国立の南側・谷保が面白い
国立といえば郊外の文化的でかつおしゃれな住宅地というイメージがあるが、近年はいわゆる国立の南側のJR南武線谷保駅周辺などに新しいお店ができ、話題になっている。
タウン情報誌などで国立特集をするときも、取り上げられる店は国立駅周辺よりも谷保駅周辺のほうが多いくらいなのである。
しかも2022年4月には一橋大学を卒業したばかりの女性が谷保でスナックのママになったというのでNHKの朝のニュースでも夜のニュースでも取り上げられるほど話題になった。
私が谷保周辺の魅力に気づいたのは2015年ごろである。
当時私は各地の郷土資料館を巡っていて、国立市の郷土資料館も訪れたのだが、JR南武線矢川駅から資料館まで歩いていると、のどかな農村的な風景が残り、とても良い「気」を感じた。こういうところに家があって、必要なときだけ国立駅前に行くという生活がしてみたいなあと思ったのである。
そこで今回は国立の歴史を振り返りながら、現在の谷保の魅力を探ってみたい。
高級住宅地としての国立
たしかに国立駅周辺は近年、新しいマンションや商業施設が非常に増えてきた。
JR中央線が高架化し、高架下にも商業施設が入り、保育園もあり、利便性も高まっている。文教地区として一橋大学、桐朋学園、国立高校などがあり、パチンコ屋、キャバレーなどは出店が禁止されているので、文化的で清潔で高級なイメージがある。そのため都心から遠い割には地価も高い。大企業の経営者なども実はたくさん住んでいるらしい。
23区内の住宅地では土地が分割され、プレハブ住宅や3階建てのミニ戸建てなどが増殖しているのと比べると、国立は住宅の土地区画も広い。緑も多く、プレハブ住宅やミニ戸建てもまだ少ないようであり、世田谷・杉並あたりよりも古い豪邸が残っている割合も多いかもしれないとすら思える。
甲州街道沿いに栄えた谷保村の雑木林が学園都市に変貌
国立は国分寺と立川の間にあるから国立という名前になったのだが、もともとは北多摩郡谷保村の「やま」と呼ばれた雑木林・松林であった。これを堤康次郎の箱根土地株式会社が買って、1926年、国立大学町構想を打ち出し、関東大震災後に東京商科大学(現在の一橋大学)を誘致し、田園郊外住宅地として発展したということは周知の事実である。
谷保村は甲州街道から多摩川にかけての農村地帯であり、街道沿いに商店も並ぶというところであった。国立駅ができたのも1926年であり、同年四谷から東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)が移転。27年からは東京商科大学(現在の一橋大学)の移転も開始した。
駅ができると駅前に最初の商店として酒屋・荒物屋の「せきや」ができた(今も駅前に関屋ビルがある)。「せきや」は下谷保の「せきや」の出張所という扱いだったという。
駅前には他に5軒ほどの店と少しの下宿屋があるだけで、駅の乗降客も1日100人、大学関係と箱根土地関係、あとは工事関係の職人などであり、夕方には人っ子ひとり通らないさびしさだった。
だから商売もほとんど開店休業に近かった。雑木林には狐や狸やイタチ、野兎がいて、「せきや」は国立で狐や狸と商売するんだと谷保村の人々にからかわれた。実際「せきや」の主人は国立に移ってから狐の肉を食べたことがあるというから、日本昔話である。
現在の国立の起源は1950年代
しかし乗降客は1927年になると4千人に増えた。府中出身の鈴木居酒屋、東京市出身の志田しるこ(後にそば屋となる)、谷保からは矢沢三郎の豆腐屋、本所からは牡丹園経営者の成家文蔵が出店するなど、国立駅周辺に賑わいが生まれた。
牡丹園の庭には何百株もの牡丹が植えられ、五月初旬になると園内を見せてくれ、緋毛氈を敷いた縁台が並び、国立の名物となったという。ビリヤード場の「ミドリ」もこのころできていた。
1930年になると、東京商科大学(現在の一橋大学)の移転が完了し、翌年には下宿・ホテル経営者が9名と増え、喫茶店、洋服裁縫店、菓子店などがそれぞれ複数できていた。33年末ごろで、一般の住宅は100戸ほど、その他に商店が40戸ほどだったらしい。本格的な住宅地化・市街地化は終戦後のことなのである。
戦後の国立町の人口は1945年には6,099人に過ぎなかったが、55年には国立駅周辺に人口が増え始め2万2,290人となる。65年には4万1,519人、1967年1月1日に市制施行、75年に6万3,258人となって以降は人口は横ばいとなるが、この10年はマンション建設などのために7万6千人台にまで増加している。
人口増加に合わせて1949年には国立料飲組合が発足。国立で「最も知的な、最も民主的な村びとサロン」と呼ばれた喫茶店「エピキュール」もこのころできた。だが、粗末な木の椅子とテーブル、ひびの入ったダルマストーブのある店で、メニューはコーヒーとトーストとミルクくらいであったという。
48年にはレストラン「ふるさと」が開店。店主柳田公太郎の妻で従軍看護婦だった京子が従軍先で手に入れたコーヒー豆をひいて出したので、喜ばれた。だが物資のない時代なので、レストランとはいえ、すべて闇市で仕入れたものからなる「なんでも屋」だったらしい。
そのほか、大増すし、青嵐、三ツ矢食堂などが戦後の国立にできた。詳しいことはわからないが、戦災のひどかった23区内から移転してきた人が多かったのであろう。
1951年には谷保村が国立町になる。52年には東京都によって文教地区に指定される。
今もあるロージナ茶房は1954年、ケーキの白十字は55年(現在工事中で仮店舗営業)、すでに閉店したが国立を代表する店だったジュピターは55年、邪宗門は57年にできている。いわゆる国立の有名店は国立町が成立した1950年代にできたのである。
コロナ後の郊外として谷保はふさわしい
郊外論の専門家としての私の観点からいうと、これからの郊外に必要なのは、「ワーカブル」と「夜の娯楽」である。
ワーカブルとは働きやすいことであるが、働きやすさは単に家が広いだけではもたらされない。家の近くにストレス解消が出来る公園があるとか自然があるといったことも重要である。
郊外は都心と比べて飲食店の数が少ないし、多様性も少ないので、家の近くにも多様で多数の飲食店が欲しくなる。Uber Eatsで運んでもらうにしてもファストフードしかないのでは飽き飽きする。
また品揃えの良い書店がある、個性的な古書店がある、文化的なギャラリーやエッジの効いたショップがあるなど、知的な刺激も必要である。そして仕事の後はビールでも飲みたくなる。家で飲んでも良いが、やはり気分転換をするには外で飲みたい。となると安くて美味しい、健康にも良い食事ができる店が欲しくなる。カラオケも欲しいし、バーやスナックも欲しくなるのだ。
つまり自然の要素と都市の要素が両方欲しくなる。郊外にはもともと自然は豊富だが、都市の要素が少ない。都市の要素を増やしていかないと都心居住の楽しさに負けてしまう。
大体こういうことが私の近年の郊外への提案であった。
さらに国立駅から谷保駅にかけての住宅地の中には絵画教室を兼ねたカフェとか、ピアノ教室とか、フォトサロンといった文化的・アート的な店もたくさんある。昔京橋にあったツァイトフォトサロンの経営者だった方の自宅が今は国立でツァイトサロンとなっているのを見つけたときは、私も国立の奥深さを感じて驚いた。
UR富士見台団地には、建築事務所兼飲食店である富士見台トンネルという場所もある。建築家の能作淳平さん夫妻によるものだ。団地の近くのダイヤ街商店街には小鳥書房という出版社兼古書店兼新刊書店という店もある。多摩川に近い農地で取れた新鮮な野菜をつかった飲食店も多い。
新しいスナックも誕生
そして22年4月には、谷保駅近くに「スナック水中」が開店した。なんと一橋大学社会学部を卒業したばかりの坂根千里さんがいきなりスナックのママ(経営者)になって始めた店だ。
もともと「せつこ」という昭和のスナックだったが、そこでチーママとしてバイトをしていた坂根さんが、スナックをもっと若い人、特に若い女性で仕事の疲れを癒やせる場所がつくりたいと考えて、自分でその店を継承することにしたのだ。
せつこを水中に変えるにあたっての設計は能作さんが担当した。半地下に下りて重いドアをあける店だったのを、壁をぶち抜いてガラス張りのドアに変えた。これにより常連でなくても入りやすい雰囲気にできた。
行ってみるとたしかに20代の男女がメインの客であり、他方で「せつこ」時代の常連客もいる。店員さんも若い男女がいる。若い客の中にはなんと私の昔の本を資料に修士論文を書いているという女子学生までいてびっくりした。
私はこの5年、郊外には夜の娯楽の場所としてスナックが必要であるという認識から、郊外スナックネットワークなるものをつくっていきたいと提唱してきたが、まさに「水中」にはネットワークの核となる可能性を感じた。女性による女性のためのスナック、女性が男性にサービスする従来のスナックではなく、若い男女が集まれる場所であり、知的なサロンとしての可能性もある。おそらくは子育て中の人たちも集まる場所になっていくのではないか。
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