『日本書紀』にも記録される疫病の流行
新型コロナウイルスの流行は、私たちの生活を大きく変化させた。
しかし、疫病の流行が社会に大きな影響を与えるのは初めてではない。むしろ人類の歴史は、疫病との闘いの歴史と言っても過言ではないのだ。
『旧約聖書』の「出エジプト記」には、エジプトに降りかかった「十の災い」が記されている。
当時、エジプトの王、ファラオは神の民であるイスラエル人を奴隷としていたため、神の罰を受けたと伝える。その災いの10番目が、長子殺しと呼ばれる。疫病の流行により、幼い子どもたちが次々と亡くなり、多くの家で跡継ぎの子どもがいなくなったと伝えている。
日本最古の書物である『日本書紀』にも、疫病の流行が何度も記録されている。
古代日本では、疫病の流行は、天皇の徳に関係があると考えられており、疫病が流行すると、天皇自らが神に祈った。たとえば、第十代崇神天皇が即位した5年目に疫病が流行し、民の半分以上が死亡したという。そこで7年目の2月15日に神意を占ったところ、オオモノヌシ神が巫女に憑依して、自分を祭るようにと告げた。
しかし、それでも疫病が去らないので、再度天皇自ら斎戒沐浴して「夢で教えを垂れてください」と祈ったところ、夢の中にオオモノヌシ神が現れて、「我が子のオオタタネコに私を祭らせよ」と告げたとされる。オオタタネコは大物主を祭る奈良県桜井市にある古社・大神神社の初代神主とされる。
史実であるかどうかはわからないが、日本書紀の記述を信じれば、大神神社は、疫病の流行を終わらせるために建立されたということになる。
祇園祭は、疫病除けのお祭りでもある
京都の夏の風物詩、祇園祭も疫病除けの祭りだ。
祇園祭の始まりは、八坂神社のHPによると貞観11(869)年に開かれた御霊会(ごりょうえ)とされる。御霊とは非業の死を遂げた貴人の魂を指し、疫病や飢饉は御霊の祟りだと考えられていたのだ。しかし疫病の流行が収まらなかったので、祇園精舎の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)の祭りが斎行された。
牛頭天王は陰陽道の疫病神で、日本神話のスサノオ神や武塔神と同一視されている。
『備後国風土記逸文』によれば、北の海に住む武塔神が南の海に住む女神に求婚しに行ったが、途中で日が暮れた。そこには将来兄弟が住んでおり、弟は裕福な暮らしをしていた。そこでまず弟に宿を貸してくれと頼んだが、すげなく断られる。兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていたが、武塔神を受け入れて粟飯などで精いっぱいもてなした。喜んだ武塔神は「お前にお返しをしよう。子孫の腰の上に茅の輪をつけさせよ」と、蘇民将来に命じた。その後疫病が流行り、茅の輪を着けていない者はことごとく滅ぼされてしまった。武塔神は再び蘇民将来の前に現れ、「私はスサノオである。後の世に疫病が流行しても、蘇民将来の子孫を名乗って茅の輪を着けた者は免れるだろう」と告げている。
祇園祭の季節になると、京都の家の玄関に「蘇民将来の子孫」と書かれた茅の輪が飾られるのはこのためだ。また祇園祭を主催する八坂神社の祭神はスサノオ神だ。
薬の神様、スクナヒコナ神を祭る神社も疫病除けの神社と言えるだろう。薬の街として栄えた大阪の道修町には少彦名神社が鎮座し、病気除けの信仰を集めている。江戸時代後期にコレラが流行した際、虎の頭の骨などを配合した「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬と張り子の虎を授与したことから、虎がお守りとされた。
疫病除けの信仰を集めた薬師如来を本尊とする寺
薬師如来を本尊とする寺院も、疫病除けの信仰を集めてきた。薬師如来は東方瑠璃光浄土を主催する如来だから、薬師如来を本尊とする寺は「東光寺」「浄瑠璃寺」などの名が多い。
なかでも空海が開山した西宮市の松泰山東光寺は「門戸厄神」として知られ、厄除けの寺院として、厄年の参詣者が耐えない。「門戸厄神」の別名は、門戸西町にあり、珍しい厄神明王を祀ることによる。厄神明王は愛染明王と不動明王が一体となった姿の明王で、嵯峨天皇が41歳の厄年のとき、この明王があらゆる厄災を打ち払う霊夢を見た。そこで空海にそれを伝えると、厄神明王の像を三体刻み、東光寺と高野山の天野大社、石清水八幡宮に勧請した。
ただし、現存するのは東光寺の厄神明王像のみだ。
女性の病が原因で離縁されたアワシマ様は女性の病を治す神になった
女性の病気に限って治してくれる神様もいる。
和歌山の加太に鎮座する淡嶋神社は、スクナヒコナ神を祀る神社だが、アマテラス神の六女であるアワシマ様への信仰で知られる。
アワシマ様は住吉明神に嫁いだが、女性の病が原因で離縁され、うつろ船に乗せられて加太に流された。そこで「こんな悲しい思いをするのは私一人で十分」と女性の病を治す神となったという。
ただし、この信仰は、江戸時代に願人坊主が伝えたもので、神社の公式のものではないようだ。願人坊主とは、時には寺社の功徳を説いて参拝の代行役となり、時には大道芸を見せながら全国を巡った人々を指す。
物部氏の廃仏の理由のひとつに疫病があった
寺社への参拝や祭りだけでなく、疫病を封じるためにさまざまな信仰が生まれた。それが事件に発展することもある。
古代日本において、崇仏派の蘇我氏と敬神派の物部氏の対立は、歴史の教科書でもよく知られている。
物部守屋は仏像を焼いたり、難波の堀江に捨てたりするなど、仏教の敵のように描かれているが、彼の過激な行動には理由があった。仏教と共に日本へ入ってきたものの中に、恐ろしい疫病、天然痘があったからだ。
エジプトでは紀元前12世紀から猛威を振るっていた天然痘だが、島国日本にはこのときまで到達していなかった。免疫を持たない日本人の中で、疫病はあっという間に広がり、多くの者が苦しみながら死んだ。物部守屋が仏教のせいで神の怒りが下ったのだと考えるのも無理はないだろう。しかし仏像の廃棄は功を奏さず、疫病の流行は止まらなかった。
疫病治癒の様々な民間信仰
民間では、さまざまなものが信仰の対象となった。
皮膚にできる腫物を「瘡(かさ)」といい、体中に発疹する天然痘もこう呼ばれた。そのため「くさ」を食べる牛や馬に食べてもらおうと、牛や馬の人形や絵馬をお守りにしたりした。
江戸谷中の笠森稲荷がにぎわったのも「笠森(かさもり)」と「瘡守(かさもり)」の語呂合わせからだが、この場合の「瘡」は天然痘ではない。谷中の笠森稲荷のそばには、有名な吉原遊郭があり、遊女や遊客たちに、梅毒がことのほか恐れられていた。
本家の笠森稲荷は大阪府高槻市にあり、梅毒だけでなく、天然痘や皮膚病を平癒する霊験があると信仰されている。笠森稲荷で病気平癒を祈るときには土を丸めた団子を供え、病気が治れば米団子を供える風習がある。尚、瘡守稲荷は全国に数ケ所ある。
古来、人々はさまざまな方法で疫病から逃れようとしてきた。
新型コロナがどのように収束するのかは予想もつかないし、人流抑制の観点から遠方への参拝はお薦めできないが、近くに厄除けの寺や神社があったなら、コロナの収束を祈ってみてはいかがだろうか。
■参考
講談社『日本書紀(上)(下)』宇治谷孟訳 1988年6月発行
平凡社『風土記』吉野裕訳 2017年11月発行
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