東京からUターン。JR筑前前原駅前のビル4階でゲストハウスを開業
福岡・天神から直通で約40分。JR筑肥線・筑前前原(ちくぜんまえばる)駅周辺が、糸島市の中心市街地だ。江戸時代に唐津街道の宿場町として発展し、昭和の頃は糸島随一の繁華街として賑わいを見せたという。しかし、前原商店街は、地方商店街のご多分に漏れず、2000年代以降シャッターが閉まったままの店が増えていく。
その前原の駅前に、2016年8月、ゲストハウス「前原宿ことのは」がオープンした。オーナーは糸島育ちの野北智之さんと、宮城県仙台市出身の妻・野北佳奈さん。ともに長く暮らした東京を離れ、約1年かけて世界23ケ国93都市を巡ったのちに、ここ糸島に拠点を定めた。
はじめから宿を営む目的のUターンだったが、地元出身の智之さんにとっても、物件探しは容易ではなかった。「空き家はあるのに、なかなか貸してもらえませんでした」と佳奈さん。地方の商店街でよく聞く話ではある。ずっと身内で使ってきた建物を、見ず知らずの他人に貸すことに、不安を感じたとしても無理はない。
突破口を開いたのは、野北さん夫妻より1年早く移住してきた福島良治さんが、友人知人を集めて月に一度開く呑み会「いと会」に参加したことだ。そこで出会った地元の不動産会社が、野北さんの想いを汲み取り、物件を紹介してくれた。
ビル4階の一区画を占める「前原宿ことのは」は、明るくて眺めがいい。かつては一家族の住居として使われていたであろう、ゆったりとした2DKで、宿泊施設というよりも、短期貸しのマンションのようなイメージだ。ゲストハウスといっても相部屋ではなく、仲間や家族で貸し切れて、調理道具や食器類、調味料のととのったキッチンを自由に使える。まさしく“暮らすような”感覚で泊まれる宿だ。
まちあるきツアーや空き店舗を使ったイベントで人の輪を広げる
「前原宿ことのは」の運営と並行して、野北さん夫妻はまちの魅力の発掘と発信にも取り組んだ。手始めに、自家焙煎の珈琲店など、個性あるカフェを巡りながらまちを知る「カフェさんぽ」を企画。SNSで発信したところ、初回から10数人の参加者が集まったという。
さらに、商店街を詳しく調べてみると「前原商店街発祥で、海外にも進出している飲食店があることが分かった」と智之さん。糸島は、肉・野菜・水産資源すべてが豊富で、全国各地から有名シェフが食材を仕入れに訪れるほど。この地の利を生かせば「スペインのサンセバスチャンのような、個性的な飲食店が集積するまちになれるのでは」と夢を語る。
2017年からは、町内の清掃活動を開始。毎月1日朝8時からと決めて、みんなでゴミを拾って歩く。誰もが自由に参加可能で、開催はすでに30回を超える。「ちゃんとまちの面倒を見る人がいると分かれば、新規参入を考える人にも安心してもらえるはず」と智之さん。
街角でひとびとの交流が生まれるよう、空き店舗を借りてイベントを仕掛けたり、軒先にベンチを置かせてもらったりもした。「人に貸すつもりがなかった家主さんが、一時貸しを経験することで、テナント貸しに踏み切った例もありました」。空き物件が息を吹き返し、通りに人が戻ってきた。
2018年からは、福岡市発のイベント「九州DIYリノベWeek」に参加し、商店街各所でイベントを開催。市外からも多くの人が訪れ、旧街道の雰囲気が残る前原商店街を行き交った。2度目の参加となった2019年には、1週間で総勢300人を超える訪問者で賑わったという。
そして、野北さん夫妻が前原で活動を始めてから3年の間に、商店街には新たに13もの店舗が開業した。ふたりが「ことのは」を開業しようとした頃、なかなか見つけられなかった糸口も、今ならつなぐことができる。清掃活動やイベントを通じて、お店を開きたい人、事務所を持ちたい人と、家主との出会いの機会が広がっている。
生産者と消費者をつなぐ、こだわりの純手打ちタリアテッレ専門店
智之さんの案内で、最近前原にオープンしたユニークなお店のいくつかを訪ねた。
1軒目は、2019年9月開業の「純手打ちタリアテッレの店 diretta(ディレッタ)」。パスタマシーンを使わずに麺棒だけでのばす「純手打ち」、しかも平たいロングパスタ「タリアテッレ」専門というこだわりの店だ。
店主の中村真紀彦さんは地元出身で、大阪の料理学校時代にバイトした老舗イタリアンで手打ちパスタに出合った。その「師匠」から直接教わってはいないそうだが、自分のタリアテッレは「オリジナル」ではないと謙遜する。けれども、日夜工夫を重ねており、「たぶん一生、これで完成と思える日は来ない。だからこそ、この仕事が楽しくて仕方ない」と語る。
中村さんがUターンして店を持ちたいと思ったとき、家主との間を取り持ってくれたのが「九州DIYリノベWeek」だ。上記写真のベトナム居酒屋「ハイホー」を借りたイベントで、家主に自分の料理を食べてもらい、信頼を勝ち得た。
パスタマシーンを使わない麺は表面に適度なざらつきが残り、ソースがよく絡む。一般的なパスタに使われる強力粉ではなく、グルテンの少ない小麦粉を用いているそうで、もちもちし過ぎない軽い食感が特徴だ。手打ちならではの、幅や厚みのわずかな変化が味わい深い。
ソースの素材は主に糸島周辺の生産者から調達する。パスタとソースの味わいを生かすため、余分な具材は加えない。皿に残ったソースをぬぐうためのパンも自家製で、あくまでパスタを引き立てる脇役として、味と香りの濃い全粒粉は控えめに配合しているそうだ。
ベトナムの農家から直接買い付けたカカオ豆でつくるチョコレート
2軒目は2019年7月開業の「ANALOG CRAFT CHOCOLATE(アナログ クラフト チョコレート)」。カカオ豆の仕入れからチョコレートバーづくりまで全工程を一貫して手掛ける「Bean to Bar(ビーントゥーバー)」のチョコレートショップだ。
オーナーシェフの永冨憲治さんは、北九州市の洋菓子店で約15年パティシエを務めたのちに、糸島に移住した。祖父母が住んでいたため馴染み深く、小さい頃から「将来は糸島に住みたい」と思っていたそうだ。「糸島は、食べ物が美味しくて自然が豊かなところが魅力」と語る。
パティシエ時代は「チョコレートの扱いが苦手」だったという永冨さん。温度調整や素材の合わせ方が難しいという。しかし、改めて学び始めてからは、どんどんチョコレートの魅力にのめり込んでいった。独立前にはベトナムのカカオ農家を訪ね、3日3晩滞在させてもらったそうだ。
その恩返しの意味も込めて「ANALOG CRAFT CHOCOLATE」では、主にベトナムから直輸入したカカオ豆を使い、コインチョコや生チョコを製造販売する。クリームチーズとビターチョコを合わせたスフレも人気だ。また、カカオの殻を使ったカカオティー、ライチの花のはちみつをベースにしたカカオハニーといった変わり種も扱う。
はじめから糸島で独立すると決めていたが、物件はすぐには見つからなかった。不動産会社を通じて半年ぐらい探し回ったという。永冨さんもまた「九州DIYリノベWeek」に参加し、野北さん夫妻に出会ったことで、この場所にたどり着いた。
「糸島はお店の人同士の交流があり、イベントも盛んなので、そこに自然と巻き込んでもらって、お客さんも広がっていった」と永冨さん。地元テレビも取り上げてくれ、佐賀や大分、熊本など県外からの来客もあるそう。滑り出しは順調のようだ。
19年夏にできたトライアル店舗から、早くも一号店が巣立つ
2019年8月には、商店街の路地にある一軒家を改装し、「RunTime Itoshima(ランタイム糸島)」がオープンした。2階の3室はアトリエや事務所に使えるシェアハウス、1階はキッチンを備えた実験型店舗「トライアル糸島」になっている。1〜3ヶ月の期間限定で、やりたい事業を試せる場所だ。
この「トライアル糸島」を借り、2020年1月から「糸島たいやき こんあんこ」を営んでいるのが古川洋子さんだ。これまで飲食業の経験はなく、初めての起業という。「もともと糸島の住人なんです。美味しいたいやきが食べたくても、地元にはお店がなかった。だったら、自分で焼くしかないなと思って」と笑う。東京の製餡会社が主催するたい焼き開業研修に参加して、一から実習を受けた。「トライアル糸島」で3ヶ月の試験営業を終えた後は、別の場所で本格開業を予定する。すでに物件も確保できたそうだ。
この日、野北さんについて前原商店街を数時間回っただけで、「こんあんこ」を含めて3つの新たな出店情報が集まった。改装中の陶器店1階にはおでん屋が、「diretta」の近くには国産オーガニックワインが売りのフレンチビストロが開業準備中という。前原の“サンセバスチャン化”はもはや、夢物語ではなくなっている。
■取材協力
糸島ゲストハウス 前原宿ことのは https://itoshima-guesthouse.com/
純手打ちタリアテッレの店 diretta
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ANALOG CRAFT CHOCOLATE https://www.instagram.com/fukuoka_chocolate/
糸島たいやき こんあんこ https://www.instagram.com/konanko.itoshima/
RunTime Itoshima https://www.runtime-ito.com/
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