出迎えるのは、築70年以上の納屋とレンガ牛舎をリノベーションした建物
夏の北海道。畝の美しい、整然とした広い斜面を彩る花は、紫のラベンダーがよく似合う。まさに、絵に描いたような北海道だが、「北海道ガーデン」という新境地を開いた「上野ファーム」にはラベンダーは3、4株しかない。
北海道らしいガーデンとは―? 2021年6月上旬、ナチュラルな雰囲気をまとったへッドガーデナーの上野砂由紀さんと、母の悦子さんを訪ねた。
上野ファームがあるのは旭川市郊外。のどかな「カッコウ」「コケコッコー」を聞きながら敷地内に入ると、右手には納屋を改装したカフェが見えた。左手には牛舎だったレンガ造の建物があり、おしゃれな園芸グッズが並ぶ。ともに築70年以上で、上野家の歴史を感じさせる。
「SINCE1906」の文字が入った入園証明のシールを受け付けでもらい、園内へ。グラデーションのある緑がまぶしく目に飛び込んできた。
1万3,200m2の敷地に、2,000種以上の草花がある。毎年咲く「宿根草」をほぼ左右対象に植えた「ミラーボーダー」や、悦子さん好みの野草やバラなどを自由に植えた「マザーズガーデン」、小人の気分になれる絵本のような「ノームの庭」など10のゾーンからなる。からっと晴れた空の下、花々は伸びやかだった。
マザーズガーデンには、丘のような「射的山」に続く小径がある。大樹の陰では女性がリラックスチェアから空を仰ぎ、斜面はルピナスで彩られ、てっぺんではカップルがブランコに揺られていた。
射的山から見えるのは、盆地の旭川らしい田園風景。田んぼに交じって、家屋がポツポツと立つ。上野家は1906年、宮城県からこの地に入植した。
「魅せる農場をつくろう」。あぜ道のルピナスと、射的山のハーブから
代々続く米農家の転機は、1983年だった。米の販売が一部自由化され、個人に直接売ることができるようになった。
そこで、個人客に景観を楽しんでもらおうと、悦子さんは射的山の周りにハーブを、あぜ道にルピナスを植えた。「どんな農村の風景がきれいかなって考えて。その延長に上野ファームがあるのよ」と教えてくれた。夫の裕幸さんも農協の研修で北欧を訪ね、美しい農村景観に刺激を受けていた。
砂由紀さんが振り返る。「『ガーデンをつくりたい』ではなく、お米を買いに来てくれるお客さんに、農場の良さを知ってほしい、くつろいでもらうスペースをつくろう、というのがきっかけでした」
悦子さんはやがて畑の一角に石を敷き、小径をつくった。好きな花を植えて庭にしたのが、マザーズガーデンの原点になった。兼業の石材業で端材を手に入る裕幸さんとの、二人三脚。英国調の「イングリッシュガーデン」に憧れ、本を参考に植えた。
納屋を移動させ、更地をトラクターで起こし、少しずつ風景が変わっていった。「もらえるものはもらい、できることは自分たちで。お金をかけないのが上野家のモットーです」と砂由紀さんは笑う。上野ファームを始めてから現在まで、物置小屋やトイレ以外で造った建物はゼロだ。
砂由紀さんは大学進学で旭川を離れ、札幌でアパレル会社に就職。帰省のたび「ママがはまってるイングリッシュガーデンって、すごいんだな」と感じていた。
そんな砂由紀さんと庭を一気に結んだのは、札幌の地下鉄だった。
ガーデンはコミュニティ。その引力を知った英国留学
社会人3年目で店長になり、重圧を感じている時。地下鉄の中づり広告で、イギリスでガーデニングを学ぶインターンの募集を目にした。
もともと海外への憧れはあった。環境を変えたいと思っていたころで、自分流の庭づくりに励む両親の姿も浮かんだ。「安易な発想でしたが、スキルが身に付いたら、実家に帰っても役に立つかな、と」心はすぐ決まった。
植物の知識もゼロのまま、2000年4月、飛行機に飛び乗った。目的地は人口800人ほどの田舎町。プライベートガーデンを管理する家族のもとで、9ヶ月ホームステイした。
「庭を春から秋まで見て、植え替えずとも、開花期が違うだけでこんなにも風景が変わるんだ、と衝撃でした。緻密な計算とデザインがあって、とんでもなく深い世界でした」
当時の北海道では、マリーゴールドを幾何学模様に植えるような庭が一般的だったため、ナチュラルさに引き込まれた。「デザイナーの個性でさまざまな表現ができる。想像しながら植物を配置するのは、絵を描くのと似ていて、絵具を植物に置き換えるようなイメージでした」と砂由紀さん。小中学生のころ、絵に夢中だったことも手伝って、デザインの虜になった。
庭の持つ力も見せつけられた。
この庭では月に1度、「オープンガーデン」として公開していた。庭先では近所のお年寄りの女性がケーキを焼いて売ったり、みんなで紅茶を飲んでくつろいだり、庭のラズベリーでお菓子を作ったり。砂由紀さんは「地域コミュニティでした。こんな素敵なことができるんだと驚きました」と振り返る。
旭川の実家でも、来客との焼肉パーティーを庭で開くのが恒例で、交流の場としての庭が重なって見えた。帰りの機中では「オープンガーデンをやろう」という思いで満ちていた。
家族総出の庭づくりで、「北海道ガーデン」が誕生
2000年12月に帰国して家族で構想を話し合い、春先から総出の作業が始まった。
裕幸さんが調達した石を敷いて、通路に。粘土質の土地を改良し、暗渠で水はけを調整。冬にも耐える品種を選び、手探りで庭を作り上げた。そして2001年、「上野ファーム」として1日限りのオープンガーデンを開いた。
オープン後も少しずつ手を加えた。壊される農協の倉庫からレンガをもらい、セメントをたたいて落とした。レンガ積みの塀は悦子さんがスケッチを描き、漬物の樽で窓枠をくり抜いた。
米農家は2007年ごろまで続け、庭作業はあくまで農作業の合間。砂由紀さんも田植え機に乗り、トラクターで牧草を刈った。オープンガーデンの日数は徐々に拡大し、口コミでファンを増やしていった。
2004年には、牛舎の壁を塗り直し、雑貨店をオープン。玄米と乾燥機があった納屋は2008年、カフェとして生まれ変わった。
「庭をきっかけに、お米を買ってくれるお客さんが増えたらいいなと単純に考えていましたが、そのうち花のファンがお米を上回るようになりました」と砂由紀さん。
イングリッシュガーデンを意識していたが、ある時、本州からの来園者が、植物が背丈ほどに育つことに驚いていた。砂由紀さんは「同じ日本でもそんなに違うんだ。ここはイギリスじゃない」と気付いた。
例えばバラは、長く雪に閉ざされることで花びらを多くつけ、濃い色になる。気候や風土の違いから、北国だからこそ躍動する植物があると知った。
「この土地にあったものを植えれば、北海道だからこそのガーデンになる」。こうして、開放感があり、のびやかな大自然に溶け込むような「北海道ガーデン」が始まった。
上野家らしい「身の丈にあった」庭づくりは、ある著名な脚本家を引き寄せた。
「植物がつないだ縁」。脚本家・倉本聰との出会い
口コミで来園者が増える中、北海道・富良野を舞台にしたテレビドラマの脚本で知られる倉本聰さんが2005年、突然来園した。旭川市内のレストランで食事をした倉本さんが店のナチュラルな庭に惹かれ、砂由紀さんのデザインと知り、その足で訪ねて来たという。富良野のゴルフ場跡を気にかけていた倉本さんは、砂由紀さんに相談した。
打ち合わせを重ねる中で、砂由紀さんはイングリッシュガーデンを提案し、その後、庭を舞台にしたドラマまで作る流れになった。後にドラマ名にもなる「風のガーデン」をつくる仕事の、ほぼすべてを砂由紀さんに委ねた。「簡単なあらすじを聞かされ、『後は自由にやってくれ』と。怖いもの知らずでしたね」と砂由紀さんは笑う。
「北海道ガーデン」を自身のテーマにしていたので、風のガーデンでは「ラベンダーに頼らずとも豊かな表現ができることを発信する」と心に決めていた。
何十年もの時間を重ねたような雰囲気の庭を1年でつくることが求められた。2007年に倉本さんは咲いた花を見て脚本に手を入れ、庭に合わせてドラマを仕立てたという。スケジュールは演者ではなく、砂由紀さんが予想する開花期が基準。重圧の中、当時妊娠中だった砂由紀さんは撮影中も富良野に通い、草取りの動きなどを教えた。
ドラマ「風のガーデン」は2008年に全国放送され、大きなうねりをもたらした。
「北海道ガーデン」は壮大な街道へ
ロケ地になった上野ファームは、知名度が急上昇。「風のガーデン」も一般客に翌年公開され、20万人が押し寄せた。
これを見逃さなかったのが、帯広市を拠点にメディアと観光事業を展開する十勝毎日新聞グループのガーデン「十勝千年の森」の林克彦さんだった。2009年に砂由紀さんを訪ね、連携を持ちかけた。
観光地を目指していなかった上野ファームにとって、「観光」と結びついたのはこれが初めて。砂由紀さんにとって「まるで黒船のペリーのようだった」林さんは、矢継ぎ早にガーデンや異業種をまとめ、総延長200キロのルートを結んだ。
「北海道ガーデン街道」として道内7ガーデンが協議会を発足。2010年に本格始動し、数年で総入場者数は50万人を超える人気になった。2019年に「ガーデンツーリズム」の登録制度を始めた国土交通省は「観光ブランド化に成功した事例」と位置づける。
砂由紀さんは「観光の活性化で、北海道に多くの人が来てくれる。ルートを一からつくり、地域づくりをして、視野が広がりました」と言う。
「ガーデン街道」の人気を追い風に、新しい動きが生まれた。
旭川市の奥座敷・層雲峡温泉がある上川町では2014年に「大雪森のガーデン」が誕生し、「北海道ガーデン」に仲間入り。旭川市の隣の当麻町でも2015年、親子連れが楽しめる「くるみなの庭」ができ、上野さんはこの2ヶ所を監修。JR旭川駅に直結した緑地では「北彩都ガーデン」が整備された。
ガーデンデザイナーとしての砂由紀さんへの依頼は増えていったが、「身の丈に合わないので」と固辞することもあった。あえて「デザイナー」にならないのには理由がある。
現場でデザインする砂由紀さんが、「デザイナー」を名乗らないわけ
砂由紀さんはガーデナーとして、現場でデザインを繰り返す。
「ミラーボーダー」では同じチューリップでも、開花期が違う品種を緻密に並べ、数ヶ月楽しめるように工夫する。丈の違いも計算し、立体感と奥行きを表現。「ノームの庭」では、花が終わっても楽しめるよう、通路に近い所は常緑の草類を置く。こうして寒暖差による花の鮮やかさを際立たせ、季節ごとのドラマチックな移ろいを演出する。
庭の完成度や植物の状態が分かるのは、毎日庭に立つからこそ。来園者の興味がどこにあるかは、カメラの向け方や反応を見ているからこそ分かる。日々の観察があって、デザインと試行錯誤ができる。
大切なのは長い冬だ。自宅には500色の色鉛筆があり、画集やデザイン本、SNSの画像を浴びて「妄想」を膨らませ、1年後の景色を描く。実家のベランダでは種をまき、苗を育てる。
「植物を知れば知るほど、使える“色”は増えます。5色と、100色の絵具とでは出来上がる絵は全然違う。庭は思い通りにはならないし、すごく時間をかける絵のようで、ずっと完成しません。オープン20年というと長いですが、まだ20回しか試せていないんですよ」
上野ファームが「上野ガーデン」ではないように、砂由紀さんは自身を「デザイナー」と呼ばない。「農場の庭を地元に育ててもらって、植物の力に家族が引っ張られて、今があります。私も土と植物から離れたらだめなんです。本物を触っていないと、良いデザインはできません」
そして現場にいるからこそ、砂由紀さんは“限界”も感じている。家族中心で目が届く規模を考え、「これがマックス。もっと広げようとは思わないですね」と言い切る。
一方、目指すガーデン像は明確で、新型コロナウイルス禍でも色濃く浮かび上がった。
2020年。休業明けでオープンした時、待ちわびた近場の来園者の表情に「生きて、また花を見れてよかった」という安堵感が漂っていたという。「もともと花やガーデン好きの人が多かったのですが、花を知らなくても気軽に来られて、楽しくて、くつろげる。そんな場所だと知ってほしいです」と思いを語る。
園内には写真映えするスポットや、リラックスできる家具が随所にあり、カフェのソフトクリームやドリンクを片手に、のんびり過ごす人が多い。時にはニワトリが散策する光景に出くわすこともあり、上野家の一員の動物にとっても居心地は良さそうだ。
悦子さんはその動物や花の絵を30年以上描き、オリジナルグッズのイラストも手がける。プライベートガーデンの礎を築き、気ままに手入れする“母”は、将来をどう描いているのか。
聞くと、こう返ってきた。
「50年後、100年後に、もう上野ファームなんてないでしょ? ちゃんと自然に還るように、野草をたくさん植えてるのよ」
客をもてなす思いで花を植え、背伸びせず、地元になじむ庭を育てる上野さん家族。悦子さんの言葉はそのまま受け取れないけれど、案外「らしい」とも思えてくる。
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