イタリアの心豊かな生活にヒントを得て

『キッカ経堂』の玄関。自転車置き場などが外から見えないようになっている『キッカ経堂』の玄関。自転車置き場などが外から見えないようになっている

小田急線千歳船橋駅から数分のところに、プチホテルのような洒落た外観のマンションがある。これが、『キッカ経堂』。2009年に竣工した南欧風の建物だ。
玄関から一歩足を踏み入れると、10mの吹き抜け空間が広がる。イタリア映画に出てくる田園地方の館のような佇まいだ。広い空間には水音が響き、植栽のオリーブやミカンがほのかに香る。階段の窓からは太陽光が射し込み、面格子の影が美しい曲線を描く。そこには、外の喧騒を忘れさせてくれるような、豊かな空間が広がっていた。

だが、単に「見た目がイタリア風」というだけなら、本欄でわざわざ採り上げるまでもない。このマンションの最大の特長は、“イタリアの持つ豊かさ”のエッセンスを採り入れた点にある。オーナーの株式会社アンディート代表・安藤勝信氏はこう語る。
「『キッカ』での暮らしは旅に似ているかもしれません。イタリアのトスカーナ地方ではアグリツーリスモ(※)が盛んで、農家をホテルに改装して旅行者を受け入れています。旅行者は、思い思いの時を過ごしながら、宿のオーナーや他の客と語り合い、ワインや趣味を楽しんだりしながら過ごすわけです。不便なことも多いのですが、人々は豊かな時間を楽しんでいる。そんなイタリアの持つ豊かさを日本の暮らしにも採り入れたいと考えて作ったのが、『キッカ経堂』です」

※アグリツーリスモ:都市に住む人が、農村で余暇を過ごす旅のスタイル。

コンセプトは、「女性が元気になるマンション」

南欧のプチホテルのようなエントランスホール南欧のプチホテルのようなエントランスホール

『キッカ経堂』のプロジェクトがスタートしたのは2009年。初めてゼロベースからマンション作りをすることになり、安藤氏は「女性に下駄を預けよう」と決めた。

「なぜかというと、男性視点での家作りに限界を感じていたからです。住まいを選ぶとき、男性は理屈の合計値で選ぶのに対して、女性は”好きか嫌いか”という感性で選ぶ。男女2人で物件を探していても、女性が『いやだ』といえば契約は成立しません。それに、女性にとって居心地のよい家は、男性にとってもよい居場所になる。住まいに関しては、やはり女性の感性を大切にするべきだろうと考えたのです」

安藤氏は、女性スタッフだけの建築事務所にマンションの設計を依頼。女性が賃貸住宅を選ぶ際に重視するポイントを探ろうと、一般女性20人を集めて座談会が開かれた。
ヒアリングを通じてわかってきたのは、「女性は五感を大切にする」ということ。その結果をふまえて、「女性が元気になるマンション」というコンセプトが決まり、マンションの名称も、女性の愛称として使われるイタリアの方言「キッカChicca」からとった。
こうして、2011年1月、『キッカ経堂』は晴れて竣工の日を迎えた。

部屋は60.8m2のメゾネットと、30~35m2のワンルームの2タイプ。家賃はメゾネット20万円前後、ワンルーム10万円~12万円台と、相場賃料より2割ほど割高だ。
にもかかわらず、工事段階から次々に申し込みが入り、築後3年を経た今もすぐに空室が埋まってしまう人気ぶりだ。現在の入居者は、20代後半~40代の女性が中心。なかには、小田原に転勤が決まっても、ここでの暮らしをあきらめきれず、車を購入して長距離通勤をしている人もいるという。

緑あふれるルーフガーデンが、住人同士の交流の場に

ルーフガーデン。ハーブなどが植えられた、太陽と緑があふれる快適な空間。夏はここから東京湾大華火も見えるルーフガーデン。ハーブなどが植えられた、太陽と緑があふれる快適な空間。夏はここから東京湾大華火も見える

『キッカ経堂』の魅力の1つは、いうまでもなく、女性の五感を満足させる上質な空間デザインにある。
だが、このマンションが住人の心を捉えて離さない理由は、それだけではない。安藤氏が目指した「イタリア流のライフスタイル」こそが、住人の心をわしづかみにしているのだ。

その象徴ともいえるのが、木製のテーブルと椅子が置かれた3階のルーフガーデン(屋上庭園)だ。
ここでは秋から初夏にかけて、月1回“ルーフガーデン・カフェ”が開かれ、入居者が気の向くままに集まってくる。また、週末には住人がワインや料理を持ち寄り、食事を共にすることもしばしばだ。屋上庭園に植えてあるハーブで料理を楽しんだり、山桃の実からジャムを作ったりと、住人は思い思いにこの空間を楽しんでいる。
住人同士を結ぶゆるやかなつながりと、ほどよい距離感――都内の賃貸マンションでは考えられない豊かな暮らしが、ここでは当たり前のように営まれているのだ。

もちろん、「ルーフガーデンありき」で、住人同士の交流が生まれたわけではない。どんなに素晴らしい共用施設を用意しても、「形」だけでは宝の持ち腐れとなる。
『キッカ経堂』では、安藤氏が主催する食事会などのイベントを通じて、住人同士が親睦を深めていった。オーナー自身もまた住人の1人として根を下ろし、理想の暮らしを実現するための工夫を惜しまなかったこと。それが、このマンションに独自の住文化が花開いた最大の理由だといえる。

もう一度関係をつなぎ直して、自然な暮らしを作りたい

マンションの住人夫婦と歓談するオーナーの安藤勝信氏(右)マンションの住人夫婦と歓談するオーナーの安藤勝信氏(右)

昨今のシェアハウス人気にも見る通り、都会で孤立して生きるより、他人と共生したいと望む人は増えている。しかし、「つながらなくては」という切羽詰った思いでこのマンションを作ったわけではない、と安藤氏は語る。

「僕らは、“普通の暮らし”がしたいだけなんです。ご近所とは知り合いになっておいたほうがいいし、たまには1人でご飯を食べるより、皆で食べたほうが楽しい。それは、イタリアでは普通に行われていることなんですね。僕は世田谷区で生まれ育ったのですが、人口が増えるにつれて近所づきあいも減り、いつの間にか、家は仕事から帰って寝るだけの場所になってしまった。だから、切れてしまった都会の関係を、もう一度新しい関係につなぎ直したかったんです」

都会のマンションと海辺のシェアハウス。2拠点暮らしを計画中

現在、安藤氏は、世田谷区の空き家の地域貢献活用のモデル事業に応募し、中古住宅の再生・利用計画を進めている。
「たとえば、木造アパートの1階全部をぶち抜いて、半分をカフェにして地域の寄合所にし、もう半分をデイサービスとして活用する。世田谷区の空き家を改修して、地域の共生の場にしていきたいと考えています」

安藤氏が温めているもう1つのプランは、「賃貸の2拠点暮らし」だ。
「房総半島の古民家をシェアハウスにリフォームし、僕らの会社が所有する物件の入居者に自由に使ってもらうことを考えています。平日は都会の家で暮らし、週末は海辺のシェアハウスで過ごす――そんな“2拠点暮らし”を実現しようと、物件探しを始めたところです」

国内の人口減少が進み、経済効率優先の不動産賃貸ビジネスは袋小路に突き当たっている。現代における「豊かな暮らし」とは何か――その再定義が、今、求められているような気がしてならない。
次回は、『キッカ経堂』に住む入居者にインタビューし、その生の声をお届けする。

2014年 02月17日 09時59分