『本陣』と『脇本陣』の双方の建物が現存する唯一の宿場町
JR『岡山』駅から車で約1時間。広島との県境にほど近い岡山県南西部に位置する矢掛町(やかげちょう)は、西国街道(旧山陽道)の宿場町として発展したまちだ。
実はここ40年ほどはまちのなかに宿泊施設が無く「宿のない宿場町」と呼ばれてきたのだが、2015年に株式会社矢掛屋が設立され、築200年を超える古民家を改築した宿が登場すると、とたんにまちの変化が話題を呼んで、年間1万人だった観光客が25万人にまで膨れ上がった。
世界初・日本初の「アルベルゴ・ディフーゾ(AD)タウン」としてイタリアのAD協会から認定を受けたことも、「宿場町・矢掛町」の認知度を高めた一因だ。
ここ矢掛町では江戸期から昭和初期にかけての建物の多くがほぼ当時のままの姿で残されている。参勤交代のときに大名が宿泊した『本陣』と、お供の者たちが宿泊した『脇本陣』が双方現存している宿場町は、日本国内でもここ矢掛町だけだというから歴史的にも大きな価値がある。
矢掛宿の古い町並みは、なぜ令和の現代まで変わることなく保存されてきたのか?矢掛屋支配人(取材当時)の佐賀野淳さんにお話をうかがった。
※株式会社矢掛屋の設立や、アルベルゴ・ディフーゾタウン認定の経緯については前回レポートにて紹介。
▲約750メートルにわたり古い建物が残されている矢掛宿の町並み。国の重要文化財でもある『旧矢掛本陣石井家』(写真左下)は、江戸時代中期から後期に建てられた建物で敷地は約1000坪。かの天璋院篤姫が宿泊した記録も残されているという。西国街道沿いに建つ建物はすべて間口が狭く奥に長い。東西に走るメインストリート・西国街道に対し、建物と建物の間には道幅80センチほどの狭い路地が南北に走っており“建物のバックヤード”へ行き来しやすいようになっている点も特徴だ。「昔は街道沿いの表側で商売をしつつ、裏では畑をつくったりして農業も営んでいたんですね。そのため、こういう細い路地をバックヤード的に使いながら生活物資の準備などを行っていたようです」と佐賀野さん目立たない宿場町から一転、“グルメタウン”の評価を高め人気を集めた矢掛宿
▲こちらは矢掛宿最後の脇本陣である『旧矢掛脇本陣髙草家』。大名が宿泊する『本陣』とは異なり、従者たちが宿泊する『脇本陣』は複数の名家が持ちまわりで役を担っていた。本陣・脇本陣がそれぞれに当時のままの姿を残し、共に国の重要文化財の指定を受けているのは矢掛宿だけだ「もともと矢掛が宿場町に定められたのは、参勤交代制度がはじまった寛永年間の1630年代のことです。しかし、当初は立ち寄る人も少なく、目立たない宿場町だったようです。
宿場町とひとことでいっても、人気がある宿場とそうではない宿場に分かれていたようですね。やはり、娯楽があったり食事が美味しいところに人は集まりましたから、参勤交代のときには、大名たちそれぞれが各地に“お気に入りの宿”を持っていたそうです。
矢掛宿の場合は目立った特産物も無く、魚といえば釣れるのは川魚ぐらい。そのため当初40年ぐらいは閑散としていたようですが、まちの人たちが“これではいかん!”と思い立ち、近くにある笠岡の漁港から水揚げされたばかりの魚を運んで、宿で提供するようになったのです。
もちろん当時は宅配便なんてものはありませんから、約25kmの『とと道(ととみち)』と呼ばれる道路をリレー形式で走って運び、お殿様の前で“こちらが今朝獲れたばかりの瀬戸内の鯛でございます”と海の幸をふるまうようになった…すると、それが評判を呼んで、多くの大名たちが矢掛宿の本陣に宿泊するようになったと伝えられています。今でいうところの“グルメランキングのクチコミ評価”が高くなったということですね(笑)」(以下、「」内は佐賀野さん談)
矢掛町のひとたちが“暗黙のルール”で守り続けてきたまち
矢掛宿の“海の幸”の評判は全国に轟き、宿場町として繁栄を極めた。しかしその後、明治・大正・昭和と時代が移り変わる中で、ここ矢掛宿だけが歴史の中に取り残され、世間から忘れ去られていったという。なぜなら明治維新以降、鉄道や車社会の到来によって、西国街道から離れた場所に大きな幹線道路ができ、矢掛町のまちの中心街が「街道沿い」から「国道沿い」へと移ってしまったからだ。
「結果的には、それが昔の宿場町を往時のままの姿で保存できた理由になったのですから、いま思えば幸いだったのかもしれません。矢掛宿の街道沿いでは、令和の時代のいまもそれぞれの店舗が古い建物の中で営みを続けていて、野菜なら八百屋さん、雑貨ならよろずやさん、魚なら魚屋さん…と、まちの中での役割がちゃんと決まっています。普通であれば、戦後の高度経済成長期に建物を近代的なものに建て替えて、大型スーパーやドラッグストアのひとつやふたつぐらいつくっているはずなのに、ここの通りの中には一軒も無いんです。
これは、中心街が他の場所へ移ってしまったことも大きな要因ですが、何より、このまちの人たちがごく自然な感覚で“先祖代々の建物や店を残したい”という誇りを持ち続けていたから。実際にまちの中を歩いてみても、約7割が古い建物ですから、特に行政が強制したわけでもなく、矢掛町のひとたちの“暗黙のルール”で、みんながまちを守ってきたことの証なのだと思いますね」
古い建物の再生を通して、地元の人たちは“まちの再生”を実感できる
株式会社矢掛屋では、まちの人たちによって長年守られてきた宿場町の町並みを変えることなく、空き家になった古い建物を活用して“宿”としての新しい機能を付加している。同社が手がけた宿泊関連施設はすでに5棟。2019年11月にはまた新たな施設が『蔵INN KAMON』としてオープンした。
「インバウンドではなく、国内のお客様の宿泊が増えて好収益にすることができたという点は、スタッフにとっても大きな自信になりました。もちろん、わたしたちは所詮外からやってきた“外様”ですから、矢掛町の地元の皆さまのご理解をいただくまでには時間がかかりましたが、古い建物を改修してリノベーションすることで“まちが再生する瞬間”をリアルに実感していただけたこと、また、こうして宿の利益を税金として地域に還元できるようになったことで、ようやく皆様にちゃんと認めていただけたような気がしています」
基本的に土地と建物は「町の所有」や「個人所有」のまま。株式会社矢掛屋は、その「空間」を借りてまちに新たな魅力をつくりだしている。こうした手法は、おそらく地元の人たちの取り組みだけでは体力的にもスピード的にも追いつかないはず。再生事業に関するノウハウを持った“外からの風”を受け入れたことでもたらされた大きな成果と言えるのだろう。
次に目指すのは、日本で初めての“まち丸ごと道の駅”の開業
「おかげさまで最近は、矢掛宿の名前を広く知っていただけるようになりました。移住促進を積極的に行っているわけではないものの、まちの中にも少しずつ若い世代が増えつつあります。ただし、万一この先人口が減ったとしても“魅力を維持できるまち”をつくらなくてはいけないというのが株式会社矢掛屋の想いでもあります。
まちづくりや町並み保存をビジネスにするのではなく、“まちの人たちと一緒にできることは何か?”を第一に考えること。このスタンスは今後も変わりません。地域の人たちの理解と協力がなければ、こういう再生事業は絶対に成り立ちませんから」と佐賀野さん。
いま矢掛町では“宿場町復活”の機運に乗って、日本で初めての“まちまるごと道の駅”をつくる計画があり、宿泊客だけでなく日帰りで訪れる交流人口をもっと増やしたいと考えているという。日本初の「アルベルゴ・ディフーゾタウン」、日本初の「まるごと道の駅」。“日本初”の称号を掲げながら発展を続ける岡山県の小さなまち、矢掛町のさらなる展開を今後も楽しみにしたい。
■取材協力/株式会社矢掛屋・矢掛屋INN&SUITES
http://www.yakage-ya.co.jp/
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