昭和26年築、大田区南久が原に残る『住宅金融公庫』最初期の公庫住宅

第二次世界大戦の終戦まで、日本国内において「自分の家を持つ」ことができたのは一部の特権階級だけだった。しかし、戦後の住宅不足や高度経済成長期の住宅需要を受け、政府の住宅政策は「持ち家促進」へと転換。その政策を支える柱のひとつとなったのが『住宅金融公庫』の設立だ。現在は『独立行政法人 住宅金融支援機構』としてお馴染みだが、前身の『住宅金融公庫』は戦後間もない1950(昭和25)年に誕生。「国が家を建てる資金を融資する」ことによって住宅所有は大衆化し、公庫設立から8年間で持ち家世帯は71%まで急増したという。いまだに根強く残る日本人の「持ち家主義」は、ある意味“庶民生活の戦後復興の象徴”としてこの頃から受け継がれてきたものなのだろう。

そんな『住宅金融公庫』を利用して建てた初期の公庫住宅が、令和の今も大田区南久が原に残されていた。1951(昭和26)年建築の旧小泉家住宅は、戦後の庶民の暮らしをリアルに体感できる『昭和のくらし博物館』として1999(平成11)年から一般公開。地域の子どもたちの社会見学の場としても活用されている。

この家で育った小泉家の三女であり『昭和のくらし博物館』副館長の小倉紀子さん(79)に、公開経緯についてお話を聞いた。

▲旧小泉家住宅『昭和のくらし博物館』は、現存する最初期の公庫住宅として貴重な存在だ。平成に入り一部増築が行われたが、母屋の建物はほぼ建築当初のまま。母屋部分は平成14年に国の登録有形文化財に指定された。映画『この世界の⽚隅に』で、片渕須直監督が制作の参考に何度も通った家としても知られ、今も多くのファンが聖地巡礼に訪れている▲旧小泉家住宅『昭和のくらし博物館』は、現存する最初期の公庫住宅として貴重な存在だ。平成に入り一部増築が行われたが、母屋の建物はほぼ建築当初のまま。母屋部分は平成14年に国の登録有形文化財に指定された。映画『この世界の⽚隅に』で、片渕須直監督が制作の参考に何度も通った家としても知られ、今も多くのファンが聖地巡礼に訪れている

博物館として残すことで「昭和初期の庶民の暮らし」を知ってもらいたい

▲台所を案内してくださった小倉さん。当時使われていた氷の冷蔵庫や、幕末に生まれたという祖父手作りの削り節器も残されていた。「小さな家だから、いろいろな隙間を工夫して収納スペースにしていました。台所の縁の下には糠みその樽を入れたりしてね。うちの母の漬けるぬか漬けはとても美味しくてご近所でも評判だったの」▲台所を案内してくださった小倉さん。当時使われていた氷の冷蔵庫や、幕末に生まれたという祖父手作りの削り節器も残されていた。「小さな家だから、いろいろな隙間を工夫して収納スペースにしていました。台所の縁の下には糠みその樽を入れたりしてね。うちの母の漬けるぬか漬けはとても美味しくてご近所でも評判だったの」

「博物館といっても、国立博物館とかああいう立派な建物とは違って粗末な小さな家ですが、それでも皆さん楽しそうに見学されてますね」と小倉さん。若かりし頃は、当時の女性たちの憧れだった女性誌の編集者だったとのことで、もうすぐ80歳とは思えない理路整然とした語り口からも元編集者としての“伝える意識の高さ”が窺える(以下「」内は小倉さん談)。

「うちは4人姉妹で、父と母の6人家族。わたしも嫁入りするまでこの家で23歳まで暮らしました。普通なら途中で傷んで建て替えたりするはずなのに、我が家は貧乏だったから建て替えができなかったんじゃないかしら(笑)。

父が亡くなり、母も亡くなって、ここが空き家になって、いよいよ更地にして土地だけを売るのかと思ったら、長女である一番上の姉が“この家は住宅金融公庫の最初期の融資物件で、当時の公庫住宅がこうして残っているのは珍しい。せっかくなら博物館としてこの家を残し、庶民の暮らしを体験できる施設にしたい”と言いはじめたんです。それで、わたしたち姉妹も家族も納得して、平成19年から一般公開することになったんですね」

建築家の父が「丈夫で長持ちする家を建てたい」と設計した家

この家は、建築家だった小倉さんの父が自ら設計をおこなった。当時の住宅金融公庫の融資条件には「18坪まで」という規模や建築費の制限があったため「お金をかけずに、小さくても丈夫で長持ちする家を建てたい」というのが父の想いだった。

「せっかく公庫に当たったんだから、父としては“今後のモデル住宅になるような家をつくりたい”という考えがあったようですね。当時はハウスメーカーなんてものはなかったので、施工は地元の大工さんにお願いしました。今なら、安価な集成材や外材を使うこともできるんでしょうが、この家はすべて国産の無垢材を使っているんです。土台は電車の枕木にも使われる硬い栗の木、他はスギやヒノキ。今から考えたら贅沢な材料だけど、当時はこれしかなかったのよね。だからものすごく頑丈なの(笑)」

ベニヤの天井と畳だけは張り替えたそうだが、外装も、木枠のガラス窓も、他の建材は当時のまま。東日本大震災や昨年の大型台風を経験しても「ぜんぜん大丈夫だった」とのことで、改めて「父は本当に丈夫で長持ちする家を残してくれたんだ」と実感したと言う。

「シロアリは出ませんか?と聞かれますが一切出たことはありません。新築から約70年が経過していますが、これまでにも修繕はほとんどしてないんです。もちろん、途中でテレビがやってきたり、クーラーを入れたりと、いろいろ生活の変化はありましたけど、明治生まれのうちの両親はなかなか物が捨てられなくて、庭の物置きに当時の電化製品などがまだ使える状態で残っていたので、博物館にするにあたり生活用品を戦後の暮らしの状態に戻して展示しました」

▲玄関脇には父が仕事場として使っていた書斎兼応接間の洋室が。机・椅子・書棚などの家具類もすべて父が自ら設計したもので、室内の建具と材質の調和が保たれている。書斎の机の上には、カラス口や計算尺のほか父と母が結婚記念に買ったという目覚まし時計が。茶の間にはいまだに現役で電波をキャッチする真空管ラジオやシンガーミシン、戦後流行ったパン焼き器などが展示されている。「当時と比べると小麦粉の質もずいぶん上質になっていますから、昔の器械なのにこのパン焼き器で意外とおいしくパンケーキが焼けるんですよ」と小倉さん▲玄関脇には父が仕事場として使っていた書斎兼応接間の洋室が。机・椅子・書棚などの家具類もすべて父が自ら設計したもので、室内の建具と材質の調和が保たれている。書斎の机の上には、カラス口や計算尺のほか父と母が結婚記念に買ったという目覚まし時計が。茶の間にはいまだに現役で電波をキャッチする真空管ラジオやシンガーミシン、戦後流行ったパン焼き器などが展示されている。「当時と比べると小麦粉の質もずいぶん上質になっていますから、昔の器械なのにこのパン焼き器で意外とおいしくパンケーキが焼けるんですよ」と小倉さん

「昔は不便な生活をしてたんだね」という子どもたちの感想も学びに

小倉さんがこの家でいちばん好きな場所は、姉妹の子ども部屋だったという2階の南向き和室だ。エアコンは設置されていないが、中庭にそびえる大きな柿の木を通り抜けて心地良い風が入るので、嫌な湿気がなく真夏でも室内は爽やかだ。

「近所の小学生が団体で見学に来ることがあるんですが、みんな“なんだかすごい不便そうな家だね”って言うの。階段も急で怖いし、エアコンもついてないから“昔の暮らしって大変だったんだね”って。確かに、今みたいにロボットに話しかけると電気をつけてくれるような便利な生活とは違いますが、戦後の住まいは不便ながらも、その不便さをみんなで工夫しながら快適に暮らしていました。戦後の日本人の生活がどんな様子だったかを、実際の住宅街の中で体感してもらい、そこから何かを学んでもらうことができれば、博物館としてこの家を残す意義があると思うんです」

現代の住宅よりも気密性は劣るため、この時代の家は冬になると寒い。しかし、茶の間には掘りごたつや火鉢があったので、「家族が自然と温かい部屋に集まって過ごし、個室に閉じこもるようなことはなかった」と小倉さんは当時を振り返る。

「子どもたちが自分の部屋に一人で閉じこもってスマホをいじってるとか、この家の構造だとそんなことはできませんからね(笑)。戦後って、物も無くて、どの家も貧しくて、日々の暮らしはつらかったけど、みんな“これ以上悪くなることはない”という希望がありました。でも、今の人たちは便利で豊かな生活を送りながらも、“今が最高でこれからどんどん悪くなっていく”と考えてるみたい…戦後の暮らしを体験してきた者としてはそれが残念ですね」

▲小倉さんがいちばん好きだという2階の子ども部屋は、照明器具も当時のままだ。現在『企画展示室』になっている2階北側の和室は、下宿人の部屋として使われていた。「公庫で借りたお金を少しでも早く返したいからという理由で、父が学生さんに2階を貸していたんです」▲小倉さんがいちばん好きだという2階の子ども部屋は、照明器具も当時のままだ。現在『企画展示室』になっている2階北側の和室は、下宿人の部屋として使われていた。「公庫で借りたお金を少しでも早く返したいからという理由で、父が学生さんに2階を貸していたんです」

時代が変わると忘れ去られる「庶民の暮らし」を歴史的資料として残す

▲大きな柿の木が日よけがわりになって、真夏も涼しく過ごせる中庭。現在はコロナの影響で不定期開催となっているが、季節の展示、生活史講座のほか、洗濯板・すり鉢体験などの小学生を対象とした見学プログラムも用意されている▲大きな柿の木が日よけがわりになって、真夏も涼しく過ごせる中庭。現在はコロナの影響で不定期開催となっているが、季節の展示、生活史講座のほか、洗濯板・すり鉢体験などの小学生を対象とした見学プログラムも用意されている

現在『昭和のくらし博物館』はNPO法人のスタッフをはじめ、地域のボランティアの皆さんによる定期的な修繕・清掃を続けながらその佇まいを維持している。

「古い建物をより長く残していくためには、こまめにお手入れすることが大事ですね。もともとうちの母がきれい好きで、夏休みは朝夕必ず子どもたちが雑巾がけをしていましたから、床もいまだにツヤツヤしています。

ハタキではたいて、ホウキで掃いて、それから水拭きして、たまにぬか袋を使って艶を出す…今は学芸員の方やボランティアさんがこの家の手入れをしてくださっているので本当に助かっています。こうして愛情を持って手入れを続けることで、家というのは長持ちするんでしょうね。

最近は“新しく家を建てることになったので、昭和の暮らしを参考にしたくてここへ見学に来ました”とおっしゃる若いご夫婦も増えています。次の世代を担う若い人たちに、この家から何かを感じ取ってもらえるなら本当にうれしいことです」

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『昭和のくらし博物館』の館長であり、小泉家の長女である小泉和子さんは「時代が変わると、真っ先に犠牲になり忘れ去られるのは、庶民の暮らしだ」と語っているが、この旧小泉家住宅は、日本人が最も強く生きようとしていた戦後の時代をわたしたちに教えてくれる貴重な歴史的資料として存続し続けることになる。皆さんも、当時の庶民の”質素ながらも豊かさに満ちた暮らしぶり”を体験しながら、古き良き昭和の時代を振り返ってみてはいかがだろうか?

■取材協力/昭和のくらし博物館
http://www.showanokurashi.com/

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