宿場町から色街、工場街、マンション街と品川宿は変遷した

歴史の教科書では品川宿は東海道第一の宿場町とだけ書かれている。だが、明治以降、特に昭和に入ってからの品川宿の歩みは決して平坦ではなかったと話すのは、旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会(以下、まちづくり協議会)会長の堀江新三氏。

「戦前、品川宿のうち、北品川は江戸時代から栄えた、宿場町の歴史を引き継ぐ色街で、戦前は行きかう下駄の音で眠れないほど賑わったそうです。ところが1958(昭和33)年の売春防止法施行でそれがきれいになくなり、戦後は工場中心に。埋立地に電球を作る町工場などができ、日本全国から集団就職で人が集まってきました。その人たちを相手に旧東海道沿いの商店や大家さんは黙っていても儲かった。

ところが、1965~66年頃から工場が移転を始めます。そして、70年代にはどんどん寂れ、80年代には今度はマンションが建ち始めた。その変化にまちの人たちは付いていけませんでした。かつてのお客さんが去り、売れていたものが売れない時代が続き、新しく住むようになったお客さんを客と思えず、ニーズが掴めない。ちょうど30年前、私たちがまちづくりに取り組むようになったのはバブル経済の真っただ中でしたが、まちは地上げでところどころが空洞化。寂れていました」。

まちづくりのきっかけになったのは1988年に滋賀県で立ち上がったNPO法人「歴史の道東海道宿駅会議」が開催したシンポジウムへの参加だった。同NPOは東海道に残された文化や風習、伝統、産業等の多くの遺産、風物を保存、伝承することで地域の活性化に寄与しようという目的で設立されており、品川宿もそこに寂れた現状からの活路を見いだそうとしたのである。

品川駅周辺は大規模な開発で大きく変わり、今後も変わり続ける。その隣、品川宿はこれまでそうした開発とは違う、まちづくりを続けてきた。写真は品川浦。新旧、歴史を感じさせる場所だ品川駅周辺は大規模な開発で大きく変わり、今後も変わり続ける。その隣、品川宿はこれまでそうした開発とは違う、まちづくりを続けてきた。写真は品川浦。新旧、歴史を感じさせる場所だ

大金を投じたイベントの失敗にまちが団結

現在は毎年9月に品川宿まつりが開かれており、非常な賑わいを見せている現在は毎年9月に品川宿まつりが開かれており、非常な賑わいを見せている

ただ、その当時は旧東海道、品川宿の歴史はほぼ忘れられており、堀江氏もその時まで意識はしていなかったという。「単に旧道と言っていました。旧東海道であることは知ってはいたけれど、そこになんらの意味を感じていなかった。ところが、シンポジウムで東海道と言ったら品川宿だろうとおだてられ、同年にまちづくり協議会を立ち上げ、さらに何か、大きなことをやろうとなったのです」。

企画されたのは宿場町を500人が練り歩くという大名行列。ちょうど、60年間海外で行方不明になっていた品川寺(ほんせんじ。難読)の梵鐘がスイス・ジュネーブのアリアナ美術館で発見、返還されて60年を記念し、レプリカを同美術館に送り、品川区とジュネーブが友好都市となるタイミングである。それをも記念したイベントで、予算は3,000万円。だが、このイベントは台風の到来で実施できず、大失敗に終わる。

普通、商店街などを中心にしたまちのイベントの予算は多くても100万円単位である。その10倍以上もの予算を無駄にしたわけで、まちづくり協議会の人たちはまちの人に会わせる顔がないと、挽回を真剣に考えた。結果的にはこれが良かったと堀江氏。

品川宿は目黒川をはさんで、北品川と南品川の両宿でスタートしている。その後、歩行新宿(かちしんしゅく。今の北品川1丁目付近)が加宿されており、現在の駅でいうと北品川駅から青物横丁駅までが範囲。細長い地域であり、かつ、北と南は昔からあまり仲がよろしくなかった。歴史のあるまちではよくある話である。

だが、この失敗を機に北と南という違いを超え、一緒に品川宿を盛り上げていこうという機運が盛り上がった。現在のまちづくり協議会には6商店街・商店会を中心に、30町会・自治会、さらに地元企業、個人に品川区や各種公益団体、地域団体が参加しており、非常に広範な人を集めているが、その基礎がこの時に築かれたのである。

ヨソの真似はしない。独自の地道な事業でまちの景観が変わった

失敗からスタートしたまちづくりだが、他と比べて非常に独自な点がある。30年前は、商店街の振興は初年度に中小企業診断士などに問題の分析を依頼、2年目にアーケードを作り、3年目にイベントをやるというのが一般的だった。だが、品川宿ではいずれもやっていない。あちこちのまちを視察した結果、ヨソの真似はしないことにしたからだという。

「区内で賑わう荏原町、戸越銀座などの商店街にも行きましたが、すでにお祭りのように賑わっている商店街にこれからの品川宿が追いつくのは無理だと思いました。それに一部の人は鎌倉の小町通りのような賑わいをと言っていたものの、若い人たちを中心にざわざわしたまちは嫌という声もあった。そこで、まちを訪れる人のために賑やかなまちを作るのではなく、住んでいて楽しいまちを作ろう、そんなまちを子ども達に残そうと考えたのです」。

その実践のために1995年に作られたのが「東海道品川宿周辺まちづくり計画書」である。80数ページに及ぶ計画書にはお休み処整備事業から始まり、まち歩きマップの発行、まちかどサインの整備、まちなみと調和、電柱の地中化、歩行者優先道路の実現、緑・石をつなげる事業、水辺空間の活性化など16の事業が並んでいる。見て気付くのはまちなみの景観に配慮した事業が多いことだろう。そしてもうひとつ、地道で息の長い事業が多いことである。

たとえば石畳の整備事業は1997年に青物横丁商店街で始まり、その後、散発的に何度かに分けて整備。最終的には2009年度から2013年度にかけての国の交付金を活用して全体の整備が終了。同時に街路灯設置、店舗修景なども行われており、こちらについてはその後も続行。旧東海道は少しずつ、美しい景観を整えてきた。街路灯の整備後、初めて夜間に訪れた時にはその幽玄さに息を呑んだものだが、今も行く度に新しい発見があるのはこうした努力の結果である。

品川宿で見られる、個人的に大好きな景観を並べた。左上から時計周りに、昔の雰囲気を残した街道ならではの商売、履物屋さん、路地には煉瓦塀。もちろん、寺社も多い。ところどころには洋風建築も品川宿で見られる、個人的に大好きな景観を並べた。左上から時計周りに、昔の雰囲気を残した街道ならではの商売、履物屋さん、路地には煉瓦塀。もちろん、寺社も多い。ところどころには洋風建築も

宿場町は人の出入りが宝。だから来る人拒まず

旧東海道沿いには和を感じさせる、松を中心にした公園が点在しており、その隣に床屋さんを改装したカフェが2018年年末にオープンした。今は珍しくなった茶箱をモチーフにしている旧東海道沿いには和を感じさせる、松を中心にした公園が点在しており、その隣に床屋さんを改装したカフェが2018年年末にオープンした。今は珍しくなった茶箱をモチーフにしている

もうひとつ、独自といっても過言ではないだろう点がある。それが新たに来る人達に対しての寛容さである。同協議会のホームページには「『どなたでもウェルカム、どんな提案もオーケー、全てオープン!』それが私たちのモットーです。」という言葉が書かれているのだが、本当にそれが実践されているのである。「宿場町は人の出入りで食べている。城下町は住む人が決まっていて、それを囲い込む、外と内を差別化する。それが違い」と堀江氏。言葉で言うのは簡単だが、リアルに「誰でもOK」になっているまちは少ない。

たとえば2009年にオープンしたゲストハウス品川宿は品川出身の渡邊崇志氏が堀江氏を初めとするまちの人たちの応援を得て実現したもの。資金がない中での起業に保証人になってくれる人、バイト先や住まいを紹介してくれる人、生活を応援してくれる人などが出て、堀江氏との出会いから1年としないうちに開業にこぎ着けたという。

こうした雰囲気に呼ばれるように、今、品川宿には渡邊氏に限らず、若い人、面白いことをやっている人が集まるようになってきている。まちづくり協議会も若手が事務局を務めるようになったし、多世代をまきこんだ活動をするNPO、水辺を楽しむイベントを主催するお父さんたちの団体、街道の歴史専門の古書店、旅をテーマにしたブックカフェ。まちの撮影に2019年の年明けに歩いた時には、2018年末にオープンしたという、古い床屋を利用した日本茶カフェもできていた。

堀江氏は、2009年にオープンしたまちづくり協議会が管理・運営する品川交流館が、そのための大きな役割を果たしているという。「地元のおじさんがでかい顔をしていたら人は来ない。だから、若い人たちに任せています。幸い、ゲストハウスや新しい施設が人の新陳代謝を促している様子です」。

品川駅周辺の余波で高まる開発圧力

踏切を渡った向こうが清水横丁。石畳の、ほんの短い横丁である踏切を渡った向こうが清水横丁。石畳の、ほんの短い横丁である

長い時間をかけてゆっくりと変わってきた品川宿だが、今、その流れを大きく変えようとする動きがある。品川駅界隈の開発の余波だ。品川宿周辺では往時の通りと地割が残されており、大きくまとまった土地がない。そのため、民家、商家が建て直されたとしても大半は細長い、いわゆるペンシルビルだった。増えてきた当初はネガティブに思われたが、小規模なままであれば元に戻せる可能性もある。品川宿はこれまで路地、路地裏にかつての東海道の幅員を残すことでヒューマンスケールな景観を守ってきた。それが大規模な建物に変わることで失われるものがあるはず。

たとえば、北品川駅近くに江戸時代に磯の清水と呼ばれた旱魃にも枯れなかった井戸があったことから清水横丁と名付けられた路地がある。ここを広げて大きな駅前広場を作り、旧東海道を分断する15mもの遊歩道を作ろうという計画がある。現在は地元からの懐疑、反対の声によりストップしているが、今後はどうなるか。さらに京急線の新馬場駅から泉岳寺駅の高架化という計画もある。

すでに新馬場駅近くを走る山手通りによって旧東海道は分断されており、それがもう一度分断される。商店街、町会などの人のつながりも断ち切られる。それがまちにプラスかどうか。一方で道路が広がることで得する人もおり、それ以外にも古い住宅の取壊し、家賃アップ、開発を期待して空き家や小さな土地を買い集める事業者など、まちの中では様々な動きが起き始めている。

海側の倉庫がマンションに変わったことなどもあり、品川宿周辺の人口は増え、人は若返った。歩く人も確実に増えている。1995年に計画したほとんどのことを実現してきた、長年のまちづくりが効を奏しているわけだが、それをひっくり返すのは一瞬だ。まちの人たちがどういう選択をするのか。これまでの努力に敬意を払ったものであることを期待したい。

2019年 02月01日 11時05分