大阪南部の都市化原動力となった南海高野線

お話を聞かせてくださった、大阪府立狭山池博物館学芸員の西川寿勝氏お話を聞かせてくださった、大阪府立狭山池博物館学芸員の西川寿勝氏

大阪の中心部、難波から高野山までを結ぶ南海高野線。明治31(1898)年の開通以来、大阪南部の⼈々の⾏動範囲や暮らしを変⾰させて雇⽤を⽣み出し、沿線地域都市化の原動⼒となってきた鉄道だ。2018年に開通120年を迎えたことを記念し、企画展「南海⾼野線120年のあゆみ-はじまりは⼤⼩路-狭⼭間-」が南海高野線の大阪狭山市駅にある⼤阪府⽴狭⼭池博物館にて、2019年1⽉27⽇まで開催された。そこで、企画展を取材するとともに、南海⾼野線と沿線の⼈々の関わりについて、学芸員の⻄川寿勝⽒にお話を聞いてきた。

展示は、南海高野線の歴史を写真とともに振り返るコーナーから始まった。
明治26(1893)年に堺-橋本間の鉄道敷設を⽬指して発⾜した堺橋鉄道株式会社は、明治27(1894)年に社名を⾼野鉄道株式会社に変更する。そして明治31年に運輸開業許可を得て開通すると、1⽉30⽇から営業運転。社名は⾼野登⼭鉄道、⼤阪⾼野鉄道を経て、⼤正11(1922)年に南海鉄道株式会社となった。
「南海高野線」の歴史は、明治31(1898)年1⽉26⽇に⼤⼩路駅(現在の南海高野線堺東駅)と狭⼭駅間に「⾼野鉄道」が開通したことに始まる。同年の4⽉2⽇には⻑野駅(現在の河内⻑野駅)まで延伸し、沿線住⺠の移動⼿段として重宝されてきた。特に鉄道が縦断する⼤阪狭⼭市では、さやま遊園の開園、池尻⾃由丘住宅や狭⼭ニュータウンの開発など、市の発展と南海⾼野線の存在を分けては考えられないほどだ。さらに昭和4(1929)年には難波(現在のなんば)駅からの発着を開始し、現在まで続く路線が整った。

狭山神社社司の日記などから読み取れる開業当時の様子

「今回の企画展は、高野登山鉄道の蒸気機関車の古写真発見をきっかけに開催されました。現代の、都市部に住む⼈にとっては、鉄道は通勤・通学のための交通⼿段というイメージがあるかもしれません。でも、⾼野鉄道は狭⼭神社や萩原天神、百⾆⿃⼋幡、⾼野⼭などの神社仏閣をつないでおり、参拝客を呼び込む意味の⽅が強かったのではないでしょうか。沿線の住⺠たちの間では、他地域から⼈が押し寄せることに対して抵抗感もあったようです」と⻄川⽒。

狭⼭神社に奉仕した⼭﨑社司の明治31年1⽉30⽇の⽇記には、「⾼野鉄道⼤⼩路狭⼭間開通セリ。⻄池尻有志者、祝意を表スル為メ、午后、烟⽕ヲ打揚ゲ、相撲ヲ催ス」などとある。「烟⽕」とは花⽕のことで、開通を祝って、盛⼤な祝賀会が開かれたことがうかがえる。

企画展では、⼭﨑社司の⽇記のほか、当時の⾼野鉄道社員が所蔵していた辞令書なども展⽰されており、当時の俸給や勤務状況、臨時ボーナスがあったことなどが推察される。明治33(1900)年に、鉄道会社においてどの程度のサービスが必要なのかを検討するため、各駅の様子を視察した記録も残っており、待合室の掃除の程度や乗客への接し⽅、プラットホームでの業務など、試行錯誤しながら鉄道サービスを向上させていった、⾼野鉄道社員の様⼦が読み取れる。

また、戦争も南海高野鉄道の運営に影響を与えた。⻄川⽒は「明治37(1904)年に⽇露戦争が始まると、携帯できる⾷料の需要が⾼まります。⾼野⼭や⾦剛⼭で作られた⾼野⾖腐は持ち運びに軽く、⽔に浸ければすぐに調理できますから、軍⽤⾷として重宝され、南海高野線を使って高野山や金剛山から各地へと運ばれて、ターミナル駅だった河内⻑野駅が物流の拠点として栄えたのです」と教えてくれた。

高野登山鉄道の蒸気機関車(1914西条川橋梁撮影)高野登山鉄道の蒸気機関車(1914西条川橋梁撮影)

培われた技術を継承しつつ、進化と変化を続ける南海高野線

南海高野線は狭山池のある広い谷間の低地を通っており、大雨でも線路が水没しないように土手(築堤)を作り、その上を線路が走っていた。現在でも、狭山駅-大阪狭山市駅間の築堤に残るレンガ巻きの7つのトンネルは、狭山池の水が線路の下をくぐり、農家の人たちが家と田畑を行き来できるように開けられたものだ。農業用水路の働きを重視して、地元では「暗渠」(あんきょ)と呼ばれてきた。
ヨーロッパから導入された赤煉瓦造りの建物は、強固で近代的であるとして、幕末から大正初期の建造物には盛んに使われたが、現代はほとんど見かけない。煉瓦内部の小さな穴に溜まった水は、凍ると体積を増して煉瓦本体を劣化させるため、湿度の高い日本の風土には向かないからだ。しかし、泉州は煉瓦に適した土が採取できたため、暗渠には国産の赤煉瓦が使われており、ノスタルジーを感じさせる景観を保っている。

また、南海高野線沿線はアップダウンが多いので独自の工夫がなされ、その技術は継承されながら、進化してきた。たとえば、急カーブでも進行方向を照らすことができるよう、左右に分けて2個のヘッドライトを装備した「デ101形」が、昭和3(1928)年の、高野山電気鉄道の開業時に新造されている。また、なんばから河内長野間の平坦区間と、河内長野から高野山中腹にある極楽橋間の山岳区間を直通運転する車両として、昭和33(1958)年に登場した「21000系」は、平坦区間では高速運転、急勾配区間では低速で大きな牽引力を発揮する性能を備えた車両で、「ズームカー」と呼ばれた。このように、南海高野線は、アップダウンのある路線を、快適に走る工夫を積み重ねてきたのだ。
また、海岸沿いを走るため車両が錆びやすく、ステンレスの車両が積極的に導入されるほか、車輪の交換も定期的に行われているという。

それと同時に、常に時代に則した変化も続けてきた。南海高野線のターミナル駅でもあるなんば駅は、大阪の繁華街、ミナミの玄関口であり、かつては駅前に球場もあった。現在は関西国際空港からの窓口として多くの観光客を迎え入れており、ショッピングモールなどの開発が盛んに行われ、今でも次々新しい企画が生まれているのだそうだ。
企画展では、完全自動化されるまでのシステムだった、通行票を出すためのタブレット(鍵)も展示されており、鉄道の長い歴史を感じさせられた。

南海高野線は関空から直結し、大阪中南部、そして和歌山へ旅行するのに便利な鉄道だ。利用する際は、その歴史に思いを馳せてみてほしい。

暗渠は今でも利用されており、懐かしい景観を作り出している暗渠は今でも利用されており、懐かしい景観を作り出している

2019年 02月28日 11時00分