寺社仏閣の造作を生かした、延床面積500m2の大型木造建築

2020年4月1日、JR田町駅から徒歩約8分の距離にひっそりと「港区立伝統文化交流館」(旧協働会館)がオープン。新型コロナ感染症対策のためオープンと同時に休館し、5月26日から再開した。区が主導し、港区の指定有形文化財である築80年の延床面積約550m2もの旧協働会館を再生。創建当初は花柳界の見番として建てられたもので、当時の華やかさ、にぎやかさをイメージさせるディテールが特徴の歴史的建造物である。

見番だったころの趣は今も多くの箇所に残る。2階の大広間は畳敷きの部分が約70畳、舞台が約30畳あり、「百畳敷」と呼ばれていた。花柳界の女性たちの本格的な稽古が行われた場所だ。百畳敷の格子天井や細かい細工を施した窓枠、手すりなどからも、当時の華やかな雰囲気が伝わってくる。ちなみに、当時の当建物のオーナーと建築の建築現場の棟梁は、目黒雅叙園のオーナーおよび棟梁と同一人物だという。

港区立伝統文化交流館の外観。向かって右が旧協働会館、左が新設された増築棟。旧協働会館の外壁の下見板、庇はすべて新しい部材に取り替えた(写真提供/青木茂建築工房)港区立伝統文化交流館の外観。向かって右が旧協働会館、左が新設された増築棟。旧協働会館の外壁の下見板、庇はすべて新しい部材に取り替えた(写真提供/青木茂建築工房)

大正時代の新たな埋立地に、花柳界が花咲く

「この芝浦一丁目地区は明治時代後期~大正時代に、海岸沿いを埋め立てて新たにつくられた地域。それより以前に現在のJR線路の北側にあった花柳界がこの地域に移ることになり、見番が設けられたようです」と、港区芝浦港南地区総合支所管理課の高野公美子さんは話す。見番とはその地域の料理屋、芸者屋、待合(まちあい)の事業者が集まってつくる三業組合の事務所のこと。客席に出る芸者の取り次ぎや玉代の計算などの事務を行ったという。

その後、第二次世界大戦の折に花柳界が疎開したことから、1944年(昭和19年)には東京都の所有になり見番は港湾労働者のための宿泊所である「協働会館」に変わった。しばらくの間そのままの用途で使われていたが、2000年(平成12年)には老朽化を理由に閉鎖に。しばらく放置された後、2009年(平成21年)には建物が東京都から港区へ譲渡されるとともに、港区指定有形文化財に指定された。2014年(平成26年)に整備計画、次いで2015年に基本設計、2017年(平成29年)から改修工事が始まった。

この建物の再生の大きなきっかけは、2006年(平成18年)に、近隣住民などから出された「協働会館(旧芝浦見番)の現地保存と利活用に関する請願」が区に採択されたことだ。「協働会館として使われていたころ、1階は管理人室と港湾労働者の宿泊所でしたが、2階の百畳敷は剣舞や日舞といった芸事の稽古に使われるなど地域の方々に日常的に活用されていたそうです。近隣住民からは、そのころのように、気軽に集まり交流する開かれた場所として活用していきたいという要望がありました」(高野さん)

改修後の百畳敷の様子。写真正面が舞台に当たる。無柱で約100畳もの広さの天井を維持しているのは、在来工法でありながらもこの部分だけ洋式のトラスで支えているからだという。天井の板材もできる限り既存のものを使用(写真提供/青木茂建築工房)改修後の百畳敷の様子。写真正面が舞台に当たる。無柱で約100畳もの広さの天井を維持しているのは、在来工法でありながらもこの部分だけ洋式のトラスで支えているからだという。天井の板材もできる限り既存のものを使用(写真提供/青木茂建築工房)

“変えない”ことを前提に文化財の改修に挑む

改修の設計(計画)を担当した建築家の青木茂さんは、初めてこの建物を見たとき、あまりの老朽ぶりに驚いたという。青木さんは、既存建物の再生と長寿命化を図る「リファイニング建築」という手法で著名な建築家だ。これまで関わった数多くの古い建物の中でも、記憶に残る老朽具合だった。

「ボロボロで、建物が崩れ落ちないように屋根から鉄柱で串刺しにされ、檻のような安全対策のフェンスで囲われていました」

そのような状況ではあったが、青木さんは、寺社仏閣などの意匠を踏襲した歴史的価値の高い、また個性的なこの建物に惚れ込み、再生後100年は存続させる心づもりで設計の案を練った。現地調査を交えながら、設計には約2年を費やした。

文化財の改修は、一般的な住宅のように、オーナーや建築家が変更する箇所や変更後のデザインなどを自由に決めるわけにはいかない。

「簡単に言うと、現行の建築基準法にも準拠させながら、“変えない”ように設計することが基本です。そのため、文化財としてそのまま残すべき部分について、大学の研究機関などに確認しつつ設計を進めていきました。たとえば、建物正面の外観や正面玄関の内部、2階の百畳敷および楽屋、そのほか内部階段の意匠など、室内の特徴的な部分を中心に保存する方針です。劣化や破損のために材料を取り替えたりしなければならない場合は、理由を明確に示して許可を受けなければなりませんでした」

一方で、協働会館になってから変更された部分の復元が検討された。復元は工事前・工事中の痕跡調査で創建当初の形が明らかになった箇所のみとし、室内の仕上げや鴨居の改変箇所などが対象となった。

旧協働会館が閉鎖された後、老朽化が進み、改修工事が始まるまでこのようにフェンスで囲われていた。以前は建物の周りに紫陽花が植えられていたという(写真提供/青木茂建築工房)旧協働会館が閉鎖された後、老朽化が進み、改修工事が始まるまでこのようにフェンスで囲われていた。以前は建物の周りに紫陽花が植えられていたという(写真提供/青木茂建築工房)

宮大工から残すべき箇所、創建当初の色調についてアドバイス

延床550m2という規模の大きさ、処々に寺社仏閣の意匠を取り込んだ当時としては特殊なつくり、経年による劣化や腐朽が進行中であり、しかも創建当初の資料はほとんど残っていない…。そのようなハードルが多い状況で、なぜ当時と同様に再生できたのだろうか。

「助言してくださった研究者や区の文化財担当の方々はもちろんのこと、建物の現地調査の段階から施工に至るまで、寺社仏閣を専門としている宮大工の方々にご協力いただいたおかげです」(青木さん)

まず解体の時点で、宮大工からアドバイスを得ながら、それぞれの部材について劣化や腐朽などの具合を見て、改修後も長らく使い続けられるかどうかを判断していった。100年は維持できることが前提だ。また、施工時には宮大工が主体となり、必ずしも図面どおりではなく、解体した部材を現場判断で組み立てていく場面も少なくなかったという。

「一部の壁などの色調は、創建当初から変色、退色するなどしていて、元の色が判断しにくくなっていましたが、これについても宮大工のこれまでの数々の経験や知見を基にしたアドバイスが役立ちました」(青木さん)

現在、展示室・情報コーナーとして使用されている元宿泊室。奥の床の間の壁の緑色は、建物を解体中に明らかになった。右側の格子状の部分が耐震壁(写真提供/青木茂建築工房)現在、展示室・情報コーナーとして使用されている元宿泊室。奥の床の間の壁の緑色は、建物を解体中に明らかになった。右側の格子状の部分が耐震壁(写真提供/青木茂建築工房)

既存の建物を約8m西側に移動

一方で、今回の再生に当たって、大きく変わったところもある。まずひとつは、建物のメンテナンス用のスペースを確保するため、既存の建物の位置を約8m西側に移動したことだ。建物の形状を損なうことなくそのまま持ち上げて動かすこのダイナミックな作業は「曳家」と呼ばれる。

「建物の形が崩れないように、入念に事前準備をしました。まず、瓦や土壁を撤去したほか、木製建具などを一旦取り外して建物を軽量化。仮の筋交いなどを取り付けて建物の形状をしっかりと固定した後、約2mジャッキアップし移動用のレールを配置しました」

その後、移動先に新たな基礎を打ち、建物を慎重に移動してその上に設置した。ここまでの工程に、約6ケ月かかったという。

もうひとつは、新たに設けられた耐震補強用の壁(以下、耐震壁)だ。建物を安全に利活用するため、変更が許可された。耐震壁は元の壁を強化するほか、どうしても建物の利用者の目に入る場所に新たに取り付けなければならないものもあった。そこで、青木さんは和のつくりになじむような耐震壁を取り入れた。

「木の柱を格子状に組んだ壁です。今回の現場で新たに採用した手法は格子による耐震補強のみで、他はこの建物に使われていた日本の伝統的な建築技術を生かして再生しました。法律の改正などを受け昨今の木造建築は進化していますが、今回のプロジェクトを通じて、これまでの日本の木造建築は非常に洗練された技術の集積であることを再認識しました」(青木さん)

「港区立伝統文化交流館」として生まれ変わったこの建物は大切に保存していくとともに、日本の伝統文化を継承する拠点として積極的に活用していく予定だ。

「日舞などの稽古に使ったり、落語や能など日本古来の芸能の発表会を催したりするのもいいですね。子どもたちにはカルタや将棋など、遊びを通して和の文化を継承していけるといい」と、コロナ感染症による自粛後の本格稼働を見据え、館長の山本正信さんは話す。
高野さんは、地域の歴史のシンボルとして長らく残していきたいと考えている。

「文化財を実際に利用できるのは貴重な経験です。今後は一転、新たな文化を生み出す場所として育ってほしい」

なお、交流館は入館料無料、以前百畳敷と呼ばれていた交流の間は、港区内在住、在勤、在学の団体または個人が貸室として利用可能だ。

曳家の際は建物をジャッキアップして新たにコンクリートの基礎を打った後、少しずつ位置をずらして基礎の上に移動させ固定し直した(写真提供/青木茂建築工房)曳家の際は建物をジャッキアップして新たにコンクリートの基礎を打った後、少しずつ位置をずらして基礎の上に移動させ固定し直した(写真提供/青木茂建築工房)

2020年 09月09日 11時05分