平日の朝、JR豊肥本線の原水駅を降りた乗客の多くが向かうのは、駅北口のバス乗り場だ。TSMC(台湾積体電路製造)の子会社JASMをはじめ半導体関連企業が集まるセミコンテクノパークへ向かう「セミコン通勤バス」は、平日の朝には25便が運行されている。

「菊陽にんじん」の産地であり、熊本市のベッドタウンとして発展してきた熊本県菊陽町。2021年11月のTSMC進出発表以降、地価や賃料が急上昇し、町は大きく変わった。第1工場の稼働後、住宅不足や交通、住民の暮らしは今どうなっているのか。農業との共存も含め、変化の現在地を追った。

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熊本市のベッドタウン、にんじんの産地

農地と住宅が隣り合う菊陽町。農業の町であると同時に、熊本市のベッドタウンとして発展してきた農地と住宅が隣り合う菊陽町。農業の町であると同時に、熊本市のベッドタウンとして発展してきた

菊陽町は熊本市の北東に隣接する、面積約37.5平方キロメートルの町だ。1971年に熊本都市計画区域へ編入されたことをきっかけに宅地開発が進み、役場周辺や現在の光の森地区などで土地区画整理事業が行われた。JR豊肥本線や国道57号などを利用できる立地もあり、ベッドタウンとして人口を伸ばし、2015年の国勢調査では人口増加率が全国16位となった。

一方で、菊陽町は農業の町でもある。菊陽町の土壌は火山灰由来の「黒ボク土」で通気性や透水性に優れ、にんじん栽培に適している。1978年に冬にんじんの国の指定産地となって以来、「菊陽にんじん」は町を代表する農産物として全国に出荷されている。

九州は1980年代から半導体関連企業が集積する「シリコンアイランド」と呼ばれてきた地域で、菊陽町周辺にも東京エレクトロン九州(1984年開設)、ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング(2001年開設)などが立地している。農業、住宅地、半導体産業が共存してきた町に、半導体世界最大手のTSMCが加わった。

TSMC進出で始まった「半導体バブル」

変化は数字にはっきり表れた。2022年の熊本県地価調査では、菊陽町の工業地の地価上昇率が前年比31.6%となり上昇率全国1位を記録。LIFULL HOME'S PRESSが2023年に行った調査では、菊陽町・大津町・合志市の新築賃貸物件の平均賃料が、2021年第4四半期の5.99万円から2023年第3四半期には10.36万円へ、約1.7倍に上昇した。

第1工場の建設期には工事関係者が大量に流入し、TSMCや関連企業の従業員・家族の需要も重なった。2023年2月には工場周辺のシングル向け物件数が進出発表時から94.3%減少するほど空室が減った。半導体関連企業の立地協定件数は2024年度末までに64件。九州フィナンシャルグループは熊本県内への経済波及効果を10年間で約11兆2,000億円と試算している。

熊本県内の企業の新増設に係る立地協定締結件数の推移。オレンジ色が半導体関連(出典:熊本県)熊本県内の企業の新増設に係る立地協定締結件数の推移。オレンジ色が半導体関連(出典:熊本県)

住宅不足は緩和。街の変化にインフラは追いつくか

菊陽町周辺の賃貸住宅市場に詳しい明和不動産 菊陽支店のエリアマネージャー・松岡拓也さん菊陽町周辺の賃貸住宅市場に詳しい明和不動産 菊陽支店のエリアマネージャー・松岡拓也さん

住宅市場では、すでに潮目が変わっている。LIFULL HOME'S PRESSの2024年の追跡調査では、掲載物件数は2024年春ごろに進出発表前を上回る水準まで回復。ファミリー向け物件の平均賃料も2024年10月には7万3,032円まで低下した。

では、さらに2年近くが経過した2026年はどうなのだろうか。株式会社明和不動産菊陽支店の賃貸エリアマネージャー・松岡拓也さんに現在の状況を尋ねると、「どちらかというと供給過多」と話す。空室を避けるため、家賃を限定的に引き下げる動きも出ている。

第1工場の建設期は、多少家賃が高くても「とにかく部屋を確保する」ことが優先された。しかし現在は、供給が追いついたことで、部屋を探す人が家賃や立地、設備、物件のグレードなどを比較して選べる市場へと変化している。松岡さんは今後、「今後は、物件ごとの強みを生かした条件設定やリノベーションなど、入居者のニーズに合わせた工夫ができるかどうかで、長期的に安定した稼働を維持できる物件とそうでない物件の差が広がっていく」とみている。

交通は依然として課題だ。原水駅とセミコンテクノパークを結ぶセミコン通勤バスも渋滞対策の一つで、松岡さんによれば、企業からは工場に近く、公共交通を利用しやすい物件を求める相談も増えているという。

菊陽町周辺の賃貸住宅市場に詳しい明和不動産 菊陽支店のエリアマネージャー・松岡拓也さん平日の朝、原水駅北口のセミコン通勤バス乗り場に並ぶ通勤客

第2工場は2025年10月に着工。2026年3月末には、台湾当局が第2工場の投資計画を3ナノメートルの先端半導体製造へ変更することを許可した。投資額や稼働時期などの詳細は現在も協議中だ。

操業開始後、住民の暮らしはどう変わったか

菊陽町の外国人人口は、2023年3月の543人から2024年12月には1,032人へ増加した(出典:第7期菊陽町総合計画)菊陽町の外国人人口は、2023年3月の543人から2024年12月には1,032人へ増加した(出典:第7期菊陽町総合計画)

2026年8月末現在の人口は4万4,433人。外国人人口は2023年3月の543人から2025年8月末には1,161人へと増加し、特に台湾からの転入者が目立つ。2026年7月には町が外国人相談窓口で多言語通訳サービスを開始するなど、生活面での対応も進み始めている。

松岡さんによれば、現在の部屋探しは単身の会社員が中心で、間取りは1LDKに需要が集中しているという。もともと菊陽町周辺はソニーや東京エレクトロンなどの工場勤務者・転勤者による賃貸ニーズが底堅い地域であったが、TSMC進出によってその市場が一気に拡大した形だ。

また、台湾籍をはじめとする外国籍の入居者は、第1工場の稼働以降も増え続けている。それに伴い、物件スペックだけでなく、母国語で相談ができる体制や生活支援といったサービスへのニーズも高まっていると、現場の感触を口にする。

街が高級化し、もともと住んでいた住民が追い出されるジェントリフィケーションは起きているのだろうか。松岡さんが独自に把握している範囲では、家賃上昇や立ち退きによる転出は見られないという。ただ、希望する家賃で物件が見つからず周辺自治体まで範囲を広げて探す人や、賃料の上昇を理由に移転した店舗も一部あるという。

現時点で大規模なジェントリフィケーションが起きているとは言えない。ただ、住まいや商売の場所を選ぶ条件が変化していることは確かだ。

日本のシリコンバレーになれるか、農村は残れるか

原水駅近くの農地の向こうに見えるセミコン通勤バスの乗り場。農業の風景と半導体産業を支える通勤インフラが隣り合う原水駅近くの農地の向こうに見えるセミコン通勤バスの乗り場。農業の風景と半導体産業を支える通勤インフラが隣り合う

第2工場で3ナノ半導体の生産が実現すれば、熊本は国内でも重要な先端半導体製造拠点になる。関連企業や研究開発、人材育成機能がさらに集まっていけば、「日本のシリコンバレー」という表現も単なるキャッチコピーではなくなる可能性がある。

一方で、この町から農業が消えたわけではない。2025年度の固定資産概要調書では、田が750.9ヘクタール、畑が796.0ヘクタールで、合わせて1,500ヘクタールを超える。2025年11月には菊陽町に新たなにんじん選果施設が完成し、処理能力は従来の日量30トンから60トンへ倍増した。JA菊池は栽培面積の維持・拡大を進めるとしている。

ただ、産業集積と農業の共存は、町自身も課題として認識している。第7期菊陽町総合計画では、世界的半導体企業の進出による影響の一つに「産業集積に伴う農地減少への懸念」を挙げ、その対応として「バランスの取れた土地利用」や農業・商業・工業の振興を掲げている。

原水駅近くの農地の向こうに見えるセミコン通勤バスの乗り場。農業の風景と半導体産業を支える通勤インフラが隣り合う世界的半導体企業の進出による影響と、菊陽町が掲げる主な施策(出典:第7期菊陽町総合計画)

工場が増え、住む人が増え、土地利用が変わるなかで、農業や既存の暮らしとどう共存していくかが、次の問いになる。

TSMC進出から約5年。住宅不足は緩和し、かつてのように「部屋があれば決まる」市場ではなくなった。一方、人口と外国人住民は増え続け、第2工場という次の大きな変化も始まっている。

原水駅で列車から降り、足早にバスへ向かう人々の姿は、巨大投資によって町の日常がどう変わったのかを示す風景の一つだった。菊陽町は「日本のシリコンバレー」として定着するのか。そしてその過程で、もともとの暮らしや農業とどのように共存していくのか。半導体バブルの先にある町の姿が見えてくるのは、むしろこれからだ。


■取材協力
株式会社明和不動産 菊陽支店