19世紀末シカゴで始まった超高層ビルの歴史
建築史家・倉方俊輔さん(大阪市立大学准教授)が語る、“アメリカ建築の聖地”、シカゴ。フランク・ロイド・ライトとミース・ファン・デル・ローエ、近代建築3大巨匠のうち2人が、この街に大きな足跡を残した。加えてシカゴは、世界に先駆けて超高層ビルを発達させた場所でもあった。
1871年に起きたシカゴ大火からの復興の過程で、急増するオフィス需要に対処するため、シカゴは建築物の高層化を目指した。「周囲に平地はあるのに、あえて高さを求めたことに、当時のシカゴのひとびとの意気込みを感じます。それは合理を超えています」と倉方さん。
「シカゴは“ウィンディ・タウン”と呼ばれ、風が強いことで有名です。湖に面した湿地で地盤も良くない。悪条件の元で前例のない高層建築物を実現するため、建築家たちは様々な挑戦を繰り返しました」。
1888年竣工の「ルッカリー・ビル」は、当時のシカゴを代表する建築事務所、バーナム&ルートが手掛けた。最初期の鉄骨造による高層ビルで、地上12階、高さは55m。軟弱地盤の上に箱状の基礎を設けることで、建物を浮かせるようにして支えている。外観は当時アメリカで人気のあったロマネスク様式が基調だ。
「同じ中世に起源を持つ様式であっても、重厚で法則性の強いバロックに対して、ロマネスクは素朴で多様で、ルールにとらわれない独立独歩の気風を感じさせます。デザインをアレンジする余地もありそうです。そこがアメリカ人の琴線に触れたのではないでしょうか」。「ルッカリー・ビル」はフランク・ロイド・ライトの改修設計(1907年)による美しいロビーでも知られる。
外からは組積造に見える「ルッカリー・ビル」に対し、「リライアンス・ビル」は「いかにも鉄骨造」という姿をしている。「建築を成り立たせる理念が純粋に表現されているように見えます」と倉方さん。
「リライアンス・ビル」は1890年にバーナム&ルートによって3階まで建設され、ジョン・ルート没後にダニエル・バーナムが雇用したチャールズ・B・アトウッドの設計で4〜12階が増築された。鉄骨造が可能にした、大きな窓が特徴だ。壁面から台形に張り出した出窓で、両サイドを開閉して通風する。「風の強いシカゴならではのデザインで、“シカゴ・ウィンドウ”と呼ばれています」。
古典主義のシカゴ博覧会が出会わせた、ライトと日本
シカゴの建築史を語る上で、重要なターニングポイントが1893年のシカゴ・コロンブス万国博覧会だ。コロンブスによるアメリカ大陸発見400年を記念して開催された。このとき、シカゴ郊外に設けられた広大な博覧会場の統括を任されたのが、前出のダニエル・バーナムだ。
バーナムはパリのエコール・ド・ボザールで学んだ建築家で、博覧会場を古典的な様式建築で埋め尽くした。「その後の近代建築史の叙述の中でバーナムは、せっかくアメリカが切り拓いた独立独歩の建築を、過去の踏襲に引き戻したとして、批判的にも語られました。しかし、都市美を重視したバーナムもまた、現実を変革するだけのエネルギーを持った、新世界の理想主義者です。シカゴを始め、アメリカの都市に影響を与えた業績に、近年、新たな光が当てられています」
博覧会以後、シカゴの超高層ビルはゴシック風のデザインをまとうようになった。その一例が、ホラバード&ローシェによる「マーケット・ビル」(1895年)だ。古典的な三層構成で、基壇部はレリーフで飾られている。「近代建築の信奉者からは批判されたかもしれませんが、こうした建築物が現在のシカゴの美観をつくり、歴史の厚みを加えています」
シカゴ博覧会では日本の出展も評判を呼んだ。文部省技師の久留正道が設計した日本館「鳳凰殿」は、当時シカゴにいたフランク・ロイド・ライトを日本文化に惹きつけるきっかけともなった。この建物は火事で焼失したが、のちに欄間が発見され、シカゴ美術館に収蔵されている。
ナチスの弾圧を逃れたミースを招き寄せたシカゴ
シカゴの博覧会から45年を経た1938年、ナチスの弾圧を逃れてシカゴにやってきたのが、ミース・ファン・デル・ローエだ。
ミースは1886年にドイツのアーヘンで生まれた。フランク・ロイド・ライトより20歳ほど年下だ。ドイツ時代の代表作に、1929年のバルセロナ万国博覧会におけるドイツ館「バルセロナ・パビリオン」があり、1930年からは、史上名高い美術工芸学校「バウハウス」の3代目校長を務めた。しかし、「バウハウス」はナチスによって1933年に閉鎖されてしまう。このとき、ミースを招聘したのが、シカゴのアーマー大学(のちのイリノイ工科大学)だった。
「ミースは、現代のオフィスビルに連なる、超高層ビルの典型を確立した建築家です。『レイクショア・ドライブ・アパートメント』(1951年)はその一例。しかもこれ、名前の通り住宅です。アパートでも学校でも、年齢を重ねても、作風が変わらないのがミースという人。ひとつのスタイルに生涯、情熱を注ぎ続けたともいえます」
ミースの作風の特徴は「均一で平滑、しかも高精度」と倉方さんは言う。「そしてそれは、当時、アメリカの技術力と経済力によってこそ実現可能でした。同時期の日本では、到底こんな精度は出せなかった。日本の設計者たちは悔しかったことでしょう。大きな鉄鋼やガラス、パワフルな空調などがあってのミニマリズムでした」
1974年に最終的な完成を見た「シカゴ連邦センター」は、ミースが代表する「インターナショナル・スタイル」の金字塔だ。「鉄とガラスの圧倒的な物量は、アメリカ資本そのものの表現といえます。力と権威の象徴。隣には郵便局もあって、これも20世紀ならではの用途ですね。寒冷なシカゴにガラス張りの大空間。そこには、エネルギーを湯水のように使うことを富と見る、当時の時代性を感じます」
クラウン・ホールはじめミースの作品群が残るイリノイ工科大学
ミースはイリノイ工科大学で建築学部長を務めただけでなく、キャンパスのマスタープランをつくり、約50棟もの建物をすべて設計した。
中でも傑作として知られるのが、建築学部棟「クラウン・ホール」(1956年)だ。「この建物は柱と梁で屋根を吊る構造で、内部には柱が一本もありません。外周はガラス張りで、視線が建物を通り抜ける。そこにあるのはただの空間、純粋な空間そのもの。その徹底ぶりは、崇高なまでの美しさでした」。
ミースはこのオープンな空間を、どんな用途にも使える“ユニヴァーサル・スペース”と呼んだ。「人間の自由な行動を受け入れる空間。建築家が何かを押し付けることなく、使う人の自由に任せる。そこには、人間への信頼があります」。
実際、学生たちは思い思いの場所に陣取って、エスキースをしたりディスカッションしたりしていたそうだ。「ごちゃごちゃしているのに、なぜか見苦しくなく、心地よい。よく見ると、外周のガラス壁には貼り紙一つないんですね。純粋な空間が乱雑さを許容する一方で、人は無意識のうちに建築美を侵すまいとする。これこそが“生きた建築”だと感じ入りました」。
ライト、ミース、そしてミースの教え子たちがつくった景観
ミースの遺伝子は、その後のシカゴの建築にも受け継がれている。有名な「マリーナ・シティ」(1967年)も、イリノイ州庁舎「ジェームス・R・トンプソン・センター」(1985年)もミースの教え子たちの作品だ。前者の設計者バートランド・ゴルドベルクはバウハウス時代のミースに学び、後者のヘルムート・ヤーンはイリノイ工科大学でミースに師事した。
「シカゴはライトの街であり、ミースの街でもあります。しかし、考えてみると、共同体志向のライトは、あまりシカゴ的ではないでしょう。ミースの求道者的な体質は、シカゴが体現したアメリカの資本主義と直接には結びつきません。街の外から来た人々が、街の景観を形成する。そこに建築というものの複雑さがあり、CACのような組織がそうした面白さを一般に開きつつあります。そんな現在進行形の街がシカゴです。われわれにとっても大いに参考になる、建築都市です」。
取材協力:Club Tap
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