小田急線開業までは、出遅れていた地域

小田急小田原線が多摩川を越えて、登戸から新百合ヶ丘に至る川崎市内の沿線は、東京西南部の郊外中流文化を代表する沿線と言えるだろう。東急田園都市線ほど高級感はないが、それは1980年代以降に沿線イメージを急速に高めたためであり、それ以前は小田急の人気はかなり高かったのだ。

だがこの沿線は、明治末期以降、武相中央鉄道や相陽鉄道などいくつかの鉄道敷設計画が起こりながら、いずれも日の目を見ずに終わっていたので、1927年の小田急線開業以前は地域衰退の危機感を感じていたのだという。
25年、多摩川に二子橋ができ、玉川電鉄が溝ノ口まで開通。南武鉄道(現・JR南武線)も開通し、現・川崎市の橘樹(たちばな)郡高津、向丘、稲田、生田の各村の開発が始まっていた。そのため小田急線開業に寄せる住民の期待は大きかった。

開業当時、小田急は祖師ヶ谷大蔵に小住宅100軒を建築して郊外住宅縦覧会を開いたが、これの評判がよく、すぐに売切れた。そこで1928〜29年にかけて千歳船橋、喜多見、狛江などでも住宅分譲を行った。新宿から小田急線で20〜30分であったので、関東大地震後の郊外移住ニーズの高まりで、販売は好調だった。
そして多摩川を越えて西生田付近で、地主と契約し、住宅用借地として土地を消費者に斡旋販売したという。

昭和30年代は地主直売の住宅地も少なくなかったようだ昭和30年代は地主直売の住宅地も少なくなかったようだ

地主たちが大騒動

だが用地買収は簡単ではなかったという話もある。小田急電鉄4代目の社長・安藤楢六は入社当時の配属先が用地係であり、当時の状況を回想している。
「大学を出たての世間知らずが,海千山千の地主を相手に、なんとか土地を安く売らせようとするのだ。鉄道が敷かれれば、土地が値上がりするということは当然目に見えている。なんのかんのといっては、値段をつり上げようとするのだ」「地主というものは、まったく、こうもあるか、と思うほど強欲で因業であった」「社会の人々の福祉の為、国家の為ということに仕事の意義を見出した私には、どれほど腹を立てさせられたり、義憤を感じさせられたりしたことか」(永江論文)。

生田駅をつくるかどうかで地元が大騒動になったこともあった。
生田村は五反田川に沿って東西に細長い地形をしており、明治年代に西部の菅生村と東部の五反田村が合併したとき、両村から1文字ずつ取って「生田」とした。村役場等の行政の中心は村東部に存在したが、村西部には農機具製造会社が立地していたことから駅の設置場所を巡り、激しい議論が展開されることになった」のだという(永江論文)。

東生田地区の人々は、もし駅を置かないならば線路用地を売らないと猛烈な反対運動を起こしたが、地元有力者の取り計らいもあり、結局小田急が西生田駅のほかに東生田駅(今の生田駅)も置くこととして騒動が落着したという。

富士山が見えることをアピール富士山が見えることをアピール
富士山が見えることをアピール写真付きでひな壇のある住宅地を宣伝

有力地主たちの地域への貢献

白井家付近の住宅地はさすがに品が良い白井家付近の住宅地はさすがに品が良い

地元有力者を代表するのが白井家である。西生田駅(現・読売ランド前駅)の敷地を寄付したのが駅前の地主・白井忠三郎だった。忠三郎は村長や杉山神社の総代などを歴任した、人望もある人物だった。
駅舎は、細王舎(地元の脱穀機のメーカー)が寄付した。
また小田急線の開通7年後の1934年、白井忠三郎は、日本女子大学に敷地を寄付し、駅から府中街道へ抜ける通称「女子大道路」の開通に尽力した。

さらに息子の鋼之助も、戦前市会議員などを務め、地域の発展に貢献した人物である。戦後も西生田地域の文化、教育、宗教、医療などの面において多大な貢献をした。1955年、駅前の白井家の隣地には、生田幼稚園(キリスト教系、現・川崎市駐輪場)が開園、58年、生田伝道所(のちの生田教会)が開設、60年、南生田の丘の上に生田病院が開院したのである。

組合活動の提案

白井鋼之助の著書『産業組合論』白井鋼之助の著書『産業組合論』

戦前に戻るが、日本女子大学の桜楓会が農繁期に親が農作業で忙しいときに子どもを預かる託児所をつくったこともある。
桜楓会は東京の小石川(後に巣鴨に移転)、日暮里に託児所をつくり、また災害時には救護託児施設を羽田、深川などにつくるなどの事業を続けてきたのだが(拙著『東京田園モダン』参照)、生田でも託児所をつくっていたとは知らなかった。

これはおそらく白井鋼之助の思想が関係しているのではないか。鋼之助は『産業組合論』という本を書いているのだが、そこで農業も組合方式で行われるべきであり、組合の活動の一環として託児所も位置づけられているのだ。

白井は「人々相集まって相互扶助の社会形態を成すは人類の本能であって、元来この組合の思想と形態とは(中略)原始時代より自然発生的に各国各民族の間に必ず存在していたものである。(中略)だが18世紀末より19世紀初頭にかけて(中略)零細農業者、手工業者、労働者等は未曾有の悲惨なる状態に陥り彼等の生活は極度に不安定なるものとなった」とし、ロバート・オーエンらのイギリスの運動、ドイツ、フランス、イタリアの各都市の運動などを紹介し、日本における産業組合の必要性を述べる。

「近代農家の貧困化の根本原因は」「自給自足の経済生活を」してきた農家が「近代資本主義・貨幣経済時代に入るや、生産物は市場商品化し、その売却代金をもって日常消費財を購入することとな」り、「収入が少ないのに支出が多いことに苦しむ」ようになる。

だが「人類文化の進歩」は「消費生活を豊富にし、生活を享楽化する」ことだから、農民の暮らしが贅沢になったとか、勤倹に暮らせというのは「酷」である。「百姓だって人間である以上、人間らしい文化生活を営むことは決して非難されるべき」ではないとして、日用品の共同購入などを行う産業組合の必要性を白井は説く。
共同購入だけでなく、日用品の共同製造、共同浴場、共同理髪所、冠婚葬祭等の用具の共用、そして託児所や医療施設の共用を提言しているのである。

アニメのような絶景が見える

例によってチラシと川崎市の地図データベースを手がかりに生田駅から読売ランド前駅あたりを探訪してきた。チラシそのものの物件は見つからなかったが、同じ不動産業者の物件は見ることができた。

生田駅から線路沿いに世田谷通りを東に向かい、500mほどしたところで北側の山を登ったあたりに某開発業者による住宅地がある。世田谷通りからの坂道は急で、大きくカーブしており、毎日の通勤は大変だっただろうが、南側には線路を挟んでまた丘が見え、今は明治大学の校舎が見える。富士山もしっかり見えるであろう。

東生田自然遊歩道に沿うように歩いていくと、別の開発業者の住宅地に着いた。ここは街路も比較的まっすぐである。
そこから谷に下り、また丘を登ると東京都心部が見えた。スカイツリーまで見えて、アニメ「君の名は。」のワンシーンのようである。中央線沿線だと立川を過ぎないと丘陵地がないが、川崎市は多摩川べりを過ぎればすぐに丘陵地である。都心からのちょうどよい距離と標高差のために、こうした絶景が見られるのだ。これは住民にとっては大きなメリットではないか。

生田の丘の上からはアニメ「君の名は。」のような東京が一望生田の丘の上からはアニメ「君の名は。」のような東京が一望
生田の丘の上からはアニメ「君の名は。」のような東京が一望坂が多いので急な階段も

参考文献
『川崎市史 通史編3 近代』川崎市、1997
『川崎市史 通史編4上 現代 行政・社会』川崎市、1997
小田急電鉄株式会社『小田急五十年史』1980
永江雅和「私鉄会社による路線・駅舎用地買収と地域社会 ―小田原急行鉄道の事例―」『専修経済学論集』Vol. 48, No. 2, 2013
白井鋼之助『産業組合論』東京農業大学出版部、1934年

生田の丘の上からはアニメ「君の名は。」のような東京が一望かわいいタウンハウスもあった

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