冬季五輪を経て衰退し始めたまち
長野駅から善光寺まではほぼ一本道。緩やかに上る道を歩いて行くと途中から歴史を感じる建物が増え、ずっしりした木造住宅やクラシカルな洋館、広壮な寺の瓦屋根にうっとりしているうちに行きつくのが仁王門。そこから左へ。宿坊のあるエリアを過ぎると街並みは急に変わる。
その先に延びているのはごく普通の商店街。しかも、あまり活気があるとは言い難く、通る人もまばら。善光寺参道と比べるとずいぶんと静かである。そんな商店街入り口近く、築100年くらいというかつては鍼灸院として使われていた建物が、善光寺門前の古民家改装の先駆けとして知られ、今もこのまちを変え続けている人たちが集う拠点「ナノグラフィカ」である。
2003年4月にオープンしたナノグラフィカは学生時代からこのまちに暮らしてきた増澤珠美氏らがほぼ自分たちで改装した古民家で1階は喫茶室と土間ギャラリー、2階は編集室と住居となっている。といっても、最初から空き家再生を目的としてこの地に住み始めたわけではない。暮らしながら、活気を失うまちや、空き家となって放置される建物を見ているうちに、自然と動きが始まったというのが本当ではないかと思う。
「学生として暮らし始めた1990年頃にはこの近くにも賑やかな商店街があり、いろいろな店が揃っていましたが、それが10年ほどの間にどんどん閉店。とはいえ、長野では1998年に冬季五輪が開催されましたので、その時期には権堂(参道から東に延びる商店街がある繁華街エリア)を中心に新しい店ができ、一見客も多く、賑わっていました。ところが冬季五輪が終わって1~2年後からその賑わいが引き、人が減り始めた印象があります」
地域で暮らし始めて見えてきたもの
増澤氏らは1992年に権堂に日本でも珍しい木造建築を使ったライブハウス「ネオンホール」をオープン。ライブや映画上映、演劇、各種展覧会やワークショップを開いてきた。元々の入り口はアートだったのである。
「まちの変化についてはその当時も気にはなっていました。古くて趣きのある建物が壊されると聞いてはショックを受け、使わせてくれればいいのに、面白いものは壊さずに利用するべきなどと思っていました。歴史を経てきた建物はまちのもの、みんなのものと思っていたのです。ですが、当時もこの辺りに住んではいたものの賃貸アパートには回覧板も回って来ないし、祭りの情報も入ってこない。ネオンホールではまちの運動会などにも参加していましたが、夜に開く場であり、地域に関わるきっかけは少なかったのです」
それが変わったのが2003年に増澤氏を含め4人で建物を借り、ナノグラフィカをオープンして以降。昼間も開いている場所であり、増澤氏はここの2階に居住。出産、子育てをした。ご近所のおじいちゃんと立ち話をし、調味料の貸し借り、野菜のおすそ分けをし、そうした経験を経て、まちの一員として受け入れてもらえるようになったのだ。もちろん言葉で書くほど簡単に物事が進んだわけではない。
「アート系の人たちが多く集まっており、等身大の僧侶人形を展示したり、段ボールにバスの絵を描いてそれをもってこの辺りをうろうろするなど、外から見るとおかしな人たちが集まっていると見えたようです。喫茶店はやっていたものの、メニューが変だし、何か、既存の名称の付いた商売をしているわけではなく、そもそも、商売をする気もないらしい。なんなんだ?と」
地域の人を紹介するメディアが結んだ信頼関係
そんな中で始めたのが手書きの「西之門しんぶん」。誰に頼まれたわけでも、どこからかお金が出るわけでもなく、全く自分たちが勝手に始めたもので月に1度、地元の人に取材、それを紹介するような記事を掲載した。続けるうちに、周囲の目が変わり始めた。よく分からないけれど、悪い人たちじゃないみたいだ。そして、中には「ウチにも取材に来てくれよ」という人たちも。そのうちに少しずつ仕事も入るようになってきたという。
俗人としてはそんな状態でどうやって暮らしていたのかが不思議だが、増澤氏自身も覚えていないという。ビジネスも融資も考えずにおもしろいことをやろうと集まり、なんとかやってきたのだと。「学生時代から貧乏でしたし、ここに引越して店と住居を兼ねることにすれば家賃6万円を4人で払うことになり、各自がそれぞれに払うより安くなる。家賃に加え、物価も安かったのでなんとかやってこられたのだろうと思います」
2009年に次の転機が来た。市の職員から地域の魅力発見事業に応募してみないかと誘われたのである。正式には県の事業で「ふるさと雇用再生特別基金事業」。2年間の予定でお金をもらっておもしろいことができる!と応募、「長野・門前暮らしのすすめ」というタイトルのもと、毎週1回の街歩き、月に1度の空き家見学会に冊子の発行、手作り市の開催、演劇と精力的に活動を始めたのである。長野はつまらないと言って出て行く人たちにそんなことはないよ!ということを発信したかったと増澤氏。
「それまでも気に入った空き家の大家さんを教えてもらい、仲間に紹介したりはしていましたが、それを堂々とでき、地域にも認識してもらえる。この時とばかり、手書き地図を作る街歩き、1,000円予算での仲見世散歩などさまざまなことをやりました。一方で助成金が無くなったらやめますというのは格好悪いとも思っていたので、街歩きや、空き家見学会も、市が開催するように人件費を無視すれば続けられることを提案。町会に青年部を立上げ、空き家見学会や手作り市、餅つきなどの季節のイベントは助成金終了後、青年部が主催者に移行するようにも考えました」
古い建物が持つ魅力に価値を認める人が少しずつ増加
助成が終わった2011年度以降、今も自主事業として続けられている「長野・門前暮らしのすすめ」。門前空き家見学・相談会は2020年3月に101回目を迎えた。この活動で再生された空き家はその回数ほどにもなっており、歩いてみるとあちこちに個性的な店が点在。住宅として再生されている建物もあるという。
「2008年にリーマンショックがあり、2009年くらいから人の意識が変わってきた気がします。古い建物に魅力を感じる人が増え、それまでの働き方や暮らし方に違和感を覚える人も増えたと感じます。予算の面からではなく、便利さや快適さとは異なる観点から中古物件に目を向ける人も増えたと思います。その動きが追い風になり、長野の門前町の空き家にも市内で移動する人、都心から帰って来る人、全く違う土地から来る人などが入ってきています。門前町だからでしょうか、閉鎖性があると言う人はもちろんいるものの、雑多な人たちを受け入れる素地があるように思います」
長野市はそもそも善光寺の門前町として誕生、成長してきた。城下町や計画的に作られたまちと異なり、誰かがデザインして作られたわけではない。その分、どこか緩い、寛容な雰囲気があると増澤氏。「明文化はされていませんが、なんとなく、善光寺よりも高い建物は建てないようにしているなど、善光寺を中心にした一体感があります。しかも、中心にある善光寺は誰をも受け入れてきた歴史のある寺。となると、あからさまに誰かを排除するような行動は起こしにくいのかもしれません」
そうした雰囲気に加え、地元で長らく活動してきた信頼があってだろう、「空き家を見せてほしい」という依頼に対しても、親族間でもめ事があるなど理由があって断られることはあるにせよ、ネガティブな反応は比較的少ないそうだ。
中心市街地での便利、安心な暮らしを空き家活用で実現
最後に増澤氏に空き家を再生した店などを案内してもらいながら歩いた。門前にはたくさんの町があるが、そのうち、門前暮らしで対象としているのは善光寺を中心として半径800メートルほどの円に収まる場所。長野市では「第一地区」と「大字長野」と呼ばれている約30の町で、徒歩圏内に買い物施設、飲食店はもちろん、文化施設、映画館なども揃うエリアである。その割には交通量が少なく、静かで安心して歩けるのは不思議なほど。
こうした中心部で空き家を利用、多少なりとも安価に不動産を借りられるメリットは大きいはずだと増澤氏。「小学校に行くのにも人の目があるところを歩いて行けますし、すぐに人に会えて集まれるから情報も入る。適度な田舎で都会という感じでしょうか、最近はマンション建設もひんぱんに行われ、中心市街地に人が戻ってきているように思います」
見せていただいた店は記事内の写真、キャプションで紹介しているが、全体として無理をしない、とんがった感じのない改修が多いのが印象的だった。そのせいか、自然にまちに溶け込んでおり、空き家を使うことも自然に受け止められているのではないかとも。まちを繕いながら使っている、そんなことを思いもした。
また見学させていただいている最中に手に入れた冊子「古き良き未来地図 続」には80ヶ所にも及ぶ空き家も含めたリノベーション物件が掲載されており、これを見ながら歩くのは楽しそう。というより、長野市の観光ガイドにこのマップを掲載していただきたいもの。空き家を利用した味のある店舗を歩く人が増えればまちの賑わいはさらに増すと思うが、市役所関係者、いかがでしょう?
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