江戸・明治・大正・昭和の建物が当時のまま残されている重伝建地区
広島県呉市豊町、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島の御手洗(みたらい)地区は、平成6年に文化庁の『重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)』に選定された歴史ある港町だ。江戸時代前期に瀬戸内海を渡る船舶の中継港として形成されてから昭和の初頭まで、島の土地をどんどん埋め立てながら発展を続けてきたため、まちの中には今も網の目のように細い路地が巡っており、それぞれの区画ごとに江戸・明治・大正・昭和と当時のままのまち並みが残されている。
まるで映画のワンシーンのように“のどかな港町”の風景が広がる御手洗地区だが、現在の島民数は約2000人。高齢化率は65%で、深刻な若者離れと建物所有者の代がわりが進み、まちの財産でもある古い建物たちを守ることは年々難しくなっている。
そんな状況下で御手洗地区のまち並み保存活動に取り組みはじめたのが、合同会社『よーそろ』の井上明さん(39)だ。井上さんはもともとは広島市の出身。観光ボランティアガイドとして訪れた御手洗のまちに魅せられ、この島で会社を立ち上げた。
昭和30年代に“冷凍保存”されたからこそ、当時の風景が今も残るまち
▲合同会社『よーそろ』の代表執行役員、井上明さん。「よーそろ」とは航海用語で船を直進させることを意味するそうだ。「もともとは南九州でサラリーマンをしていましたが、会社を辞めて妻の実家がある呉市へ移り住みました。家は呉市にあるのですが、週のほとんどを御手洗で過ごしています(笑)」と井上さん「ここ『御手洗地区』は、瀬戸内海を航行する船が風や潮の流れを読むための“風待ち・潮待ち港”と呼ばれた中継港でしたから、港の周辺には船員たちが休憩をとる茶屋や船宿が並んでいて、昭和に入ってからはいわゆる“色町”で賑わっていました。しかし、昭和33年に売春防止法が施行されて以降は島の商売がパタリと落ち込んでしまい、そのまま“冷凍保存”されたかのようにまちが手付かずの状態になりました。当時は島へ架かる橋もありませんでしたから、完全に孤島。だからこそ、近代的な文化が島へ流入することもなく、昭和30年代当時のままの風景が現在まで残されたんですね」
井上さんがボランティアガイドをはじめたのは2010年のこと。「たまたま養成講座があったから」というきっかけで広島の歴史や観光について学ぶようになり、御手洗のまちと出会った。
「静かで、自然の景観が残っていて、江戸期のまち並みだけでなく、明治・大正・昭和の建物も混在している…こんな小さなまちなのに、各時代の文化や伝統が“足し算”的にギュッと積み重ねられています。でも、その足し算は昭和の時代で終わってしまって、平成の足し算ができないまま今に至っています。そこが、この御手洗のまちのおもしろさなんですね。
まち並みだけでなく、ご近所の距離感も昭和のまま。人と人との関係性がものすごく近くて、それが僕には心地良かった(笑)。いつしかまちのガイドをするだけでなく、まちなみ保存活動にも大きく関わるようになっていました」
「観光客が休憩する場所が無い」がきっかけで船宿カフェをオープン
井上さんがボランティアガイドをはじめて半年が経った頃、ふと「このまちには観光客が休憩できる場所が無い」ということに気づいた。当時、御手洗を訪れる観光客はお年寄りばかり。ガイドの途中で「ちょっと疲れたから休みたい」と要望を受けても、観光客を案内できる店がまちには無かったそうだ。
「それともうひとつ、ここ豊町は『大長(おうちょう)ブランド』のみかんやレモンなどの柑橘類が自慢の特産物なんですが、それを味わう場所もありませんでした。“これは何とかしなくては…”と思ったのが『船宿カフェ若長』オープンのきっかけでした」
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井上さんが手がけた初の建物再生プロジェクト『船宿カフェ若長』は、御手洗のシンボルでもある『江戸の高燈籠』を眺める海沿いにある。築200年を超える2階建の建物で、江戸時代には伊予の国大洲藩・宇和島藩指定の船宿として使われていたという。
「僕がボランティアガイドをしていたとき、この建物は1階が展示コーナーで、2階は物置き。ずっと雨戸が閉まった状態でした。でも、2階に上がってその雨戸を開けてみたら、窓の外に真っ青な海が広がっていたんです。“ああ、これは江戸時代から変わらないこの場所の風景だ。この景色を皆さんに見せてあげたい”と思ったことが、カフェオープンの決め手になりましたね」
2011年、井上さんは建物のスペースを借用する形で、ご当地スイーツを提供する旅の休憩スポット『船宿カフェ若長』を開業。ここから少しずつ、御手洗地区の新しいまちづくり活動が動き始めた。
▲「この船宿の店主は若本屋長五郎という人で、屋号は『若本屋』。そこから『船宿カフェ若長』と名づけました。御手洗は港の商売で発展したまちですから、今でも場所を示すときは昔の屋号を使います」と井上さん。御手洗地区にはこの『若長』の他にも多くの各藩指定の船宿が存在していたが、船宿といっても誰もが泊まれる民宿ではなく、各藩の世話役を務める宿泊所が海沿いに軒を連ねていた。1階は家臣たちの宿泊スペース、2階は大名が休む部屋だったと考えられている。「薩摩藩の宿には屋久杉の柱が使われていたりして、船宿とは思えない豪華なしつらえも残されています。ちなみに、御手洗港は表向きは中継港でしたが、藩が幕府に隠れて外国船との密貿易を行う港としても利用されていたようです」まちのニーズに応えようと活動していたら、それがまちづくりにつながった
井上さんが、合同会社『よーそろ』を立ち上げたのは2015年のこと。『船宿カフェ若長』のオープンから4年が経った頃だった。
「僕の場合は、自分で起業したいというよりも、ニーズに迫られて会社をつくってしまったという感じでした(笑)。最初にカフェをオープンしたら、だんだん若い世代の観光客の方が増えるようになって、“地元のお土産を買えるお店はありませんか?”と聞かれるようになりました。そのときちょうど薩摩藩の船宿だった『脇屋』が空いていたので、そこをお借りして御手洗のストーリーがわかる雑貨を作って販売するようになったんです。
そうこうするうちに、今度は自転車ブームの影響で御手洗を訪れるサイクリストが増えてきました。でもサイクリストの空腹を満たせるようなリーズナブルな食堂がこのまちには無かった。そこで、“もともと御手洗港では七輪の上で鍋焼きうどんを作って船員さんたちに出していた”という昔話を地元の方から聞き、じゃぁ『鍋焼きうどん』の店をやろう、と。こんな感じでどんどん事業が展開していったので、会社組織化することを決めました」
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各地でまちづくりの取材をしていると、その中心的な人物というのはおしなべてパワフルな牽引力と情熱を持っている人が多い。しかし井上さんがユニークなのは、常にどこか一歩引きながら冷静な視点でこのまちのことを眺めている点だ。建物を再生するにしても、店を開くにしても、「やってあげる」のではなく「やらせていただいている」という感覚。そんな良い意味での“よそ者的な謙虚さ”が、地元の人たちからの信頼に結びついているように見える。
「僕が“地元出身の人間ではない”という点がかえって良かったのかもしれません。地元の方がこういうプロジェクトを牽引しようとすると、ついつい熱くなりすぎてしまいますからね(笑)。建物も、文化も、食材も、まちの中にあるものをそのまま使わせていただく。そして、ちょっとだけその見せ方を工夫してみる。それが僕ら“よそ者”にできるこのまちでの仕事だと思います」
まちづくり・まち残しに必要なものは『人』、まちの人材育成も大切
『よーそろ』の様々な取り組みもあり、御手洗地区ではここ数年のうちに約20棟の空き家改修が進んだ。シェアハウスも登場し、観光客だけでなく“伝統的なまちで仕事づくりにチャレンジしてみたい”という若い移住希望者も増えつつある。
「まちづくりは決して急ぐ必要は無いんです。そのまちの時間の流れに合わせてゆるやかに進めないとまちが壊れてしまいますから、大都会のような急成長は不要です。観光客も、移住者も、たくさん来てほしいわけではなく、このまちの文化や大切にしてきた営みを尊重してくれる人が少しずつ増えてくれれば、まちはきっと良くなります。
まちをつくり、まちを残していくために必要なものは、最終的には『人』です。今後はこのまちでチャレンジする人たちが外部との関係性を大切にしながら、まちぐるみで育つ仕組みをつくれたらと思っています」
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まちに小さな変化が起こることで新たなニーズが生まれ、そのニーズに丁寧に応えていくことが新しいまちづくりにつながっていく…歴史あるのどかな港町、御手洗地区の「ゆるやかなまちづくり」に今後も注目したい。
■取材協力/合同会社よーそろ
https://yosoro.com/
■船宿カフェ若長
https://yosoro.com/wakacho
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