路面電車のまちでの役割が見直されている

お話を聞いた広島電鉄の河野さん(左)と石橋さん(右)お話を聞いた広島電鉄の河野さん(左)と石橋さん(右)

現在では、東京では都電荒川線や世田谷線、地方では札幌や岡山、広島など一部の都市で路面電車が見られるが、かつては人々の足として、各地に路面電車は存在した。鉄道や地下鉄の整備が進み、道路の整備によるバスや一般車の普及などモータリゼーションの波が訪れると、各地での路面電車は経営が苦しくなったこともあり、多くの都市でその姿を消している。

が、近年バリアフリー化やコンパクトシティ化、環境の観点から改めて見直され、欧州を中心にトラムやライトレールなどの整備が進む動きがある。日本国内でも次世代路面電車についての議論が各地ですすんでいる。高齢者が増え自動車運転の安全性の課題や、都市の渋滞問題など、人々の足として改めてまちを走る路面電車が見直されているようだ。ところで、次世代の路面電車となるLRT(ライトレールトランジット)としての特徴については、国土交通省で以下のようにまとめている。

・都市計画・地域計画での位置付けなど政策的な裏づけ
・専用軌道やセンターリザベーション等による定時性の確保、および運行速度向上など速達性
(ただし都心部では利便性向上のために併用軌道も可)
・既存交通との連携
・運賃収受制度の改良(プリペイドカード、信用乗車方式の導入など)
・乗降の容易化(電車の超低床化、軌道・電停の改良など)
・快適性、静粛性、信頼性

そんな中、大正期から人々の足として活躍し、今なお愛される路面電車の街が広島である。
今回、人々の足としての役割とまちへの貢献について、広島電鉄株式会社の河野さんと石橋さんにお話を聞いてきた。

一日平均15万7千人が利用する国内最多の利用者数を誇る路面電車

路面電車開業当初の写真(写真提供:広島電鉄)路面電車開業当初の写真(写真提供:広島電鉄)

一般的に路面電車が「市電」と呼ばれることが多いように、当初から市営もしくは民営の会社が市営化した例が多かった。また市営からはじまったものが民営に移ったケースもある。しかし、広島電鉄はその当初から今まで民営である。

その歴史は1910(明治43)年に大林組の大林芳五郎が広島電気軌道(株)を設立、1912(大正元)年に本線となる広島駅~紙屋町~相生橋までの路線他3線を開通した。その後、広島瓦斯(株)と合併し1917(大正6)年に広島瓦斯電軌(株)となり、太平洋戦争中に国家が産業別に経済統制を行うという趣旨のもと広島瓦斯電軌(株)より交通事業が分離し、1942(昭和17)年に広島電鉄(株)となった。

開通当初、まだ蒸気機関車の時代にまちを走る電車は人々の憧れであったようだ。広島電鉄の100年史(社史)には、当時の制服を着た運転士や車掌が誇らしげに写っている写真がある。当時の車両は木製二重屋根の単車両だった。

「戦時中には兵隊に動員された男性が多く、人手不足になり、家政女学校の女学生が代わりに車掌や運転士を行っていたようで、写真も残っています。職業女子としてこちらも花形で、人々の憧れとなっていたようです」と、石橋さん。

昔も今も広島の人々の足として愛され、現在では広島市内を運行する市内線(軌道区間)19.0kmと鉄道事業の広電西広島から広島宮島口間の宮島線(鉄道区間)16.1kmを合わせた35.1kmを営業し、一日平均15万7千人が利用する国内最多の利用者数を誇る路面電車となっているという。

被ばくした当日から線路の確認、わずか3日後に運転を再開したまちへの想い

全焼全壊した広島電鉄市内電車(撮影者:川原 四儀氏  提供者:広島平和記念資料館)全焼全壊した広島電鉄市内電車(撮影者:川原 四儀氏 提供者:広島平和記念資料館)

人々の足として愛されてきた広島電鉄のまちに対する想いを物語るエピソードがある。

「太平洋戦争末期の昭和20(1945)年8月、ご存じのように広島には原子爆弾が投下されました。被爆当時、広島には約35万人の人がいたのですが、その年の12月末までに約14万人が死亡したといわれています。市内線の電車は、在籍車両の123両のうち108両が被災、特に爆心地に近い宇品線は被災15両のうち8両が全壊・全焼という被害となっています。当社社員も取締役も含め多くの従業員を亡くし、多くの負傷者も出しました。

もちろん車両だけでなく、電柱や架線等にも大きな被害がでました。しかし、当社は広島市や当時の軍当局の協力を得て、原爆投下同日の午後から直ちに被害の調査や復旧にとりかかり、2日後の8月8日には試運転を、3日後の8月9日には己斐から西天満町間での運行を再開しました」と河野さんはいう。

焦土と化した広島で、再び走り始めた路面電車の姿は、その後の復興への大きな勇気を人々に与えたに違いない。

「動く電車の博物館」となった訳

広島で人々に慕われる路面電車であるが、決して経営は順調ではなかったという。

「昭和40年代に入るとモータリゼーションの進展や車優先の道路渋滞などで、利用者が減り、全国的に路面電車が次々と廃止されました。そんな中、広島においては自動車を軌道敷内乗り入れ禁止、電車優先信号の設置、交差点への軌道敷内停止禁止ゾーンを設けるなど、利用者がストレスを感じないような走行環境の改善に努めました。

また、コストのかかる老朽化車両の代替には、京都や大阪、神戸、北九州、福岡など路面電車が廃止になった各都市から車両を購入し、経費の削減に努めることで経営危機を乗り越えました」と、河野さん。

広島の街を歩くと様々な色と形と時代の路面電車が走っているのがわかる。引き継いだ路面電車の車両なども大事に使われ、「被ばく電車」として知られる650形や大正15年に製造された神戸を走っていた570形など、25種類もの電車が市内を走っており、現在では"動く電車の博物館"として有名になっている。

「広島電鉄の路線は軌道区間と鉄道区間をもっており、当社の運転士の大半は乙種電気車免許と普通列車や特急列車など一般的な電車の運転が可能な甲種電気車免許の両方を取得しています。これは他の電鉄会社にはない、めずらしいことだと聞いています」と石橋さん。

写真左上:被爆電車として知られる650形。原爆で被災したものの修復を経て現在も2両が営業運行</br>写真右上:1971年に廃止になった神戸市電の車両 写真左下:1969年に廃止となった大阪市電の車両</br>写真右下:1975年に廃止となった西鉄北九州市内線の車両(写真提供:広島電鉄)写真左上:被爆電車として知られる650形。原爆で被災したものの修復を経て現在も2両が営業運行
写真右上:1971年に廃止になった神戸市電の車両 写真左下:1969年に廃止となった大阪市電の車両
写真右下:1975年に廃止となった西鉄北九州市内線の車両(写真提供:広島電鉄)

まちづくりのこれからを担う「人々の足」としての路面電車

時代が変わり、また路面電車の役割が見直されつつあることは冒頭で述べた。
広島電鉄でも次の時代にふさわしい人々の足として変革を遂げようとしているようだ。

「広島電鉄では広島市とともに、コンパクトシティ化などの課題のため、駅とバス停との一体的な整備やJRの駅への乗り入れなどによるよりアクセスが改善する案の検討を進めています。また、高齢化対応については、停留所のバリアフリー化などを推進。そして、グローバル化を視野に入れて、多くの観光資源のある広島のまちのため、サイン類の多言語表記にも力を入れています」という。

「人をつなぎ、街をつなぎ、地域の暮らしをつなぐ」ことが仕事だと語る広島電鉄。
車社会が見直され、どの国よりも高齢化が進む日本において、もう一度街中を走り暮らしをつなぐ路面電車が、新たなまちづくりの一助になるのかもしれない。

取材協力:広島電鉄株式会社 http://www.hiroden.co.jp/index.html

広島電鉄本社横にある千田車庫。様々な形や色の路面電車が見られる(写真提供:広島電鉄)広島電鉄本社横にある千田車庫。様々な形や色の路面電車が見られる(写真提供:広島電鉄)

2018年 11月19日 11時05分