「上巳の節句」にまつわる平安時代の雛祭り

雛祭りは3月3日の桃の節句に行われる。
桃の節句は五節句の一つで「上巳の節句」とも呼ばれ、宮中では節会が開かれていた。本来、上巳は3月の最初の巳の日を指し、今のように3月3日にあたるとは限らないが、時代がくだるにつれて、3月3日が上巳の節句として固定されていったようだ。

雛祭りは、上巳の節句の無病息災を願う祓い(はらい)の行事と貴族の子女が人形を用いて遊んだ「雛(ひいな)遊び」が合わさった行事であるとされる。
『源氏物語』第五帖「若紫」の第二段では、父を亡くした若紫に源氏が、「美しい絵がたくさんあって、雛遊びなどができる私の家へいらっしゃい」と誘っている。雛遊びはままごとのような遊びで、紙で作った人形を用いたようだ。『枕草子』第二十七段に「過ぎにし方恋しきもの。枯れたる葵。雛遊びの調度」とあるように、雛遊び用の調度品もつくられていた。

しかし、雛遊びは年中の遊びであり、上巳の節句だけのものではない。上巳の節句に行われた風習は、穢れ(けがれ)を移した人形を川などに流す「流し雛」が最初だ。
民俗学者の折口信夫は昭和八(1933)年三月に発行された雑誌『家庭』の中で「三月の上巳の日は大潮で、この日は昔は禊(みそぎ)の日でありました」と、大潮であったがゆえに雛流しの風習が生まれたと書いている。
『源氏物語』第十二帖「須磨」の第二段にも、源氏が弥生の巳の日に「この日に禊(みそぎ)をすれば効果がある」と薦められ、船に人形(ひとがた)を乗せて流したエピソードがある。

和歌山県淡島神社の雛流し和歌山県淡島神社の雛流し
和歌山県淡島神社の雛流し下賀茂神社の流し雛

天児(あまがつ)と這子(ほうこ)が、のちの男雛と女雛になった

平安時代には、天児(あまがつ)と呼ばれる人形も作られていた。
『源氏物語』第三十四帖「若菜上」で、明石の女御の生んだ皇子のために、紫の上が天児を作っている。天児は宮中で伝えられていたもので、丁字に組んだ木や竹の上に頭をつけ、衣装を着せたものだ。幼い子どもたちの厄災を引き受けて、守ってくれると考えられた。また、這子(ほうこ)と呼ばれるぬいぐるみも、幼児のお守りに用いられている。這子は白絹で作られ、絹糸の髪が取り付けられている。

雛人形の元祖とされる立ち雛は、天児が男雛に、這子が女雛に変化したものだという。
江戸時代になると、庶民にも雛祭りの風習が浸透していく。江戸時代後期、斎藤月岑(げっしん)が祖父の代から三代にわたり著し、長谷川雪旦らが挿絵を担当した『江戸名所図会』には十軒店の雛市の風景が描かれていて、棚に並べられた雛人形は、現在とあまり姿が変わらないように見える。
添えられているのは「内裏雛 人形天皇の 御宇とかや」と、芭蕉の句で、「内裏雛が飾ってあるが、いつの時代の内裏かと聞かれたら、人形天皇の時代だと答えよう」という意味だ。絵には雪洞なども書かれており、豪華な雛飾りをしつらえる家庭もあったのだろう。雛人形を売り歩く雛売りもいて、多くの家庭で雛祭りを楽しんでいたらしい。

雛人形の元祖とされる立ち雛雛人形の元祖とされる立ち雛

天照大神の六女、淡島様。淡島信仰における雛祭りや雛流しの起源

江戸時代中期、願人(がんにん)と呼ばれる人々が、寺社縁起を説きながら食べ物や宿を乞い、各地を周った。雛流し神事で知られる淡島神社の功徳を説いてまわったのが淡島願人で、この功徳縁起は雛祭りや雛流しと関わりがある。

淡島様は天照大神の六女で、住吉明神の妻となったが、女性の病にかかったため、うつろ船に乗せられて流されてしまう。船が漂着したのは加太にある友ヶ島で、島に着いた淡島様が人形遊びをしたのが、雛祭りの起源なのだという。また、病にかかった女性が船に乗せられて流されるのは、流し雛を連想させる。

淡島神社は和歌山市に鎮座し、毎年3月3日に開催される雛流し神事では、全国から奉納された雛人形と、願い事が書かれた形代を白木の船に乗せて海へ流し、厄災を祓っている。

淡島神社の現在の祭神は少彦名(すくなひこな)命と大己貴(おおなむち)命、息長足姫(おきながたらしひめ)命だ。少彦名命は手のひらからこぼれ落ちるほど小さな神様で、「ひこな」が縮まって「ひな」になったともされる。

淡島神社の雛流し神事。全国から集まった雛人形が流される淡島神社の雛流し神事。全国から集まった雛人形が流される
淡島神社の雛流し神事。全国から集まった雛人形が流される飛騨一ノ宮の生きびな祭り

「さげもん」「生き雛祭り」「雛めぐり」、さまざまな各地の雛祭り

雛流しの行事は、鳥取市の用瀬町や五條市の南阿田で今も行われている。
用瀬町では毎年旧暦3月3日に、桟俵に乗せられた紙の雛人形に桃の小枝や菜の花を添え、千代川に流す。
南阿田では毎年4月の第一日曜日に開催される。雛人形は千代紙の着物に大豆の頭の一対の雛人形が竹皮の船に乗せられたもの。紙の一文銭が添えられているのは、旅費だろうか。源龍寺で雛供養が行われた後、吉野川に移動して雛人形を流す。このとき「罪や汚れを吉野川の流れに溶いて、清く正しく明るく健やかに育つように」と、雛が淡島神社に流れ着くように祈るのだという。

江戸時代後期の国学者・喜多村信節が著した『嬉遊笑覧』巻六には、「相模愛甲郡敦木の里にて年毎に古びなの損したるを児女共持出てさかみ河に流し捨るとあり白酒を一銚子携へて河邊に至れば他の児女もここに来り互にひなを流しやることを惜みて彼白酒をもて離杯を汲かはしてひなを俵の小口などに載て流しやり一同に哀み泣くさまをなすことなり」とある。相模愛甲郡敦木の里は現在の厚木市のあたり。文章を読む限り、禊ぎ祓いとは関係なく、壊れた古い雛人形を流す行事だったようだ。横須賀市の淡島神社では、現在も流し雛の祭礼が行われているが、厚木市の雛流しは伝わっていないようだ。

兵庫県のたつの市では、旧暦の8月1日に雛祭りが開催されている。
戦国時代の永禄九(1566)年、室山城主浦上政宗は、姫路城主黒田職隆の娘を息子清宗の妻として迎えた。しかし宴の隙をついて、龍野城主赤松政秀が急襲し、浦上親子も花嫁も討ち死にしてしまう。花嫁は黒田官兵衛の妹にあたり、このエピソードは大河ドラマでも紹介されたから、記憶にある方もおられるだろう。室津の人々は、花嫁の鎮魂のために雛祭りを延期し、8月1日に祝ったという。この風習が2003年に復活し、たつの市の公共施設や寺社、町家などでひな人形が展示されている。

福岡県柳川市では、桃の節句になると、「さげもん」が飾られる。布で作られた鶴や兎、おかめなどの縁起物と毬が交互に吊り下げられたもので、正式には7列に7個ずつ取り付けられる。山形県酒田市の「傘福」、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取地区の「雛のつるし飾り」も、さげもんとよく似た雛飾りだ。

また、飛騨一宮水無神社では、雛人形の姿に扮した行列「生き雛祭り」が開催されている。祭行列は赤鬼と青鬼が露払いをつとめ、左大臣、右大臣、内裏、后、五人官女などで構成されており、表参道から境内まで練り歩く。

さらに各地で「雛めぐり」が開催され、町家などに雛人形が展示されるから、いろいろな雛人形を見てみたい方は、近所で開催されていないか確認してみてはいかがだろう。

南阿田の「流し雛」。晴れ着姿の少女たちが、流し雛を川に流す南阿田の「流し雛」。晴れ着姿の少女たちが、流し雛を川に流す
南阿田の「流し雛」。晴れ着姿の少女たちが、流し雛を川に流す日本三大吊るし飾りの柳川「さげもん」

■参考
産経新聞「真夏のひな飾り 「八朔のひなまつり」 兵庫・たつの市」
https://www.sankei.com/article/20200824-2TSIZTJL6JLH5PI2L2NQSQBTJA/
名著刊行会『嬉遊笑覧 下』喜多村信節著 1979年4月発行

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