辺ではこれまで見たことがないような巨大建造物だが、それだけにわくわく、どきどきする話ではないか。ぜひ、検討してもらいたいものだ。

水都東京・未来会議
https://www.suitomirai.com/

イギリス政府によるテムズバリア解説ページ
https://www.gov.uk/guidance/the-thames-barrier

東洋のベネツィアと言われた江戸の水辺は同時に多くの災害に見舞われてきた場所でもある。そうした災害の歴史を振り返りつつ、それでも水辺を身近なものにするためにと土屋氏が提案するのは隅田川バリア。河口部の水門で高潮を防ぐというやり方である。テムズバリアの稼働状況。北海からの水をがっちり受け止めている

公開日: