新綱島駅建設中
綱島は東急東横線沿線のまちである。数年前まで綱島温泉でも知られていた。
明治時代からは桃の名所だったらしい。満開の季節には、まちが桃色の絨毯を敷き詰めたようになり、その間に黄色い菜の花が彩りを添えた風景を丘の上から見下ろせば実に筆舌に尽くしがたい風景だったというからまさに桃源郷だ。
現在は相鉄線の新線が、西谷駅から横浜市営地下鉄羽沢横浜国大駅を経由して、東急新横浜線に乗り入れ日吉に至るという路線が工事中で、その路線の日吉の手前が新綱島駅だ。地下駅の地上部にはタワーマンションが建設中である。これからの綱島は「サスティナブル・スマートタウン」を目指すという。
住宅地としての開発は1920年代
綱島が住宅地として開発されたのは1926〜27年であり、東横電鉄(現在の東急)が新丸子、元住吉、日吉、菊名、白楽、鶴屋町とともに横浜、川崎市内に開発したものである。綱島はまだ横浜市に属していなかった。
当時の綱島駅は綱島温泉駅といい、駅周辺の1万2千坪(約4万m2)は商業地として開発され、すぐにすべて分譲されたらしい。今もにぎわっており、昭和からの喫茶店もあるのが好ましい。
また、駅前から北に向かった丘の上の綱島公園隣接地3千坪(約1万m2)に東横電鉄は住宅用分譲地をつくった。
駅の「北部は丘陵にして南部は鶴見川の清流に面し冬暖かく夏涼しく風景絶佳なり」「隣接して桃雲台公園あり 老松点在して雅趣に富み附近一帯風光明媚。特に桃花満開の季節が最も佳なり」と当時のパンフレットは書いている。
しばらくは空き地で子どもの遊び場だったが、1937年ごろから界隈に工場が増え、駅の乗降客数も増えて、住宅が急激に売れ始めたという。
綱島温泉の歴史
綱島温泉の発祥は、1913年に地元の菓子屋の加藤順三が自宅温泉にラジウムが含有されているかの分析を内務省に依頼、飯田助太夫によってラジウム含有が発見されたのが始まり。この二人が綱島温泉の基礎を形成、まず旅館の「入船亭」を13年に早速開業した。入船亭があったのが先述した新綱島駅の場所である。温泉旅館の元祖は「永命館」で16年に小島孝次郎が開業した(入船亭が温泉旅館になるのは15年)。
綱島は昔から鶴見川堤防の桜と柳が名物で、花見の時期は観光客が溢れた。芸者を運ぶ人力車が往来し、露店も賑わった。「桃は畠に 桜は土手に 綱島花吹雪」と「神奈川音頭」で歌われるほどであったという。
この温泉に目を付けた東横電鉄は、地元有力者と協力し、綱島駅西の住宅街化・別荘地化を企図し、住宅地の一角に遊園地を作る計画を立てた。しかし資金の都合から温泉だけを1927年に開業した。
その規模は約4千m2。名物の「あやめ池」を中心とした庭園があり、浴場の建物は300m2。29年下期の入浴客数は1万人を超え、その後も増加し、鉄道の増収に寄与した。そしてこの東横電鉄の資本投下により綱島全体も温泉街となっていった。
ただし温泉は人件費がかかり、赤字だったので、当時の東横電鉄・篠原三千郎常務が同社田園都市課に赤字解消策を練らせた。
結果、入浴客が長時間滞在できるように、施設を改良することになった。ポンプを増設して湯量を増やし、無料休憩所を設け、庭園を整備して散策ができるようにした。
31年からは田園都市課が経営を担当するようになり、入浴客数も急増し「箱根に次ぐ」客数を集めることになったという(『港北百話』)。34年頃には「住宅もネオン街も軒を並べている」という状況で、旅館数も40軒ほどにまで増加した。
大娯楽地帯を計画
35年頃には綱島に「大歓楽郷」をつくろうという計画もあった。
綱島温泉組合の柴田弁蔵氏他3名が中心となって計画したもので、綱島にできた花街を「一大遊園地化し」、西の宝塚と共に、ニューヨーク郊外のコニーアイランドのような場所に「飛躍しよう」というのである。
温泉と芸者遊びだけでは「近代人の感覚にピッタリとこ」ないから、「あらゆる大衆を引き付けよう」と、「各種運動場、劇場、その他あらゆる娯楽設備を含む超豪華」なものをつくり、「東横電鉄会社も大乗気になってい」たという。
しかし戦争が激しくなると様相が変わってくる。芸者遊びは不謹慎だから「健全保養地、工業都市の住宅地として」「新秩序を打ち立てる」べく、旅館は芸妓屋組合と絶縁し、湯治客や連れ込み旅館客は一切謝絶。全旅館が「純然たる下宿旅館」に転向したという。
1940年には安立電機株式会社ができ、それが軍需工場となり、綱島の旅館街は軍需工場の工員寮や軍関係者の宿泊所となり、綱島公園は高射砲の陣地となったのである。
だが戦後の綱島は、東京の奥座敷の温泉旅館街として賑わいを取り戻し、80軒ほどの旅館ができ、東海道新幹線が開通して東京から伊豆、箱根が身近になるまで繁栄が続いた。
懐かしい農村風景が残る大曽根
綱島駅から南側には鶴見川が流れており、今回取材に訪れてみると、川沿いは釣りをする人、ジョギングをする人、サイクリングをする人などで結構賑わっている。
驚いたのは川の両岸を橋を渡って歩いて行き来する人が多いことだ。橋の南は大倉山駅が近い大曽根地区であるが、大きな商業施設はない。そのため橋を渡って綱島駅周辺に買い物などに来るらしいのだ。
大曽根側はおそらく鶴見川沿いの工場地帯の従業員がたくさん住んでいた時代があったのだろうと思うが、古い昭和な商店街もあり、古いスナックもある。今は多少寂れているが、建て替えがあったり、新しい店もできたりしているようだった。
また大曽根は綱島駅からも大倉山駅からも遠いこともあり、農地はほとんどないが地主などの広い屋敷をいくつも見ることができる。こんな懐かしいような風景が、東横線沿線の、それもそれほど渋谷から遠くもないところに残っているとは思ってもみなかった。
古き良き温泉時代を懐かしむ人々からは、駅直結でまちに人が出てきにくいタワーマンションは味気ないものに見えるが、人口が増えることは商業の売上げなどには貢献するのだろう。
ただし、「サスティナブル・スマートタウン」もいいけれど、綱島の歴史を踏まえたまちづくりをしてほしい。
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