旧日光街道沿い、築120年余の旧家は解体され建売住宅になるはずだった
日光街道は、江戸の日本橋から日光までの約140キロを結ぶ、江戸時代の五街道のひとつ。日本橋から宇都宮までは東北へ向かう奥州街道とも重複しているため、参勤交代の大名の通行も多く、栄えたまちも多かった。
日本橋を出立して千住、草加を経て3つ目の宿場町・越谷は埼玉県内では有数の規模の繁華なまちだったが、1874(明治7)年、1899(明治32)年に大火に見舞われており、さらに1923(大正12)年の関東大震災でも甚大な被害を受けた。そのため、宿場町らしい建物は通り沿いを見る限り、それほど多くは残されていない。
だが、それだけにまちの人たちの中には残存する古い民家を大事にしたいという思いがあったのだろう。越谷市に本社を置くハウスメーカー・ポラスグループ 株式会社中央住宅が2015年に旧日光街道沿いに明治38年に建てられた商家・旧大野邸秤屋を取得した時には「建物を残して欲しい」と言いに来る人達がいた、とポラスグループの中央住宅戸建設計本部の池ノ谷崇行氏。
「当初は建物を潰して4軒の建売住宅を建てる予定でした。ですが、同じく街道沿いに取得した古い商家の、江戸後期から末期に建てられた蔵だけを残して再生、それ以外を一戸建て分譲にする『ことのは越ヶ谷』プロジェクトが進行しているタイミングでもあり、地元に愛されてきたこの建物も再生できないかと検討を始めました」。
ちなみに「ことのは越ヶ谷」プロジェクトは2015年にグッドデザイン賞を受賞している。手前に趣きのある蔵がある一戸建て分譲地は豊かな街並みへの貢献と同時に新築4邸の分譲住宅地の目玉として付加価値化したプロジェクトであると評され、「ビジネスの目線と街並みへの貢献意識を両立されたことが素晴らしい」とも。そんな驚きを持って再生された蔵は市に寄付され、現在はまちづくりの拠点として活用されている。
どう使うか、誰が使うかが検討課題
同社が取得する直前まで所有者が居住していたため、住宅自体はさほど傷んではいなかった。関東大震災にも耐えた建物であり、雨漏りもなかった。築年数なりの傾きなどはあったが、それよりも時間がかかったのはどういう使い方をして残すかという検討。街道沿いの古い建物、桜の見事な元荒川など資源はあるものの、最近まで越谷市はそれほど観光に熱心ではなかったし、実際、観光に訪れる人は多くはない。草加のように煎餅はあり、岩槻のようにひな人形も作っているが、本家として知られているまちほどブランド力はなく、しかも、駅からは歩いて15分ほど。どう使うか。敷地一番奥にあるプレハブ住宅をどうするかも課題だった。
また、飲食店などに入ってもらうにしても越谷ゆかりの人にしたいと考えた。「最初から大手チェーンなどは考えてもいませんでした。ただ、古い建物でもあり、新築と使い勝手が違う。そこを納得して入ってくれる人である必要もありました」。
使い方、使ってくれる人を探すなどに時間がかかり、改修に入れたのは2017年になってから。最終的には通りに面してギャラリーショップ、その奥にフレンチレストラン、イートインもできるキッシュとフレンチ惣菜の店、植物のテラリウムの店、日替わりで使われる空間naya、建築事務所のサテライトオフィス、リラクゼーションマッサージの店と多様なテナントが入ることになった。
また、地元の人たちが作るまちづくり会社が同社と入居者の間に入る仕組みにもした。同社からまちづくり会社が物件を借り、それを入居者にサブリースする形である。
満席続くレストランなど、人気の場に
約1年間、4,500万円の費用をかけた改修を経てオープンしたのは2018年春。「はかり屋」という屋号はかつてこの家で分銅が作られていたことに由来する。デジタルで誰でも簡単にモノの重さ、サイズが測れる今と違い、正確な計測ができるツールは貴重であり、それを作っていたということはこの家が地域ではなくてはならない、存在感のある家であったということでもある。
そして、その存在感は今も生きている。改修後のはかり屋にはわざわざ足を運ぶ人も多く、ことに主屋を利用したフレンチレストランは完全予約制で昼夜ともに満席が続いているほどとか。場の雰囲気に加え、地域の産品を使った料理のオリジナリティが評判なのだ。私もキッシュの店でランチを頂いたが、メニューには市内に宮内庁鴨場があることから、現在、越谷市が力を入れている鴨が使われていた。
といっても率直なところ、家賃は赤字にならないぎりぎりのところで設定されており、相場からすると安いと池ノ谷氏。企業にとって、収益という観点だけから考えれば、当初の計画通り、建売住宅にしていたほうが儲かったのである。だが、はかり屋が再生されたことで旧日光街道沿いにはそれに続く動きも出始めている。「次から次に案件が持ち込まれているのです」。
街道沿いに古い建物を持っている旧家の人たちはそれなりに豊かであり、空き家を放置していても困ることはない。だが、相続が起きるとそうも言っておられず、取り壊されたり、売却されてしまう。はかり屋のプロジェクトが進行している間にも近隣で蔵が取り壊され、賃貸住宅に建替えられるケースがあったそうだ。
まちの人たちからの見られ方が変わってきた
「そうした人たちの中には『本当は残したい』という人も多いのです。ですが、維持管理だけでも費用がかかるし、活用するとなると個人ではほぼ無理。企業が事業化するなどしないと古民家は残せない。そこに弊社が手がけた再生事例が誕生した。しかも、成功しています。それを見て、ウチも残せないかと考える人たちが相談にいらっしゃっているのです」。
となると、街道沿いに蔵が多数復活、かつてのような賑わいのある通りが再生されるのでは?と妄想するが、ことはそうそう簡単には行かない。蔵や古い日本家屋などは調査に時間がかかり、補修費も多額に及ぶことが多い。それをどう捻出するか、どう使うか。はかり屋も取得から4年以上かかっていることを考えると、もし、今後再生が行われるとしても時間をかけて一歩ずつということになろう。そして、それらも「儲かる」話ではなさそうである。
だが、それ以上に同社にとってのメリットは地元の人たちからの目。明らかに変わってきたと池ノ谷氏。それまではどうしてもスクラップ&ビルドの会社と思われがちだったものの、ことのは越ヶ谷、はかり屋と蔵、古民家を再生するプロジェクトを続けてきたことで地域の景観に配慮、社会に貢献する会社として認知されるようになったというのである。
また、それが採用でも功を奏しているとも。「会社としてこんな事業をやっているという話をすると、興味を持つ学生さんが非常に多いのです。企業の他とは違う取組み、地域貢献などに関心が高まっていることを感じます」。
開業から1年、文化財に登録
さて、そのはかり屋だが、オープンからほぼ1年後となる2019年3月29日に主屋、土蔵の2件が国の登録有形文化財(建造物)に指定された。同じ旧日光街道沿いでは少し離れたところにある木下半助商店の店舗及び土蔵、石蔵、主屋、稲荷社の4件が2015年に登録されているが、こちらは現在も営業しており、内部を見ることは叶わない。内部を楽しめる文化財という意味で、はかり屋は貴重な存在というわけである。
最後にはかり屋以外の旧日光街道沿いの個人的なお勧めをば。はかり屋から木下半助商店までの間には乾物店、金物屋、雑貨店その他何軒かの古い商家が残っており、せっかく行ったらぜひ歩いてみていただきたいところ。建物そのものに加えて、瓦の模様、銘などを見て歩くのも楽しい。
日本の伝統的な建物のほかに、1935(昭和10)年に建てられた旧越ヶ谷郵便局の建物を使った洋館もある。現在は診療所として使われており、ドイツ式の下見板張り、かわいらしいピンク色の建物はひときわ目立つ。
同じく街道沿いには古い倉庫を改装して作られたコミュニティカフェ803がある。内部にはレンタルキッチン、ギャラリースペースなどが設けられており、散歩コースや飲食店など地元情報のパンフレットも置かれている。ただし、残念ながら、飲食店マップには閉店の文字も多い。早くはかり屋に続く、人を集めるスペースの誕生が望まれるところだ。
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