「大坂」が「大阪」に改められた訳と最も古い「大坂」の地名の記録

歴史に関する文章を読んでいるときなど「大坂城」という表記を目にすることがあるだろう。

秀吉が城を作った当時、大坂城のあたりは「難波」と呼ばれており、「大坂」の呼称はあまり知られていなかった。しかし秀吉は「難波城」ではなく「大坂城」あるいは「金(錦)城」と呼んだのだ。

秀吉が大坂城を建てた場所にはかつて石山本願寺があり、浄土真宗の総本山だった。浄土真宗は一向宗とも呼ばれ、「南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生できる」とする教えは民衆に広く信仰された。苦しい暮らしを強いられ、死ねば極楽往生できると信じる信徒は死を恐れず戦ったので、怖い物知らずの武将達も一向一揆には手を焼いている。そんな一向宗を束ねていたのが、蓮如上人だ。上人は全国の門徒に「御文」を発信したが、明応五(1496)年の御文の中で「摂州東成郡生玉乃庄内大坂トイフ所在ハ、往古ヨリイカナル約束ノアリイケルニヤ」と書いている。これが現在見つかっている最も古い「大坂」という地名の記録だ。

秀吉の時代、このあたりは「難波」と呼ばれていたが秀吉は城を「大坂城」と呼んだ秀吉の時代、このあたりは「難波」と呼ばれていたが秀吉は城を「大坂城」と呼んだ

石山本願寺攻めに苦労した秀吉にとって、「大坂」に自らの城を築くことには大きな意味があったのかもしれない。
そして明治7年、「坂」は「土に反る」の意味にとれるため縁起が悪いとして「阪」に統一された。
しかし「阪」と「坂」が混在する時代もあり、「大阪」表記が生まれた時代ははっきりしていない。またその理由も、本当に「坂は縁起が悪いから」といった理由なのか、どうかは定かではないようだ。

大阪の地名と万葉仮名の関係

地名の話には、万葉仮名が関係する部分がある。かつて中国の漢字を輸入したばかりの日本では「万葉仮名」を用いていた。漢字を表音文字として扱うもので、たとえば「あ」の音を表現するのに「阿」の文字が多用された。

そのような歴史から、日本人は漢字の本来の意味に大きなこだわりがなかったのかもしれない。日本人にとって重要なはずの神様の名前も、そのときどきで表記がさまざまに変わる。たとえば「三貴神」とされ、最も尊い神の一柱である月の神のツキヨミは、「月読」とも「月夜見」とも表記される。どちらも月に関係のある表記ではあるが、字面から感じ取る印象はまったく違う。だから、現代では意味ありげに感じる地名が実はなんてことなかったり、逆に当たり前の地名に思わぬ歴史があったりする。

長い歴史を持つ大阪は古い地名も少なくないが、田んぼを埋め立てた「梅田」や、四天王寺が建立している「天王寺」などは、なぜその地名がついたのか説明するまでもないだろう。
この記事では意外性のあるものを見繕って紹介しよう。
「樟葉」「羽曳野」「瓜破」「波牟許曽」「十三峠」「鬼住」がどのような由来を持つのか、想像してから読み進めてもらうと面白いと思う。

天王寺公園の向こうにはあべのハルカスが見える天王寺公園の向こうにはあべのハルカスが見える

大阪で記紀神話に登場する地名「樟葉(くずは)」「羽曳野(はびきの)」

京阪電鉄の樟葉駅京阪電鉄の樟葉駅

「樟葉」の由来は日本書紀や古事記に記載されている。
崇神天皇の時代、天皇の伯父にあたる埴安彦が謀反を起こした。しかし反乱は制圧され、埴安彦の兵たちは屎を漏らし、袴を汚したので、その場所を「くそばかま」と呼んだ。それが転じて「樟葉」となったというのだ。汚い話で恐縮だが、日本神話には想像以上に「くそ」の話が登場する。

『播磨国風土記』にはうんこを我慢して歩くのと重い荷物を持って歩くのではどちらが大変か、オオナムチとスクナヒコナが争ったエピソードが記録されている。敗れたオオナムチが我慢できずにうんこをした土地は埴岡。「埴」は粘土のことで、埴土のようなうんこだったのかもしれない。

古市古墳群があることで知られる羽曳野は「はびきの」と読む。
日本神話きっての英雄とされるヤマトタケルは三重県の能褒野で命を落とすが、その魂は白鳥となって故郷を目指す。その白鳥が飛び降りたとされるのが、羽曳野市軽里にある白鳥陵だ。白鳥はここからさらに羽根を曳いて天へと飛び立ったので「羽曳野」の地名がついたという。

ちなみに「三重」はヤマトタケルが「吾が足は三重の勾の如くしていと疲れたり」と嘆いたのが由来とされる。関東を「あずま」と呼ぶのも彼が自分のために死んだ妻を思い「吾妻(あづま)はや」と足柄峠で嘆いたから。
さらに故郷を思って「大和は国のまほろば」と歌ったこともよく知られており、関西には「まほろば」の名を冠する施設を散見する。ヤマトタケルほど、土地の名にその痕跡を残す人物も珍しいかもしれない。

京阪電鉄の樟葉駅羽曳野市には古墳が多い

古い信仰を残す地名「瓜破(うりわり)」「波牟許曽(はむこそ)」

平野区にある「瓜破」は、古い信仰に関係がある。福井県にある「瓜破の滝」は、一年を通して水が冷たく、浸けておいた瓜が勝手に割れてしまうほどだからだそうだが、大阪の平野部にはそこまで冷たい水流はない。
享和元(1801)年に発行された『河内名所図会』などでは、中高野街道を弘法大師(774~835)が通ったとき、村人が瓜を割って差し上げた故事に由来するとしているが、天文元(1736)年に記された『船戸録』では、道昭上人(629~700)が三密の行を修めていたとき、光り輝く天神が現れたので、瓜を割って供えたのが由来としている。
弘法大師は我が国における真言宗の祖、道昭上人は玄奘三蔵に師事した法相宗の祖だから、どちらにしても高僧と深い関わりがあるといえるだろう。

残念ながら現在は消えてしまった地名だが、東大阪市の波牟許曽(はむこそ)神社には古い信仰の名残がある。明治22年まで、この近辺は河内国渋川郡北蛇草(はむこそ)村と呼ばれていたのだが、字を見ればわかるように、「はむ」は蛇のことだ。
「食む」は口にものを入れて食べる仕草だから、蛇が獲物を咥えて飲み込む姿をして、「はむ」と呼んだのかもしれない。「こそ」は社を意味するから、「蛇草」は後の当て字だろう。つまりこの地は、蛇神を祀っていた人々が住んでいたと考えられる。蛇は怖い印象もあるが、脱皮して再生するイメージもあり、水に棲む主や、田の守り神として信仰されてきたのだ。

本来の意味が知られていない地名「十三峠(じゅうさんとうげ)」「鬼住(おにすみ)」

大阪の八尾から奈良の竜田へ抜ける街道がある生駒山地を越える地を「十三峠」という。
十三の塚が残っており、それが峠名の由来とされているが、その昔は「じゅうさん」ではなく「とみ」と呼ばれており、塚が建てられたのは後のことらしい。
「とみ」は飛火で狼煙のこと。つまり、外敵の接近を知らせる見張り台がこの峠にあったのが本当の地名の由来なのだそうだ。このような字の変化は全国的にあるようで、たとえば奈良に「十六面(じゅうろくせん)」という地名もあるが、1959年に大和史跡研究会が発行した『大和の伝説』には、本来「富本」という地名だったが、それを隠すために「とむおもて」と読める「十六面」に置き換えたと書かれている。しかし、なぜ隠さねばならなかったのかはわからない。狼煙を意味する「とみ」が「十三」に置き換えられたのも、何か理由があるのか勘違いなのか調べようがないのだ。
ちなみに、淀川区の「十三(じゅうそう)」は、淀川筋の渡し場のうち、摂津では上流から十三番目にあたる地域だったからという説が有力だ。

十三峠からみる大阪の平野十三峠からみる大阪の平野

河内長野市の「鬼住」は、本来の漢字のなんでもない地名が、音読によって謎めかされてしまった例だ。
大正11(1922)年に刊行された『大阪府全志』には、「往古鬼ありて此の地に住みけるを、里人九人集りて退治せしかば、其れより歳々駆鬼の式を行い来りしも今は其の式絶えたり」とあり、いかにも怖ろしい土地のようだが、「おにすみ」の初見は嘉元4(1306)年の『僧慶順田地売券』で、「錦部郡観心寺御庄領小西見郷」とある。
そして「小西見(おにしみ)」は、西に小河川が流れ、視界が開けていたことからつけられた地名だというから、タネを明かせばなんてことないのだ。この地にある延命寺で鬼追い式(駆鬼の式)を毎年の行事としていたため、いつからか「小西見(おにしみ)」が「鬼住(おにすみ)」となり、鬼の伝説が生まれたらしい。

さて、みなさんの予想は当たっていただろうか?


■参考
KKベストセラーズ『大阪 地名の由来を歩く』若一光司著 2008年9月発行
東京堂出版『大阪の地名由来辞典』堀田暁生編  2010年8月発行

公開日:

ホームズ君

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