戦後いち早く「町並み保存の重要性」に着目してきた倉敷市

岡山県を代表する観光地といえば、多くの方が真っ先に思い浮かべるのが倉敷の古い町並みではないだろうか。岡山県の年間観光客数は約1440万人。その来訪先のトップに君臨し続けているのが倉敷市中心街に位置する「倉敷美観地区」だ。多くの観光客を集め、地域経済の活性を担う倉敷美観地区は、倉敷市民にとって大切な“地域の財産”でもある。

実は倉敷市では、全国でもいち早く町並み保存の重要性に着目し、昭和30年代から行政と住民が一体となって保存活動を行ってきた。昭和43年には倉敷市独自の「倉敷市伝統美観保存条例」を制定。その後、昭和54年に「重要伝統的建造物群保存地区」として国からの選定を受け、現在は東京ドーム約5個分の広さに相当する約21ヘクタール(重伝建地区は約15ヘクタール)のエリアで、町並みの修景や古い建物の補修など積極的な保存対策を継続している。

筆者が今回倉敷美観地区を訪れたのは、中学校の修学旅行以来実に35年ぶりだったのだが、令和元年の倉敷美観地区の町並みは、昭和の頃の記憶と比べてもなんら色褪せることなく、当時の印象通り美しい町並みのままの姿で残されていた。“地域の財産”を守るために、倉敷市ではどのような取り組みを続けているのか?倉敷市教育委員会でお話を聞いた。

▲『倉敷市伝統美観保存条例』の制定から50年、今も倉敷川周辺の古い町並みは変わらぬままの姿で残されている。“日本人の懐かしい思い出の風景”が凝縮されたようなこの町並みは、倉敷市民に限らず日本国民にとっても大切な財産と言える▲『倉敷市伝統美観保存条例』の制定から50年、今も倉敷川周辺の古い町並みは変わらぬままの姿で残されている。“日本人の懐かしい思い出の風景”が凝縮されたようなこの町並みは、倉敷市民に限らず日本国民にとっても大切な財産と言える

町並み保存への市民の想いは地元の名士・大原孫三郎から継承されたもの

▲今回お話をうかがった倉敷市教育委員会の大熊麻里花さん(右)と藤原憲芳さん(左)。「倉敷が空襲を受けなかった理由には様々な俗説があるんですが、国際連盟によって満州国の調査を命ぜられたリットン調査団が倉敷に立ち寄ったとき、『大原美術館』が所蔵していた印象派を代表する有名絵画の数々に驚き、“倉敷の町を空襲してはいけない”と忠告したという説があります。あくまでも俗説ではありますが、とても興味深い倉敷の歴史として語り継がれています」▲今回お話をうかがった倉敷市教育委員会の大熊麻里花さん(右)と藤原憲芳さん(左)。「倉敷が空襲を受けなかった理由には様々な俗説があるんですが、国際連盟によって満州国の調査を命ぜられたリットン調査団が倉敷に立ち寄ったとき、『大原美術館』が所蔵していた印象派を代表する有名絵画の数々に驚き、“倉敷の町を空襲してはいけない”と忠告したという説があります。あくまでも俗説ではありますが、とても興味深い倉敷の歴史として語り継がれています」

「その昔、倉敷美観地区の一帯はもともと海だったのですが、干拓して土地をどんどん広げ、土壌の塩分を抜くために綿をつくるようになりました。幕府直轄の天領となって倉敷川を利用した物資輸送が行われるようになると、倉敷川一帯は集積場として発展。その後、綿が換金作物になることがわかり、江戸時代の農家の人たちは喜んでこの地域で綿を栽培するようになったのです。

やがて川沿いには多くの商家や問屋が集まるようになり、あの蔵の町並みが形成されました。

戦時中、多くの町が空襲を受ける中で、倉敷は幸いなことに戦火を免れ、江戸・明治・大正・昭和のそれぞれの時代の建物が残った状態で終戦を迎えました。そのため、戦後しばらくして“江戸時代から残る倉敷の町並みを保存していこう”という機運が高まり、倉敷市と地元市民が一体となってかなり早い段階から町並み保存に取り組んできたのです」(以下「」内は倉敷市教育委員会/大熊さん・藤原さん談)

町並み保存の重要性を唱えはじめたのは、もともと行政主導ではなく、地元の名士・大原孫三郎(1880~1943)の発言がきっかけだったと言う。倉敷屈指の大地主・大原家に生まれた孫三郎は、学生時代に東京で放蕩の限りを尽くし、地元・倉敷へ呼び戻されてからは生活を改め、家業であった倉敷紡績(クラボウ)を継いで事業を大きく発展させた人物だ。また、帰郷後は私財を投げ打って西洋の美術品を収集し、倉敷川沿いに『大原美術館』を創設。『大原美術館』は倉敷美観地区の中でもひときわ目を惹く西洋風建築として、今も観光の目玉になっている。

「先進の総合病院をつくって社会貢献をしたり、社会問題を研究したり、貧困者を助けたり…孫三郎は“倉敷を日本のエルサレム(ユートピア)にしたい”と考えていたようです。また、岡山出身の西洋画家、児島虎次郎を奨学生として大原家に迎え入れ、ヨーロッパへ美術留学をさせるなど、美術を志す若者たちのことも支援していました。

ちょうど当時はヨーロッパが第一次大戦後の不況の時代で、普段なら絶対に手に入らないような作品が売りに出されていたため、児島はそれらの多くを交渉して買い取り、倉敷へ持ち帰りました。エル・グレコの『受胎告知』をはじめとする名画たちは今も『大原美術館』に所蔵されています。これも、決して大原家の財力を示したかったわけではなく、あくまでも地域への貢献であり、若者たちに“本物の西洋美術を学ばせてあげたい”という想いがあったようです。

孫三郎の長男である大原総一郎(1909~1968)は、当時から“ヨーロッパの歴史的都市のように倉敷の町並みをこの風景のまま残したい”と周囲に話していたそうですが、その思想は第二次世界大戦の開戦でいったん中断しました。しかし、総一郎の言葉は終戦後も地元の有志たちに受け継がれ、昭和30年代の大規模な保存活動へとつながっていったのです」

「町家」と「蔵」の2つの建物、屋根の高さを見ると建築年代がわかる

こうして、後世へと町並み保存が受け継がれることになった倉敷美観地区だが、この地域の建物の特徴は大きくわけて2つに分類されるという。

「美観地区の建物には“町屋”と“蔵”の2つのパターンがあります。意匠的な特徴は屋根・階数・壁にあるのですが、特に町屋の場合は“厨子二階(ずしにかい)”と呼ばれる建築様式で、2階部分の屋根が低くなっているんです。2階が低い理由には諸説あるのですが、江戸時代に倹約令が出て“町屋に2階をつくるのは贅沢だ”とされたことから、倉敷では“2階に見えるのは物置で、この建物は1階建てです”と言い訳をしていたという説や、武士を2階から見下ろすのはご法度だったから、という説もあります。2階の屋根が低い建物は古い時代の建物とされているので、屋根の高さを見るとだいたいの建築年代がわかります」

また、“蔵”に関しては漆喰塗りのなまこ壁がお馴染みだが、意匠性としては意外にも簡素なものが多いという。「他の瀬戸内の町では、蔵の小窓を凝ったデザインにしたり、大きなうだつを上げたり、漆喰に絵を施したようなものも多いのですが、倉敷の場合は比較的シンプルな蔵が多く、豪華さを競った建物ではないという点が特徴です。どうやら物流による交流の影響もあって、京都・大阪など上方の建物の意匠を取り入れていたようですね。文化的な先進地である上方への憧れが建物に表われているのかもしれません」

▲町屋の多くは塗屋造りで、2階の正面に開かれた「倉敷窓」や親つき切子格子の「倉敷格子」が意匠的な特徴になっている。蔵の多くは土蔵造り。白色漆喰仕上げ・なまこ壁の蔵は、倉敷美観地区のアイコン的存在だ。写真下左は昭和5年に建てられた大原美術館、下右は明治期の倉敷紡績所発祥工場を残した倉敷アイビースクエア。美観地区の中を歩いていると、いろんな年代の建物が違和感なく混在して存在し続けているのが面白い。「実は倉敷というのは一般名称で、荘園などから年貢を集めて一時保管する場所のことを倉敷と呼んでいたようです。今では倉敷といえば多くの方が“岡山県の倉敷”をイメージしてくださると思いますが、他の地域にも倉敷という場所はいくつか存在しています」▲町屋の多くは塗屋造りで、2階の正面に開かれた「倉敷窓」や親つき切子格子の「倉敷格子」が意匠的な特徴になっている。蔵の多くは土蔵造り。白色漆喰仕上げ・なまこ壁の蔵は、倉敷美観地区のアイコン的存在だ。写真下左は昭和5年に建てられた大原美術館、下右は明治期の倉敷紡績所発祥工場を残した倉敷アイビースクエア。美観地区の中を歩いていると、いろんな年代の建物が違和感なく混在して存在し続けているのが面白い。「実は倉敷というのは一般名称で、荘園などから年貢を集めて一時保管する場所のことを倉敷と呼んでいたようです。今では倉敷といえば多くの方が“岡山県の倉敷”をイメージしてくださると思いますが、他の地域にも倉敷という場所はいくつか存在しています」

今も200世帯が暮らす“生きた町”だからこそ、住民の協力が欠かせない

倉敷美観地区の町並みは、どの風景を切り取っても実に美しい。しかし、今回筆者が美観地区を散策して痛感したのは「約21ヘクタールにも及ぶ広さの町を保存していくことの大変さ」だった。なぜなら、ここはテーマパークではない。実際に地元の人たちが今も日常生活を続けている“生きた町”だからだ。

「美観地区の古い建物は全部で600棟ぐらいあるのですが、倉敷市が買い取った建物は2箇所しかなく、ほぼすべてが個人の方の持ち物です。現在、美観地区に暮らしている世帯は約200世帯。約400人の方が実際にお住まいになっています。エアコンの設置ぐらいであれば各家庭で自由にできるのですが、外観の変更をする際は必ず申請・許可を得てからでないと着工できないルールになっています。そのため、地元住民の皆さまのご理解とご協力無しには、この町並みを維持することはできません」

倉敷市としても、電線の無電柱化工事を約10年の年月をかけて実施するなど、これまで多くの予算を優先的に美観地区の町並み保存のために投じてきた。重伝建の選定以降は国からの補助金を受けることができるようになったため、すでに600棟中500棟の建物修繕が完了し、いまは二順目の修繕に突入したところだと言う。

「美観地区外の周辺施設に対しても、夜の景観を保つために派手な電飾看板などは設置しないようお願いしています。某全国チェーンのビジネスホテルも、当初は巨大なネオン看板を設置していたのですが、当時の助役が“町並み保存のためになんとか電飾を控えてほしい”と頼みに行ったところ、“確かに倉敷市の言う通りだ”ということで納得してくださって、美観地区側だけネオン看板を外してくれました。

こんな風に、ちょっとしたことにもこだわって町並み保存を徹底しています。美観地区の町並みを良好な状態で残し続けることは、倉敷市の観光産業の死活問題でもありますから。地元住民の方も、地域の皆さんも、その点をよく理解した上で協力してくださっているのだと思います」

ちなみに、現在倉敷市が抱える課題は「いかに宿泊客を増やすか?」ということ。

岡山県観光客動態調査結果(平成30年)によると観光客の約70%は日帰り客で、特に倉敷の場合は鉄道アクセスに恵まれているため、美観地区を昼に観光した後、夜は広島市街へ…しまなみ街道へ…道後温泉へ…と移動してしまう観光客が多いと言う。人気観光地が集まる中国四国地方において「いかに観光客の足を一泊引き止めるか?」は、行政の財源を潤わせる意味でも重要な課題なのだ。

「夜間の滞在を促す目的もあって、世界的照明デザイナーの石井幹子さんのプロデュースによる『美観地区夜間景観照明』を観光課で実施しています。生活感のあるぼんやりとしたやさしい灯かりで古い街並みをライトアップし、夜の風情を楽しめるようになっているんです。倉敷美観地区は岡山県最大の観光地であり“地域の財産”ですから、各課の壁を越えて“オール市役所”の体制で町並み保存に努めています」

▲写真右上は倉敷美観地区の中で最も古い建物、享保年間の1700年代に建てられた「井上家住宅」。現在は10年間かけて実施している保存修理工事の真っ只中だ。「実は井上家住宅はこれまで正徳年間の建物と伝えられてきたのですが、今回の工事で2階部分から当時の大工さんが落書きしたと思われる墨書きが発見され、享保年間のものと判明したんです。こういう新発見があるのも面白いですね。井上家住宅の工事は令和4年の完了を目指しています」と大熊さん。ちなみに、大熊さんオススメの絶景ポイントは、阿智神社の境内とのこと。「境内の休憩所から美観地区の町並みを一望できます。ここから眺める甍の波がとてもキレイなんです」(写真左)▲写真右上は倉敷美観地区の中で最も古い建物、享保年間の1700年代に建てられた「井上家住宅」。現在は10年間かけて実施している保存修理工事の真っ只中だ。「実は井上家住宅はこれまで正徳年間の建物と伝えられてきたのですが、今回の工事で2階部分から当時の大工さんが落書きしたと思われる墨書きが発見され、享保年間のものと判明したんです。こういう新発見があるのも面白いですね。井上家住宅の工事は令和4年の完了を目指しています」と大熊さん。ちなみに、大熊さんオススメの絶景ポイントは、阿智神社の境内とのこと。「境内の休憩所から美観地区の町並みを一望できます。ここから眺める甍の波がとてもキレイなんです」(写真左)

町並みを保存するということは、地元の人たちの想いを保存するということ

令和元年の今日まで、孫三郎や総一郎の想いを受け継ぎ、行政と地元市民が一致団結することによって倉敷美観地区の町並みは守られてきた。しかし、町並み保存には終わりがない。この先も、50年、100年と維持していくためには何が必要なのだろうか?

「地元市民が主体となって町並み保存活動を続けている300人ぐらいのグループがあるのですが、活動の中心世代が60代・70代と高齢化しているので、やはりこの活動も世代交代をうまく行って次の世代を育てていかなくてはならないと考えています。

また、町並み保存の一方で、現在の倉敷はオーバーツーリズム状態です。地元の人たちは日常の生活を営んでいるのに、観光客が家の前を歩き、中には勝手に家の中まで入ってきて写真を撮る人もいるようです。単に“観光客がたくさん訪れてくれれば良い”というわけではないので、我々行政としては観光客の質を高める努力も平行して行っていきたいと考えています。

倉敷美観地区の町並みは倉敷市の大切な資源ですから、地元の人たちが“この町を守りたい”という気持ちを持ち続けることができるように、この町に暮らしている人たちの生活も含めて、良い形で守り続けていきたいですね」

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部外者が「この町を残してほしい」と言うのは簡単なことだ。しかし、町並み保存には莫大な経費がかかる。そして、建物や景観に加えて何より“地元の人たちの想い”を保存していかなくては、活動自体が成り立たなくなる。現在の倉敷美観地区ではそのバランスがうまく保たれているからこそ、江戸時代から続く町並みを維持できているのだろう。この美しい風景がいつまでも変わらないことを祈りつつ、今後も倉敷市や地元市民の活動に注目していきたい。

■取材協力/倉敷市教育委員会
https://www.city.kurashiki.okayama.jp/edu/

▲倉敷市では2005年から「美観地区夜間景観照明」を開始。これまで“昼の観光地”とされてきた美観地区のイメージが一新して、観光客は夜の散策も楽しめるようになった。「幸いなことに、倉敷は観光地として人気を保つことができているので、他の町並み保存地区に比べるとずいぶん恵まれていると思います。有名観光地だからこそ頑張れるし、威信にかけても頑張らなくてはいけない。古くから地域みんなで頑張ってきたんだから、これからも頑張ろうよ、という気持ちで取り組んでいます」▲倉敷市では2005年から「美観地区夜間景観照明」を開始。これまで“昼の観光地”とされてきた美観地区のイメージが一新して、観光客は夜の散策も楽しめるようになった。「幸いなことに、倉敷は観光地として人気を保つことができているので、他の町並み保存地区に比べるとずいぶん恵まれていると思います。有名観光地だからこそ頑張れるし、威信にかけても頑張らなくてはいけない。古くから地域みんなで頑張ってきたんだから、これからも頑張ろうよ、という気持ちで取り組んでいます」

2019年 12月15日 11時00分