北八王子にある、UR都市機構『集合住宅歴史館』

日本の集合住宅のはじまりは、1916年(大正5年)に建設された端島(通称:軍艦島)30号館だという。日本初の鉄筋コンクリート造の旧鉱員社宅、4階建ての建物だった(その後7階建てに増築)。その建物は廃墟になりつつも今も軍艦島に残り、通称グラバーハウスと呼ばれている。
日本の集合住宅の最初は、いわゆる社宅の供給であり、公的なものではなかったのだ。

公的な集合住宅は、1923年(大正12年)に発生した関東大震災の復興義捐金をもとに翌年5月に公的な住宅供給団体がつくられたことで始まる。震災に強い鉄筋コンクリート造の本格的な集合住宅を東京と横浜の16ヵ所、約2500戸を建設し供給した。財団法人 同潤会の同潤会アパートである。その後、年を重ねるごとに、老朽化や耐震性などの課題が顕在化し、歴史的な建築物として保存活動も何度も起こったが、最後に残った上野下アパートメントが2013年取り壊され、現在では全ての同潤会アパートが姿を消している。同潤会青山アパートメントを再開発した「表参道ヒルズ」の一部にその在りし日の姿が見てとれる。

同潤会アパートだけではない、大正~昭和初期を経て高度成長期のこうした集合住宅は、いずれも老朽化のため姿を消しつつある。外観のみならず、これらの集合住宅の内部については、当時の写真で面影を知るばかりだ。

これらの集合住宅の貴重な内部を移築した施設があるのをご存じだろうか?北八王子にあるUR都市機構の『集合住宅歴史館』である。『集合住宅歴史館』を訪ねて、当時の内部の様子や外観が残る展示を見てきた。

北八王子のUR都市機構『集合住宅歴史館』北八王子のUR都市機構『集合住宅歴史館』

関東大震災の復興を目的として設立された同潤会~同潤会代官山アパート

先に記したように戦前の集合住宅は、大正12年の関東大震災の住宅復興を目的に設立された財団法人同潤会によって建てられた。当初は木造住宅の建築に着手したが、大正15年からは耐震耐火の鉄筋コンクリート造の建物にガスや水道、水洗トイレを備えた賃貸住宅として新しい生活様式を提示した。

代官山アパートは、当時総戸数337戸あった同潤会アパートメント最大規模の郊外団地であった。共用施設には食堂や銭湯などがあったようだ。『集合住宅歴史館』には昭和2年に入居が始まった代官山アパートの世帯住戸と独身住戸が復元展示されている。

展示されている世帯住戸は2DKタイプで、土間形式の台所の横の部屋は茶の間として、もうひとつの部屋は主室として設計されている。台所には流し台・コンロ台と調理台に米櫃と炭櫃が備え付けられており、ダストシュートも設けられた。トイレは和式だが水洗式である。

独身住戸はワンルームの和室型であり、台所やトイレはなく共用のものを使うようになっていたようだ。珍しいのは押し入れの2段部分を利用したような作り付けのベッドがあり、下の部分は収納となっていた。狭い部屋を有効に使うアイディアだ。部屋ごとにはガス栓が1口設けられており、お湯などを沸かすことができるという簡易な設備のみだった。

写真上)独身住戸はコンパクトなワンルーム。押し入れのような2段部分を布団を敷いてベッドとして使用した</br>写真下)世帯住戸は2DKタイプ。土間形式の台所の横の部屋は茶の間となっている写真上)独身住戸はコンパクトなワンルーム。押し入れのような2段部分を布団を敷いてベッドとして使用した
写真下)世帯住戸は2DKタイプ。土間形式の台所の横の部屋は茶の間となっている

昭和30年代の中層集合住宅~蓮根団地

財団法人同潤会のあと、日中戦争の激化により主に軍需産業に従事する工場労働者用住宅を大量に建設するため昭和16年住宅営団が設立された。1946年12月にGHQによって解散されたが、技術的な考え方等は戦後設立された日本住宅公団に大きな影響を与えていたようだ。

第二次大戦後、復興に向かう日本の住宅不足は公称420万戸ともいわれる。昭和30年(1955年)に勤労者向けの住宅を供給するために日本住宅公団が発足した。「公営、公団、公庫」という住宅政策の3本柱の確立で、日本の住宅建築と供給は大きく前進する。

昭和30年代の1957年(昭和32年)に建設した蓮根団地の2DK住戸が展示されている。和室2間ではあるものの、独立した浴室とトイレ、バルコニーを設置しており、食事室を伴う台所がつくられた。これまでの土間ではなく、ダイニングテーブルを備え付けたこのスタイルは「2DKタイプ」となり、その後戦後の住まいスタイルに食寝分離と椅子の生活という大きな変革をもたらす。当時、ダイニングテーブルは家具屋でもそうそう取り扱いが多くなかったため、団地のオリジナルで作り付けられ、引越し等の際に持ち出されないように固定されていた。

郊外に次々と建築されたこのタイプの団地は公団住宅の代名詞にもなり、テーブルと椅子の洋風の生活スタイルと冷蔵庫をはじめとする電化製品を使った核家族の暮らしぶりは「団地族」という言葉を生み出した。当時は、戦後の復興と経済成長の象徴として、人々の憧れの生活となっていったようだ。

写真左上)蓮根団地の外観 写真右上)当時珍しかったダイニングテーブルが備え付けられた</br>写真左下)DKタイプが取り入れられたことにより食寝分離の生活に 写真右下)独立した浴室。まだ木桶タイプの浴槽写真左上)蓮根団地の外観 写真右上)当時珍しかったダイニングテーブルが備え付けられた
写真左下)DKタイプが取り入れられたことにより食寝分離の生活に 写真右下)独立した浴室。まだ木桶タイプの浴槽

昭和30年代の低層集合住宅(テラスハウス)~多摩平団地

当時、戸建てや長屋が主流だったこともあり、専用庭をもつ2・3階建てのテラスハウスも建てられた。日本住宅公団の発足(1955年)当初から10年間で、公団が供給した戸数の約2割にあたる約2万戸が建てられたという。主に郊外で建設されたようだが、集合住宅歴史館には1958年に入居が始まった多摩平団地のテラスハウスの一部が移築・復元されており、見学することができる。

多摩平団地は6戸で1棟の連続建てであり、その1住戸が移築されている。住宅の間口は4mとわずか。1階は四畳半の和室と台所・浴室・トイレ、2階は和室の6畳と3畳がある3Kタイプだ。台所は当時珍しかったステンレストップの流し台が取り付けられていた。2階につづく階段は狭く急ではあるが2階の2間下の小窓から明かりがとられ、さほど暗さは感じなかった。奥行9mの専用庭は、洗濯物を干したり居住者が樹木や花を植えたりしたそうで、今では豊かに感じる。

多摩平団地のような低層階の集合住宅は構造上簡易に建築が可能だったため、RC造やラーメン構造、他にもブロック造や鉄筋造が造られた。多摩平団地自体はブロック造の2階建てだが、プレキャストコンクリート(PC)造の先駆けとなるTilt-UP(ティルトアップ)工法なども造られ、短期間で大量の住宅供給を進める必要とコストや工期の関係から躯体工法の模索が積極的に行われたようだ。

住宅間には、砂場やブランコなどのプレイロットが設けられ、団地内を経て公園や学校につながる導線構成が設計され、子育てや生活環境に配慮された。ちなみに当時の家賃は約6,000円、大卒の初任給平均が10,200円だった時代だ。

写真左)テラスハウスの庭からの外観 写真右)2階につづく階段。部屋や2階の小窓から光が差し込み明るさもある写真左)テラスハウスの庭からの外観 写真右)2階につづく階段。部屋や2階の小窓から光が差し込み明るさもある

高層化時代の先駆け~前川國男設計の晴海高層アパート

住宅公団は、中低層の集合住宅の供給を行いつつ、都市部において高層住宅の建設にも着手した。1958年には東京都中央区に晴海高層アパートを、大阪市西区に西長堀アパートを建設している。

集合住宅歴史館では晴海高層アパートの共用廊下、バルコニーを含む非廊下階と廊下階の住戸内部と2階住戸専用の円形階段が見られる。総戸数168戸、鉄筋コンクリート造10階建てのこのアパートは、日本の近代建築を代表する前川國男の設計だ。

晴海高層アパートに課せられた課題は、中層住宅と同じコストで高層住宅を実現させる…というものだった。コストの高い鉄骨の使用を減らすためと将来の規模拡大の許容を視野に大架構を採用。非廊下住戸と廊下住戸が交互に積み重なった階建てとなっており、エレベーターの停止階を減らしコスト削減も行われた。現代のスケルトン・インフィル住宅の考え方に近い間仕切りや内装は改装に対応できるよう部材化された木造作で構成されている。

エレベーターが停止する廊下階の共用廊下は現在の集合住宅より幅広く、手すりなどの安全対策や共用で設けられた電話設備や外流し、郵便受けなどが設けられたようだ。前川國男が住宅内のコミュニティにも配慮し、ここで住民同士がコミュニケーションをとれるようにと考えたようだ。内部はステンレスのプレス加工の流しや洋式トイレなど内外装材の製品化が試みとして行われ、戦後の工業化の先駆けとなった。内部の畳も従来の寸法にとらわれないもので、今見てもモダンな感じを与える住戸であった。

集合住宅歴史館では、その他日本の住居環境の基準ともなった住宅部品や設備の変遷モデルも見ることができる。見学すると戦後の高度経済成長に大きく寄与した住宅の変遷を見て、改めて現在の住環境を振り返ることとなる。あの当時、最先端の取り組みが行われ、海外に学び、日本の住まいを問い直し、日本の成長を支えてきた気概が、今の住宅建築や設計にも流れていると信じたい。

貴重な集合住宅の内部を見学できる「集合住宅歴史館」は、事前予約制のため電話かeメールで予約が必要。これだけ多く供給されたということは「団地で育った」「両親が団地住まいだった」という人も多いと思う。ぜひ、足を運んで日本の集合住宅の変遷と技術への努力を見てもらいたい。

■取材協力
独立行政法人 都市再生機構 技術・コスト管理部 集合住宅歴史館
URL:https://www.ur-net.go.jp/rd/

写真左上)従来の寸法にとらわれない畳の和室</br>写真右上)ダイニングテーブルのフローリング部分と和室は仕切りを開け放つと広々とした空間となる</br>写真左下)エレベーター停止階の廊下 写真右下)晴海高層アパートの外観模型写真左上)従来の寸法にとらわれない畳の和室
写真右上)ダイニングテーブルのフローリング部分と和室は仕切りを開け放つと広々とした空間となる
写真左下)エレベーター停止階の廊下 写真右下)晴海高層アパートの外観模型

2018年 10月07日 11時00分