幻の住宅地

桃源台のバス停桃源台のバス停

桃源台という住宅地をご存じだろうか。横浜市旭区の希望が丘にあるが、地名にはない。昭和30年代前半(1955〜59年)ごろに分譲された住宅地らしい(当時は保土ケ谷区)。

今はバス停の名前として残っている。電話線の名称として電柱にも看板がある。それだけである。
だが、たしかにかつて桃源台は高級住宅地として売られたことが古いチラシからわかっている。

私は東京圏を中心に郊外の研究をながらく続けてきたが、東急多摩田園都市とか多摩ニュータウンといった大規模で有名な住宅地ならともかく、個別の小さな住宅地にまでは調査研究はしきれていない。

横浜、川崎、鎌倉の土地分譲チラシ

ところが先日、都市・建築・住宅に特化した古書店のカタログを見ていると、昭和30年代住宅地の広告チラシが大量に売りに出ていた。これは大変だと、即決で購入した。
今までも2、3枚こうしたチラシを買ったことはあるが、120枚以上まとめてというのはかなり珍しい。

チラシは、建て売り住宅地ではなく、すべて造成した土地だけの販売。事業主は東京の不動産業が中心だが、地元の地主もいる。
地域は横浜市、川崎市、鎌倉市にほぼ集中していたので、私の予算の都合もあり、その3市のチラシだけを購入した。

1960年ごろの桃源台。資料:経済地図社編「保土ケ谷区明細地図 昭和35年度版」経済地図社、1960現在の桃源台

チラシを見ているだけでもとても面白いのだが、住宅地の名前は松涛台、五島遊園台、静風台、茗渓台、松風苑、緑風園、永楽台、長楽園などと立派だが、聞き覚えがまったくないものばかりである。

とりあえずグーグルで横浜市に限ってそれらの住宅地名を検索しても、ほぼまったく結果は出てこない。いくつか出てきたのが桃源台であり、それから同じ旭区の清水ヶ丘は信号の名前に残っていた。

富士見台は、瀬谷区の三ツ境駅南に富士見台というバス停があり富士見通りという通りもある場所が見つかった。

住宅地を実際にいくつか訪ねてみる

どうしてこんなに名前が消えるのかということ自体も興味深いのだが、それは今後の研究に委ねるとして、せっかく見つかった住宅地を実際にいくつか訪ねてみることにした。今回はそこから3つの住宅地を紹介する。

60年ほど前に土地分譲されたのだから、その後すぐに家が建ったとしも、多くはすでに建て替わっている可能性が高いが、築55年くらいの家も少なくなかった。
介護ヘルパーに付き添われて散歩をする高齢者が何人かいたが、そのうち一人のおばあさんが、私がここに越してきたころは家が3軒しかなかったの、と話しているのが聞こえた。

まず桃源台であるが、旭区南希望が丘にある。駅で言うと相鉄いずみ野線・南万騎が原駅、あるいは相鉄線・希望が丘駅が近いが、通勤者は二俣川までバスで行ったのだろう。

バス停からけっこうな坂道か階段を上っていくと、電柱の電話線看板に桃源台の文字が見つかった。なかなか良好な住宅地である。

社宅用地として買われたのか

後日横浜市の図書館で1960年の地図を調べると、「県営桃源台分譲住宅」という文字が見つかった。なんと県営なのか。民間業者による分譲地を神奈川県が買ったのか。

また隣接して「日本鋼管鶴見製鉄所社宅」と「昭和電工社宅」の文字も見える。これも分譲地を買った可能性があるが、これらの点はまだ調べきれていない。

1960年ごろの桃源台。資料:経済地図社編「保土ケ谷区明細地図 昭和35年度版」経済地図社、19601960年ごろの桃源台。資料:経済地図社編「保土ケ谷区明細地図 昭和35年度版」経済地図社、1960
1960年ごろの桃源台。資料:経済地図社編「保土ケ谷区明細地図 昭和35年度版」経済地図社、1960清水ヶ丘の昔のチラシ

幼稚園から清水ヶ丘が見つかった

次は清水ヶ丘。ここは相鉄線二俣川駅の北側のはずである。清水ヶ丘住宅入口という信号があり、清水ヶ丘団地というバス停もある。信号近くに「清水ヶ丘幼稚園」の看板が見えた。
幼稚園を目指していけば住宅地もあるはずである。
そこで幼稚園の場所を調べて現地に向かった。幼稚園は、清水ヶ丘住宅入口の信号を右折し400メートルほど行くとあった。そもそもチラシにも幼稚園1分と書かれていた。

60年の地図で調べると、幼稚園はかつては、まさに看板のあった場所にあったとわかった。そこから今の幼稚園方面に向かう道の、両側が清水ヶ丘住宅地のようである。

清水という地名は湧き水の出る場所につく地名なので、低地の地名である。だから清水ヶ丘とはおかしいなと思っていたが、昔は清水谷と呼ばれる地域だったらしいことも地図からわかる。おそらく谷間の川を埋めて道路にして、川の両側を住宅地に造成したのであろう。

1960年ごろの清水ヶ丘 資料:経済地図社編「保土ケ谷区明細地図 昭和35年度版」経済地図社、19601960年ごろの清水ヶ丘 資料:経済地図社編「保土ケ谷区明細地図 昭和35年度版」経済地図社、1960
1960年ごろの清水ヶ丘 資料:経済地図社編「保土ケ谷区明細地図 昭和35年度版」経済地図社、1960現在の清水ヶ丘

富士見台は横浜市営住宅だったらしい

最後に富士見台。相鉄線三ツ境(みつきょう)駅南口徒歩5分ほどの場所から南に広がる住宅地で、きれいな長方形の宅地に真四角区割りで住宅が並んでいる。

商店街が川を埋めたと思しき道路沿いに並んでおり、昭和30年代の面影を残している。バス停は「住宅前」というものがあるので、当時のこの地としては珍しい新興住宅地があったことが想像される。

現在の富士見台現在の富士見台

またここは公園や児童遊園が整備されており、ロータリーもあるなど当時としては画期的であることから、民間業者による開発とは思えなかった。古い平屋の住宅が残っているので、おそらくは市営住宅がまずでき、それがその後住民に払い下げられ、増改築や建て替えが行われたものと思われる。

現在の富士見台住宅前というバス停がある富士見台

資料のない住宅地を研究したい

さらに地図を見ると、三菱日本重工業KK横浜造船所三ツ境社宅の文字が見える。桃源台同様、民間企業の社宅としても土地分譲がされたようである。

このように戦後の郊外住宅地開発は、東急、相鉄、京急などの私鉄各社だけでなく、無数の業者や地主による分譲地の開発によっても進められたのである。だがあまりに小規模な業者が多いために資料がなく、研究のしようがない。
今回のチラシの発見は、これまでの郊外住宅地開発史に欠落していた情報を埋めることになればいいなと思っている。
もし何かこれらの住宅地について資料を持っている、そこに住んだことがあるという方は私までご連絡をいただきたい。

富士見台 資料:経済地図社編「戸塚区明細地図 昭和38年度版」経済地図社、1963富士見台 資料:経済地図社編「戸塚区明細地図 昭和38年度版」経済地図社、1963
富士見台 資料:経済地図社編「戸塚区明細地図 昭和38年度版」経済地図社、1963富士見台の昔のチラシ

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