全国的にも珍しい「独立採算制」で成り立っている下呂市の文化施設

▲岐阜県下呂市にある『下呂温泉 合掌村』。JR高山本線下呂駅からバスで約6分、マイカーの場合は中央自動車道中津川I.C.から約1時間で到着する。下呂温泉は有馬・草津に並ぶ「日本三名泉」のひとつとして知られ、中心街の飛騨川周辺には30棟を超える温泉旅館や民宿が立ち並んでいる▲岐阜県下呂市にある『下呂温泉 合掌村』。JR高山本線下呂駅からバスで約6分、マイカーの場合は中央自動車道中津川I.C.から約1時間で到着する。下呂温泉は有馬・草津に並ぶ「日本三名泉」のひとつとして知られ、中心街の飛騨川周辺には30棟を超える温泉旅館や民宿が立ち並んでいる

日本古来の建築様式のひとつである『合掌造り』──1995(平成7)年に白川郷と五箇山の合掌造り集落群がユネスコの世界(文化)遺産に登録されたことで、その名称や建物形状が広く認知されるようになったが、「建物内部の構造や機能性」についてはご存知ない方も多いのではないだろうか?

実は、白川郷や五箇山の集落にある合掌造りの建物の多くは今現在も一般の民家として使われているため、建物内を隅々まで見学することは難しい(※一部内部見学できるツアーあり)。しかし、今回筆者が訪れた岐阜県下呂市の『下呂温泉 合掌村(がっしょうむら)』では、白川郷や五箇山から移築された合掌造りの建物が“展示“されており、雪深い地方ならではの建物設計の工夫や各部屋の機能をリアルに体感できる。

この『合掌村』は、民間ではなく下呂市が運営を行っているが、独立採算制で成り立っている全国的にも珍しい文化施設だという。下呂市観光商工部の中迫祐貴さんにお話を聞いた。

▲岐阜県下呂市にある『下呂温泉 合掌村』。JR高山本線下呂駅からバスで約6分、マイカーの場合は中央自動車道中津川I.C.から約1時間で到着する。下呂温泉は有馬・草津に並ぶ「日本三名泉」のひとつとして知られ、中心街の飛騨川周辺には30棟を超える温泉旅館や民宿が立ち並んでいる▲合掌村を案内して下さった下呂市観光商工部の中迫祐貴さん。「合掌村は全国でも珍しい独立採算制の博物館で、多くのスタッフは下呂市の職員です。スタッフの経費も賄いながら維持・管理・運営を行っています。下呂はもともと団体客よりも少人数で移動する個人旅行者が多かったせいか、幸いなことにコロナ禍でも他地域と比べて旅行客の下がり幅が小さく、多くの皆様にお越し頂いております」
▲岐阜県下呂市にある『下呂温泉 合掌村』。JR高山本線下呂駅からバスで約6分、マイカーの場合は中央自動車道中津川I.C.から約1時間で到着する。下呂温泉は有馬・草津に並ぶ「日本三名泉」のひとつとして知られ、中心街の飛騨川周辺には30棟を超える温泉旅館や民宿が立ち並んでいる▲村内では白川郷や五箇山から移築された複数の民家で合掌造りの集落を再現。国の重要文化財や登録有形文化財の建物の中で、飛騨地方の暮らしを体験できる

ダム建設をきっかけに、歴史ある合掌造りの建物を移築

「合掌造りというと、多くの方が白川郷を連想されると思います。合掌村に展示してあるのは岐阜の白川郷から富山の五箇山にかけて見られるものです。昭和20年代、白川村で電源開発のためダム建設計画が持ち上がり、建設地内にあった国重要文化財の『旧大戸家住宅』がダム湖に沈んでしまうことになりました。そこで歴史ある合掌造りの建物を移築し保存するために昭和38年に開設されたのが『飛騨郷土館』、現在の下呂温泉合掌村の前身です」(以下、「」内は中迫さん談)

合掌造りの建物は現地で丁寧に解体されたあと、下呂へ運び再建された。正確な築年数が不明の建物も多かったそうだが、多くが18世紀のもので築200年を超えるという。

「もともとの所有者の方のメンテナンスが良好だったからだと思いますが、よくぞ200年の時を経ても堅牢に存在しているものだと感心します。移築にあたり、当施設で最大の合掌造り家屋『旧大戸家住宅(天保4年~弘化3年築)』は、既に国の重要文化財の指定を受けていたことから、移築の許可を得て、当時の文化財保護委員会の技術指導を受けながらの工事になったようです。その後、五箇山などからも合掌造りの建物を移築し、昭和44年に『下呂温泉 合掌村』と名称を改めました」

▲国の重要文化財『旧大戸家住宅』には、天保4(1833)年から弘化3(1846)年まで約13年をかけて建造されたという棟札が残されている。大戸家は平家の落ち武者(平経盛)がルーツとされていて、衆議院議員・平沢勝栄氏の生家でもある▲国の重要文化財『旧大戸家住宅』には、天保4(1833)年から弘化3(1846)年まで約13年をかけて建造されたという棟札が残されている。大戸家は平家の落ち武者(平経盛)がルーツとされていて、衆議院議員・平沢勝栄氏の生家でもある
▲国の重要文化財『旧大戸家住宅』には、天保4(1833)年から弘化3(1846)年まで約13年をかけて建造されたという棟札が残されている。大戸家は平家の落ち武者(平経盛)がルーツとされていて、衆議院議員・平沢勝栄氏の生家でもある▲「合掌造りといっても地域によって入り口の場所が異なっていて、建物の端から入る『妻入り』は五箇山特有、建物の正面から入る『平入り』は白川・荘川特有の形状です。茅葺屋根は定期的に葺き替えていますが、現在は茅が取れず職人さんの数も少なくなっているので莫大な予算がかかります。こうした補修費もすべて入場料で賄っています」。平入りの『旧大戸家住宅』は間口24.96m、奥行き12.27m、高さ13m、一重4階建ての251m2、今でいうところの9LDKという特大サイズの邸宅だ
▲国の重要文化財『旧大戸家住宅』には、天保4(1833)年から弘化3(1846)年まで約13年をかけて建造されたという棟札が残されている。大戸家は平家の落ち武者(平経盛)がルーツとされていて、衆議院議員・平沢勝栄氏の生家でもある▲「耕運機がなかった当時は、牛や馬たちが貴重な畑仕事の動力でした。雪深い地方のため、家の外に家畜用の小屋を建てると積もった雪の中を行き来するのが大変です。そこで、家畜たちも家族同然に一つ屋根の下で暮らしていました」
▲国の重要文化財『旧大戸家住宅』には、天保4(1833)年から弘化3(1846)年まで約13年をかけて建造されたという棟札が残されている。大戸家は平家の落ち武者(平経盛)がルーツとされていて、衆議院議員・平沢勝栄氏の生家でもある▲「玄関の土間に設置されている丸い石は、天気予報に使われていました。この石に触って湿っていると明日雨が降る、乾いているとしばらく晴れが続く…などと予測していたようです。畑仕事を行う上で日々の天気の変化は一大事だったのです」

屋根の角度は60度×60度×60度、建物が生きているから釘は打てない

▲合掌家屋の屋根裏部分(旧岩崎家住宅)。正三角形の安定感のある屋根形状になっている。屋根裏は農機具などを収める物置きとして使われていた
▲合掌家屋の屋根裏部分(旧岩崎家住宅)。正三角形の安定感のある屋根形状になっている。屋根裏は農機具などを収める物置きとして使われていた

合掌造りの建物といえば急勾配の大きな屋根が特徴だが、実はあの屋根には釘が一切使われておらず、太い丸太のみで支えられている。いわゆる『叉首(さす)』と呼ばれる構造だ。

「昔は家族の人数が多かったので、まず底面の広さを決めて、次に部屋がいくつ欲しいかを決めて、上に階層を重ねていきました。そのため外からはわかりにくいのですが『旧大戸家住宅』の中は4階建ての構造になっています」

屋根は60度×60度×60度という角度が決まっており、正三角形の形状で安定させながら巨大な屋根を支えている。例えるなら、マッチ箱の上に三角屋根をポンと載せたようなものだが、強い風が吹いてもコマの要領でバランスを取る仕組みになっているため、台風の中でも屋根が飛ばされることはないという。

「丸太などの部材を結束する素材は『ねそ』と呼ばれるマンサクの若木を水に浸けたもので、とても強いのに伸縮性があります。釘を使わないのは、釘がなかったからではなく“建物が生きている”から。雨が降ると膨張し、寒くなると乾燥して縮む…季節と一緒に建物が呼吸をしているので釘を打つことができないのです」

▲合掌家屋の屋根裏部分(旧岩崎家住宅)。正三角形の安定感のある屋根形状になっている。屋根裏は農機具などを収める物置きとして使われていた
▲丸太を結束する『ねそ』は、山と共に生活を続けてきた飛騨地方特有の天然素材だ
▲合掌家屋の屋根裏部分(旧岩崎家住宅)。正三角形の安定感のある屋根形状になっている。屋根裏は農機具などを収める物置きとして使われていた
▲丸太の先端は写真のように尖っており、本当に「載せてある」だけ。この先端部分がコマの軸のような役目を果たし、バランスを取りながら屋根全体を支えている。これだけで昨今の巨大台風にも負けず、築200年経っても強風をしのいでいるというのだから、先人たちの知恵には感心させられる

親族一同が共同生活、先祖代々の財産を守っていくための建物

▲旧大戸家住宅の棟札には、誰がいつ頃建てて、誰が住んでいたか?が書き記されている。当時の設計図も残されており、建物の歴史が明確で保存状態も良好であったことから、国の重要文化財に指定された経緯がある▲旧大戸家住宅の棟札には、誰がいつ頃建てて、誰が住んでいたか?が書き記されている。当時の設計図も残されており、建物の歴史が明確で保存状態も良好であったことから、国の重要文化財に指定された経緯がある

取材に訪れたのは強烈な夏の日差しが照りつける猛暑日だったが、屋根裏はクーラーなしの自然風だけで十分涼しい。この涼しさは茅の効果だ。

「茅はストローのような空洞の構造になっていて、内側にたっぷりと空気を含んでいます。日差しががあたると表面は熱くなりますが、内側に空気の層があるので熱が伝わりにくいのです。逆に、冬は囲炉裏を焚くことで暖かい空気を上昇させ、茅がその空気を吸い込んで家の中全体を暖かく保ちます。茅葺屋根は天然のエアコンのような役割を果たしているんですね」

旧大戸家住宅の棟札を見ると、総勢19人の親族が暮らしており男部屋・女部屋を分けて共同生活を行っていた。そのうち3分の2が女性だったとのこと。親族同士とはいえ、人間関係など気苦労が絶えなかったに違いない。

「家庭内ではそれぞれ役割や仕事が決まっていて、まるで会社のようだったといいますから、今では考えられない生活ですよね(笑)。ただ、大家族が一つ屋根の下で暮らすのにはちゃんと理由があって“財産を分けること”を嫌ったから。親戚一同が一緒に暮らしていれば土地を分けなくてもよいですし、家長である長男とその正妻を絶対的な存在とすることで、一族の規律と繁栄が代々守られてきました。この合掌造りは“家族の財産を守っていくための建物”なのです」

▲旧大戸家住宅の棟札には、誰がいつ頃建てて、誰が住んでいたか?が書き記されている。当時の設計図も残されており、建物の歴史が明確で保存状態も良好であったことから、国の重要文化財に指定された経緯がある▲玄関から一番近い客間には、家族用とは別の巨大な囲炉裏が設置されており、家長と客人が座る場所が決められていた。邸内に3ケ所ある囲炉裏の上には「天(あま)」と呼ばれる柵(今で言うところのルーバーのようなもの)が設置されている。この天を上げ下げすると、暖かい空気を家の中に拡散できるほか、四方に煙を広げることで防虫効果もあったという
▲旧大戸家住宅の棟札には、誰がいつ頃建てて、誰が住んでいたか?が書き記されている。当時の設計図も残されており、建物の歴史が明確で保存状態も良好であったことから、国の重要文化財に指定された経緯がある▲豪農の邸宅では、当時、国の奨励もあり必ず養蚕を行っていた。家の中の大半の面積を蚕たちが占めており、夜になると桑の葉をムシャムシャと食(は)む音が家中に響き渡っていたという。当時の養蚕の様子は旧大戸家住宅の2階で再現されている

「日本人ってやっぱりすごい」という誇りを体感してほしい

▲合掌村では歴史ある合掌造りの建物を公共施設として活用。演芸ホール、お食事処、さるぼぼ作りや紙漉き体験工房として使われており、建物見学を兼ねて飛騨の文化を体験できる▲合掌村では歴史ある合掌造りの建物を公共施設として活用。演芸ホール、お食事処、さるぼぼ作りや紙漉き体験工房として使われており、建物見学を兼ねて飛騨の文化を体験できる

本来、白川郷や五箇山の合掌村集落では、なるべく屋根に太陽が当たるよう「日の入り・沈み」の方角に向いて建物が建てられているが、合掌村では来場者の動線に合わせて建物の向きが異なっている。

「改めてわかったことですが、屋根が日の入り・沈みに向いた建物のほうが茅の持ちが断然いいんです。茅葺屋根は、この時代に葺き替えようとすると片面だけで数千万円かかりますから、建物維持には莫大な予算が必要です。また、本来なら一度葺き替えれば50~60年は持つはずの屋根が、近年の温暖化や異常豪雨の影響で、すぐに弱ってしまいます。

合掌造りの建物は現代の技術ではもう建てることができません。こういう貴重な建物を実際に皆さんに観ていただくことで、当時の人たちがどのように知恵を絞って過酷な寒冷地で合理的に暮らしてきたのかを体験していただけますし、それを体験することで“日本人ってやっぱりすごい”という誇りを持つことができると思うんです。その機会をなくさないためにも、下呂市としては合掌村を守っていかなくてはいけませんから、ぜひ多くの方にご来場いただきたいですね」

▲合掌村では歴史ある合掌造りの建物を公共施設として活用。演芸ホール、お食事処、さるぼぼ作りや紙漉き体験工房として使われており、建物見学を兼ねて飛騨の文化を体験できる▲旧大戸家住宅の2階からは下呂市街を一望。「目の前が谷になっているので、春は桜、秋は紅葉のグラデーションが本当に美しいんです。若い世代のお客様からも“写真映えする絶景スポット”とご好評をいただいております」

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中迫さんによると、『下呂温泉 合掌村』の一番おすすめのシーズンは「秋」。山谷を渡る爽やかな風が心地良く、合掌造りの建物と紅葉のコントラストが絶景だという。11月下旬には下呂の紅葉がピークを迎える。ぜひ皆さんも「誇るべき日本人の生活の知恵」を体感しに秋の合掌村を訪れてみてはいかがだろうか?

■取材協力/下呂温泉 合掌村
http://www.gero-gassho.jp/

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